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2006.06.28 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第14回:中央アフリカ(Part1) - キチガイに囲まれた可哀想な国

お待たせしました。久しぶりの「香ばしき国々」シリーズの更新です。
DVDやらサッカーにかまけていたら、いつまにか一ヶ月以上経っていました。
今回は「中央アフリカ共和国」が登場します。

◆地域名じゃなくて、そういう名前の国があるんです。
「中央アフリカ共和国」はその名前のとおりアフリカのほぼど真ん中、コンゴ盆地の北端にある最貧国。北にチャド、東にスーダン、南にコンゴ民主共和国(旧ザイール)と香ばしい奴らに囲まれているだけあって、この国も大変香ばしい。

中央アフリカ国旗この国の産業といえば木材の伐採、コーヒーや綿花の栽培、それに金やダイヤモンド、ウランの採掘。しかし、この国は内陸国なので近隣諸国を経由しなければ何も輸出できない。
ただでさえ輸送コスト高というハンディを抱えているのに、その周辺諸国はことごとく政情不安な国ばかり。周辺国で紛争が起こるたびに交易に支障が出たり難民が流れ込んで来たりするうえに、中央アフリカ自身も政情不安な時期が長く続き、幾度も経済的な大ダメージを受けた。そのおかげで、元から貧しいこの国は一層貧しくなり、今では公務員の給与も支払えないほど国家財政が悪化している。

この国が内乱状態に陥ってズタズタにならずに済んでいるのは、ひとえにフランス軍を中心とする中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)軍が駐留しているから。元宗主国様の軍隊に手を出すとどういうことになるか、中央アフリカ国民もよく分かっているらしい。

中央アフリカ共和国面積は62万3000k㎡(日本の1.7倍でウクライナより少し大きい)、人口は394万人(2004年)、一人当たりのGDPは370$。
この国には砂漠は殆ど無く、国土の大半が600m級の台地にあるサバンナと熱帯雨林。夏は雨季、冬は乾季と気候がはっきりしているとはいえ、雨量が異常に多いわけでも旱魃があるわけでもない。高地なので昼夜の気温差は激しいが、領内にはウバンギ川やシャリ川といった大河があるので、灌漑施設を整備して真面目に農業をやればそれなりにやっていけそうな気がする。しかも、天然資源があるのに、どうしてこんなに貧しいのだろうか。アフリカには、こういう「やる気の無い国」が多すぎる。


もっとも、中央アフリカは「やる気が無い」どころかイカレた国で、独立以来ずっと選挙とクーデターを繰り返す歴史が続いている。以前紹介したカリブ海の小国ハイチほど酷くはないが、この国はハイチよりも貧乏なうえに、ボカサ皇帝という最強の勘違い野郎が帝政を敷いた歴史を持つ。

このボカサ皇帝、殺した人間の数ではハイチのパパ・ドックことフランソワ・デュバリエ大統領には負けるが、1977年には当時の中央アフリカの国家予算の2倍に匹敵する2,500万ドルを費やして豪華な戴冠式を行って皇帝に即位しており、贅沢三昧で国民に塗炭の苦しみを味合わせた点ではパパ・ドック以上の悪者。'70年代という時代に、アフリカの山奥にある馬鹿国の成り上がりの独裁者が皇帝を自称したところで世界中から嘲笑されるだけなのだが、一体何が彼をそのような愚行に駆り立てたのか。
そういえば、ハイチのアリスティド前大統領が失脚した際に逃亡したのは、この中央アフリカだった。類は友を呼ぶ、というやつだろうか。


◆フランス植民地の時代
この国はコンゴ盆地の北端にあるのだが、コンゴ王国の領地ではなく、チャドにあったカネム・ボルヌ帝国の影響下にあった。しかし、18世紀になるとポルトガル人やアラブ人がこの地で奴隷狩りを行い、空いた土地にスーダンなどから他民族が移住してきて19世紀後半にはエジプトの影響下に置かれることとなった。
フランスは17世紀半ばから西アフリカで積極的に植民地経営を行っていたが、20世紀初頭になると、その南にあるコンゴ盆地西部(現在のコンゴ共和国やガボン)にも進出してきた。フランスはさらに北部にも進出し、1906年にはエジプトを追い出してコンゴ盆地北部をフランス領赤道ギニアのウバンギ・シャリ植民地とした。

ウバンギ・シャリに入植したフランス人は黒人奴隷を使って天然ゴムや綿花などを栽培していたが、この地にダイヤモンドや金が埋蔵されていることが分かると、それらの採掘に力を入れるようになる。
フランスの植民地でも西アフリカ(現在のセネガルやコートジボワールなど)では黒人に教育を与え、徴兵などの義務と引き換えにある程度の権利も付与する政策が取られたが、赤道アフリカではあまり積極的に行われず、徴兵も無いかわりに人口が減少するほど激しく搾取された。


第二次世界大戦でフランスがドイツに制圧されると、フランスには親独政権のヴィシー政府が樹立された。一方、対独徹底抗戦を唱えるシャルル・ド・ゴール一派はイギリスに逃れて自由フランス政府を組織した。
自由フランス政府はロンドンに亡命している身なので、領土も持たず兵力もわずか。しかし、そんな自由フランス政府といえども、本国を奪還するためにはイギリスに頼るばかりではなく自分でも兵を調達して戦う必要があった。自由フランス政府の頼みの綱は植民地。当時のフランスはイギリスに次ぐ世界第2位の植民地大国で、世界各地に1,200万k㎡の土地と約7,000万人の人口を有していた。ここから生み出される資源や人材を活用すれば、たとえ本国を失ってもドイツと戦うことができる。

ところが、各植民地の総督達が支持したのはヴィシー政府。本国を支配しているのはヴィシー政府であり、さしたる抵抗もせずにあっさりと逃げ出した連中が作った自由フランス政府に失望するのは無理も無い。
しかし、ウバンギ・シャリは自由フランス政府につくことを選択した。といっても、積極的に支持したわけではなく、かつてドイツの植民地だったため反ドイツ感情が強い東隣のカメルーン(当時は英仏の委任統治領)や、ナチスの人種差別政策を嫌った北隣のチャド(当時はフランス領赤道アフリカのチャド植民地)が自由フランス政府を支持したから。周辺の大国が揃って自由フランス政府についたのでウバンギ・シャリもそれに同調した、というだけのこと。

後に皇帝となって世界中から失笑を買ったジャンベルデ・ボカサも、自由フランス軍に参加して第二次世界大戦に従軍している。大戦終結後はインドシナ戦争にも従軍し、最終的には大尉まで出世した。当時フランス軍に所属していた黒人の中ではこれが最高位だったらしいので、フランス領の植民地出身の軍人として見ればボカサは優秀だったのだろう。

《Part2につづく》

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