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2006.09.28 (Thu)

2006バルト三国旅行記(その8) - 命のビザ(9月8日)

前回の記事の続きです。
カウナスを訪れる日本人のお約束の場所、杉原記念館へ行ってきました。


◆杉原記念館への道程

駅で列車の時刻を確認すると、杉原記念館へ向かう。地図を見ると、駅前から市街地に伸びるヴィタウト大通りの東側、山の上にあるようだ。東側の裏路地(バスターミナルの裏側)へ入り、上へ登る階段を探して歩く。閑静な住宅街で小奇麗な家が立ち並んでいる。ガケの上に建物が見えるが、上へ行く道が無い。
しばらく歩くとながーい階段を発見し、ゼェハァ言いながら上る。ヴィリニュスに荷物を置いてきて正解だった。階段を上ると右折して駅のほうへ戻る。日本語で「杉原記念館↑100m」と書いてある。近所の家からゴミを出しに出てきた来たおばちゃんが、にっこりと「あっちよ」と言う。日本人がたくさん来てるから、もうすっかり慣れっこなんだろうな。このあたりも住宅街で立派な家が多い。

杉原記念館はこじんまりとした普通の家だった。手入れされているので綺麗だが、外観は当時から変わっていないようだ。ただし、当時の写真に写っている入口に生えていた大きな木と家を囲む塀は無くなっていた。代わりに近年作られた「希望の門 命のヴィザ」と書かれた門が鎮座している。

杉原記念館
 これが杉原記念館。こじんまりした普通の家です。

記念館の前にある門
 記念館の前にある門。「希望の門 命のヴィザ」と書いてあります。


◆杉原千畝とは?

さて、杉原記念館とは何ぞや?とお思いの方もいるだろうから簡単に説明しておこう。この記念館は1939~40年にカウナスの日本領事館だった建物で、その時に領事代理としてここに赴任していた外交官が杉原千畝(ちうね)氏。

1940年7月半ばのある日、この地方都市(当時はリトアニアの首都だったが)にある小さな領事館が突如大勢のユダヤ人に取り囲まれた。別に襲撃されたわけではない。とりあえず代表の5人を招き入れて話を聞くと、彼らはオランダやポーランドから逃れてきたユダヤ人で、日本の通過ビザの発給を求めているという。1940年7月といえばフランスがナチス・ドイツに屈して降伏した直後。当然ポーランドやオランダなどとっくに占領されている。行き場を失った彼らはポーランドとソ連の間にある、1920年に独立したばかりの小国リトアニアに逃げてきた。
しかし、リトアニアは1922年にポーランドに首都ヴィリニュスを取られ(1940年時点ではソ連領)、1939年にはドイツに屈服してメーメル(現クライペダ)を割譲していた。さらにモロトフ=リッペントロップ密約の犠牲となり、ソ連軍が国内に駐留しており併合されるのは時間の問題だった。

このままここにいてはドイツが攻めてくるかもしれないし(当時独ソは不可侵条約を結んでいたとはいえ、多くの人がいずれは衝突すると確信していた)、ソ連の統治下でもどんな目に遭うか分かったものではない。そこで彼らはカリブ海にあるオランダ領アンティル諸島に逃げようとしていた。シベリア鉄道で極東へ、そこから日本を経てアメリカへ渡り、アンティル諸島へ行くというルートを取ることになる。バルト海は既にドイツ海軍の軍艦がウヨウヨしており、その出入口となるデンマークもドイツに占領されていたことから、リトアニアから船で脱出するのは無理。
というわけで日本の通過ビザが必要になるのだが、パリが陥落したことを知った彼らは「ナチスの強さは本物だ。このままここにいては危ない。一刻も早く脱出しなくては!」と領事館に殺到したわけだ。

領事館に押し寄せたユダヤ人
 領事館に押し寄せたユダヤ人達の写真。


数人分なら杉原氏の権限でビザを発行することも可能だが、数百人分ともなれば本省の許可がいる。というわけで本省に支持を仰ぐが、答えは「ダメ」。十分な旅費を有するなど規定の条件をクリアーしていればOKだが特別扱いは一切認めない、という回答だった。難民の彼らがそんな条件を満たしているわけがない。しかもソ連軍がやってきて「8月にリトアニアを併合するので、それまでに退去しろ。期日を過ぎた場合はあんたの身の安全は保障しない」と言う。
杉原氏は数日間悩んだ末に、「やはり彼らを見殺しにすることはできない」と決意し、本省に背いて独断でビザの発行を始めた。それから約1ヶ月間、昼夜を問わず一心不乱にビザを書き続け、国外退去を控えて移動したホテルでも彼はビザの発給を続けた。退去期限ギリギリの9月5日、杉原氏はついにリトアニアを去るが、駅のホームでも集まった難民たちにビザを書き続けたという。しかし、全員のビザを書き終えることができず、失意のままリトアニアを去る。

終戦時にルーマニア公使館で勤務していた杉原氏はソ連に捕まり、約1年間の収容所暮らしを経て日本へ帰国する。しかし、外務省へ戻るとリトアニアでの一件を理由に解雇を言い渡される。彼がビザを与えたユダヤ人達はその後日本に無事到着したが、突然大量の難民がリトアニアで発行されたビザを持って押し寄せたのだから、バレるに決まっている。


外務省を追われた杉原氏は職を転々とするが、得意のロシア語を生かして1960年からとある商社の駐在員としてモスクワで暮らしていた。そして1968年の夏、所用で一時帰国していた杉原氏の元にイスラエル大使館から電話が掛かってきた。「何事だ?」と思いつつ大使館を訪ねると、そこにはボロボロのビザを握り締めた男性がいた。彼の名前はゼホシュア・ニシュリ。あの時、杉原氏にビザを発給してもらった彼は第二次世界大戦を生き抜き、戦後はイスラエルの外交官となり日本に赴任していたのだった。
ニシュリ氏は言った。「ミスター・スギハラ、あなたは私のことを覚えていないかもしれないが、私は一日もあなたのことを忘れたことがない。この28年間、ずっとあなたを探していた」と。二人はその場で抱き合って泣いたという。

翌年、杉原氏はイスラエルに招待される。現地で待っていたのはゾラ・バルハフティック宗教大臣。カウナスで杉原氏と交渉した5人の代表のひとりで、なんと大臣にまで出世していた。ここで杉原氏はイスラエル政府から表彰を受け、さらに1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰され、1985年にはイスラエル政府から外国人に与えられる最高の賞である「ヤド・バシュム賞(諸国民の中の正義の人賞)」を授与された。
そして1986年、86歳で亡くなっている。


杉原氏が助けたのはユダヤ人(しかもリトアニア国籍ではない人達)で直接リトアニアには関係ないのだが、氏の行動はリトアニアでも高く評価されており、ヴィリニュスには氏の行動を称える像があるし、「スギハラ通り」という名前の道路もある。
なお、発行されたビザの正確な枚数は不明(最初はきちんと発行簿を作っていたが、あまりに枚数が多すぎて途中で止めてしまったから)なのだが、約6000人の命が助かったといわれている。

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