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2006.08.28 (Mon)

【世界の香ばしき国々】第18回:ミャンマー(Part2) - ビルマ式社会主義 = 引きこもり + 貧乏の加速

前回の記事の続きです。

◆建国からして、いわくつき
ミャンマー南部には古くからモン族やピュー族という民族と言われる民族が点在して暮らし、やがて小さな都市国家を建設するようになった。これらの民族は仏教を信仰し、城壁で囲まれた集落とその周囲に水田を作り稲作農業を発達させた。その名残りはフモーザー遺跡などにあるサンスクリット語やピュー語で書かれた文化遺産に見いだすことができる。しかし彼らは南詔などの侵略とビルマ人の移住によって統一国家を作ることなく滅亡した。

中国の雲南地方から侵入してきたビルマ人は、9世紀になるとパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、その後はミャオ族やタイ系のシャン族の王朝が建った時代もあったが、18世紀になるとコンバウン王朝が生まれてビルマ人が再びミャンマーを支配した。コンバウン王朝はミャンマーのみならずタイのアユタヤ王朝を滅ぼし、インドのアッサム地方まで征服し、さらに1818年には当時インドを支配していたイギリスに対してベンガル地方(インダス川下流のデルタ地帯)の割譲を要求している。
イギリスがこれを拒否すると、列強の恐ろしさを知らないマヌケなコンバウン王朝はイギリスに対して戦争を仕掛けるが、返り討ちに遭って滅ぼされたうえに、1886年にはイギリス領インドの一部として併合にされてしまった。(英緬戦争)


ビルマ建国の父、アウン・サン1940年から日本のインドシナ侵攻が始まると、独立運動家アウン・サンは日本の支援を得てビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦いイギリスを追い出すと、1943年に「ビルマ国」を建国して自らは国防大臣に就任した。しかし、太平洋戦争で日本の敗色が濃厚と見ると、アウン・サンは1945年にクーデターを起こし、イギリスに寝返って日本軍をミャンマーから追い出した。
日本には勝利したものの一度寝返っているだけにイギリスの心証は悪く、ミャンマーは再びイギリスの植民地にされてしまった。また、アウン・サンも、イギリスと独立に向けた交渉を行っていた1947年に国内の政敵によって暗殺されてしまった。

それでも、1947年にインドやパキスタンが独立を果たすとミャンマーも独立させてもらえることになり、1948年に「ビルマ連邦共和国」が建国された。
しかし、北部に住む少数民族カレン族が独立闘争を行い、共産党は政権を離脱してゲリラ活動を行うなど、独立直後から不安定な状態が続いた。1949年には中国の国共内戦に破れた国民党の残党が国境を接するシャン州(ミャンマーの東部)に流れ込み、ここを拠点として共産党に対するゲリラ活動を行い始めたことから、ビルマ政府は軍を差し向けてこれを一掃している。また初代首相ウー・ヌが仏教を優遇する政策を行ったため、キリスト教徒が多い北部や東部の州の反発を招き、不穏な状態は一向に改善されなかった。
このように、ビルマは建国直後から不安定な状態が続いたため文民統治が徹底せず、徐々に軍部の存在感が増していった。


◆ビルマ式社会主義 = 引きこもり + 貧乏の加速
右がネ・ウィン、左はイギリス海軍元帥マウントバッテン伯爵1958年に与党が内紛による分裂で弱体化すると、ネ・ウィン将軍率いる国軍が1962年にクーデターを起こし、閣僚・議員を逮捕して実権を掌握した。ネ・ウィンは自らの独裁政権に正統性を持たせるため、マルクス主義と仏教を掲げる政党BSPPを創設し、「ビルマ式社会主義」なる政治を追及しはじめた。1974年には新憲法を制定し、国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」に改め、自らは大統領に就任した。
軍事政権が共産主義を掲げるのも相当ヘンだが、同時に仏教を掲げるというのはもっと変。こいつもソマリアのバーレのように自分の独裁を正当化したいだけで、共産主義の何たるかを分かっていないバカタレに違いない。

そんなバカタレの独裁政治だけに、「ビルマ式社会主義」なるものは元から貧弱なこの国の経済を崩壊させた。ネ・ウィンは事実上の鎖国主義を貫いたため、諸外国との貿易は殆ど無いうえに最低限の貿易でさえ赤字続きとなり、外貨獲得手段を持たないこの国は累積債務に苦しみ、国民の生活は地を這うような水準のままだった。
ネ・ウィンは1981年には大統領を退いたが、引き続きBSPP議長として傀儡大統領を操る院政を続けた。

1960年代から問題となっていたインフレは年を追うごとに悪化し、1987年には高額紙幣廃止例が打ち出され、流通している紙幣の80%が紙くずと化すほど悪化した。とても計画経済を導入している国とは思えない。
さすがにこれには国民も怒り、1988年になると学生を中心に民主化を要求するデモが始まった。政府は治安部隊を差し向けてこれを鎮圧するが、その際に100人以上の死者が出てしまい、怒り狂った国民の民主化闘争は激化した。こうなってはミャンマーを最貧国まで叩き落したネ・ウィンだけに、一気に求心力を失い議長を辞任する羽目となった。


◆ラングーン爆弾テロ事件
余談だが、ネ・ウィンは似非共産主義者だけに外交面で中ソにべったりということはなく、北朝鮮と韓国の両方と国交を結んでいたりした。そのような煮え切らない態度ゆえにソ連から援助も貰えず貧乏暮らしが続いたわけだが、インドなどのように非同盟中立諸国として生きるのもひとつ選択肢なので、まぁそれはそれでいい。

これが北朝鮮に暗殺されかけた韓国大統領 全斗煥1983年、当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権はソウル・オリンピック開催の支持と、それに対する選手団の派遣を説得すべく、これら非同盟中立諸国にも活発に働きかけを行っていた。
ビルマは北朝鮮とも国交があるだけに、不支持はもちろん選手団すら派遣してもらえない可能性がある。それだけに韓国政府はこんな取るに足らない貧乏国に並々ならぬ力を入れて説得に当たり、1983年10月には全斗煥大統領をはじめとする多くの閣僚がビルマの首都ラングーンに乗り込んで来た。

ところが、自国の孤立化につながりかねないこれら一連の動きを苦々しく思った北朝鮮は、全斗煥を暗殺することを計画する。全斗煥大統領一行がアウン・サン廟を訪問することを知った北朝鮮工作員は屋根裏に遠隔操作で爆発する地雷を仕掛け、献花に訪れた一行を廟もろとも吹き飛ばした。全斗煥自身はたまたま到着が遅れて難を逃れたが、現職の閣僚4名が死亡する惨事となった。
ビルマ警察は銃撃戦の末に死に損ねた工作員2名を逮捕し、北朝鮮の犯行であることが明らかになった。このときのビルマ政府の怒りは尋常ではない。主権を侵害されたうえに、メンツは丸つぶれ。そのうえ建国の父と慕うアウン・サン将軍を奉る廟を爆破されたのだ。ビルマ政府は北朝鮮との国交を断絶するのみならず、国家承認の取り消しという極めて厳しい措置を取った。

もし、チェチェンのゲリラがレーニン廟を吹っ飛ばそうものなら根絶やしにされかねないし、世界貿易センタービルを吹っ飛ばしたアルカイダを匿ったタリバンは壊滅させられた。世の中、限度というものがあるのだ。それが分からず、敵ではない勢力を敵にしてしまうところが実に朝鮮人らしい。
もっとも、最近になってミャンマー政府は中国のとりなしで北朝鮮との国交を回復したが。

《Part 3につづく》

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