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2006.08.29 (Tue)

【世界の香ばしき国々】第19回:ミャンマー(Part3) - アウン・サン・スー・チーの闘い

前回の記事の続きです。

◆軍事政権 vs 民主化勢力
ネ・ウィンが退陣した2ヶ月後、ソー・マウン参謀長率いる国軍がクーデターを起こした。軍部は軍人を中心とする21人の有力者から成るSLORCを作り、これを中心に国家運営を始めた。SLORCは自らを民政移管までの暫定政権と規定し、2年後の1990年に選挙を行うことを約束したが、その一方で民主化運動を容赦なく弾圧して1,000人以上を殺害している。

ミャンマー民主化の闘士 アウン・サン・スー・チー1988年にミャンマーへ戻り、病気の母の看病をしていたスー・チー女史だったが、SLORCが民主化運動を弾圧するのを見て立ち上がった。なにせ英雄アウン・サンの娘にして先進国で長く暮らした経験を持つインテリである。抜群の看板と明晰な頭脳を生かして国内の民主化勢力をまとめあげると、1990年の総選挙に向けてNLDを結党した。
1945年生まれのアウン・サン・スー・チーは父の死後、母親が外交官だったことからその赴任先であるインドの高校・大学を卒業している。イギリスへの留学を経て、国連やブータン外務省で勤務した時期もあったが、主に母校オックスフォード大学で研究に従事している期間が長かった。
ミャンマーへ戻る前は、1985年から京都大学で父アウン・サンに関する研究をしていた。アウン・サンは旧陸軍の「南機関」の支援を受けて独立闘争の準備をしていたことから、彼に関する史料は実は日本にたくさんある。


1989年には共産主義体制の崩壊に伴い国名が「ビルマ連邦(Union of Burma)」に変更となったが、SLORCがすぐに「ミャンマー連邦(Union of Myanmar)」に変えてしまった。同時に、首都ラングーンもヤンゴンに改名されている。
「ビルマ」と「ミャンマー」の違いは先に述べたとおりだが、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリアなどはSLORC政権を承認しないという意味を込めて「ビルマ」の名称を使用し続けている。
日本?日本はSLORC政権の親日家パフォーマンスに引っかかって、真っ先にこれを承認してます、ええ。ミャンマー国軍のパレードは「軍艦マーチ」で始まることは有名だが、こういう演出にコロッと騙されたわけです、はい。それどころか、諸外国から散々批難されて2003年に援助を停止するまで、日本こそがミャンマーにとって最大の援助元だったのだ。
こんなチンピラ国家に金を出すことを決めた奴は誰だ!


1990年5月に行われた総選挙では、スー・チー女史が国家破壊法違反の容疑により自宅に軟禁されていたが、それでもNLDが議席の80%以上を獲得して圧勝した。当然だろう、国民は軍事政権による独裁にうんざりしているのだ。かつて一党独裁の下でビルマを支配したBSPPも「国民統一党」と改称して出馬したが、たった2.5%しか獲得できず惨敗している。
NLDの圧勝に危機感を覚えたのか、総選挙が終わるとSLORCは「民政移管のためには堅固な憲法が必要であることから、さしあたっては新憲法制定を優先させる」と言い出し、政権移譲を拒否して時期を引き延ばす戦術に出た。NLDがこれに反発すると、SLORCは活動家の逮捕や議員の資格剥奪、スー・チー女史の対話集会参加禁止などで抑え込みにかかった。


タン・シュエSPDC議長1992年にタン・シュエ将軍がSLORC議長に就任すると新憲法策定のための制憲国民会議が招集されたが、そのメンバーのー殆どがSLORC関係者によって占められていたことから、NLDはこれをボイコットした。
以後約5年間にわたり、NLDは1990年の総選挙結果に基づく議会の開催を幾度もSLORCに申し入れたが、SLORCは応じる気配を見せなかった。そこで当選した議員の過半数から委任を受けて、その代表者10名からなる国民議会代表者委員会(CRPP)を1998年に発足し、議会の代行開催に踏み切った。CRPPでは独自の新憲法草案を作成し、SPDC(1997年にSLORCより改名)が出す各種法令に正当性がないことを個別具体的をあげて指摘するなど対決姿勢を強め、しまいにはキン・ニュンSPDC第1書記を犯罪行為で司法当局に訴えた。もちろん、訴えを出したというだけで当局には相手にされないのだが、さすがのSPDCもこれにはカチンと来たらしく、NLD幹部を片っ端から逮捕することで報復している。

その後は2003年まで、「NLDは民主化を要求し続けるが、SPDCはこれを無視、度が過ぎると判断するとすぐに逮捕で報復」という構図が続き、SPDCは事あるごとに諸外国からボロクソに批難されるのだが、タン・シュエが動じる様子は全く無かった。
スー・チー女史は1989年以来、一時期を除いてその殆どは自宅に軟禁される状態が続いている。SPDCは彼女を「脅威」というより大物ではあるが「厄介者」と見ており、正直どう取り扱ったらよいのか分からないようである。何ら武力的な後ろ盾を持たない彼女など、いつでも刑務所にぶち込んだり国外追放することは可能なのだが、1991年のノーベル平和賞受賞によって今や彼女は「ミャンマー民主化の象徴」となっており、下手なことをすればNLDや諸外国が騒ぎ出してしまう。
さしあたっては現政権の基盤が揺らぐような脅威ではないため、手荒なことはせず彼女が諦めるか自宅で朽ち果てるのを待っているのであろう。

《Part 4につづく》

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