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2006.04.26 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第12回:ニカラグア(Part4) - コントラとの戦い

前回の記事の続きです。
ソモサ政権が崩壊したニカラグアですが、それでも平和は訪れません。今度はアメリカに敵視され、FSLNに不満を持つ右派との内戦となります。

◆現実主義路線を打ち出すも、挙国一致体制はすぐに崩壊
ソモサ一族の圧政に加え革命によってニカラグアはすっかり荒れ果ててしまった。反ソモサ大連合は臨時政権を作り早速国家再建に乗り出したが、タチートが金を持ち逃げしていたため国庫は空っぽだった。いや、空っぽどころかタチートはゲリラを倒すためにメチャクチャな借金をしており、新政府はいきなり16億ドル対外債務を抱えてスタートする羽目になった。
主要メンバーは援助要請のため各国を訪問し、日本にもペドロ・ホアキン・チャモロの未亡人ビオレータ・チャモロがやって来た。アメリカとも交渉を行い7,500万ドルの援助を得たが、アメリカが共産主義者FSLNのいる新政府に喜んで援助するわけがなく、同時にエルサルバドルのドゥアルテ政権への援助を開始してニカラグアを牽制している。当時のエルサルバドルはニカラグア革命が飛び火して、親米右派政権と左翼ゲリラ「ファラブント・マルティ民族解放戦線(FMLN)」による内戦に陥っていた。
また、新政府はタチートに対しても持ち逃げした金の返還を迫るが、タチートがそんなものに応じるわけがない。FSLNは報復として刺客を放ち、アメリカ経由でパラグアイへ亡命していたタチートを1980年に暗殺している。

さて、ソモサ打倒を果たした新政権のメンバー達はどのような国を目指すか協議に入った。
FSLNはキューバ革命の影響を受けて誕生した組織であり、当然キューバ型の共産主義国を目指している。しかし、ニカラグア革命はFSLNが単独で成し遂げたものではなく、民主解放同盟などの資本家や中産階級、さらには教会関係者も大きな役割を果たしており、当然新政府には様々な組織や階層の人間が参加している。
普通に考えれば、国家警備隊亡き後最大の武装勢力であるFSLNがプロレタリアート独裁を掲げて血の粛清を行ってもおかしくないのだが、彼らはそのようなことはしなかった。フォンセカ亡き後FSLNのリーダーとなったダニエル・オルテガは「第二のキューバを目指すのではなく、新しいニカラグアを作る」と宣言し、露骨に親ソ親キューバを掲げるようなことはせず、多くの人が受け入れられる現実的な路線を採ることとした。そのため、新政府の基本方針はかなり穏やかなものになった。
政治体制はマルクス主義にこだわらず複数政党制による多様性を認め、経済政策は市場経済を導入しつつも国有企業・国営化農場を中心とする社会主義的要素を織り込み、貧富の格差が拡大しないように配慮した。さらに外交方針は非同盟を基本とし、東西両陣営とも等しく付き合うこととした。当時のニカラグアが置かれていた状況を考えると妥当なものであり、現実に即した点であることは評価に値する。


新政府はこの方針を元にあらゆる分野でニカラグアの再建に取り組んだ。
金融機関やソモサ一族が保有していた企業を接収し国営企業とした。大規模な国営農場を建設するのみならず、農地改革を行い小作農たちに土地を分け与えた。その際にも有効利用されていない土地だけを国有化して配分するなど、大地主に対する配慮も欠かさなかった。医療費を無料にして貧しい人への医療を確保し、国民への教育も充実させて識字率を50%から90%以上まで向上させた。このように、資本主義と共産主義の長所を組み合わせることによって一定の実績を残した。
しかし、どの集団にも配慮するということは政策が中庸なものになりがちであり、誰もが妥協できる可能性がある一方で、同時に誰もが満足できず反発する可能性がある。ニカラグアでもそれが現実となり、農地改革を巡って地主層と小作農層で激しい対立が起こった。前述のとおり政府は地主にも配慮した温和な政策を打ち出したが対立は収まらず、これがきっかけとなって資本家を支持基盤とするビオレータやアルフォンソ・ロベロなどが政府を去った。

その後、FSLNは左派の諸政党とタッグを組んで多数派となり、自らがイニシアチブを取って政権運営を行うようになった。こうなると資本家や富農を支持基盤とする保守派は不満が溜まる一方で、次々と政府を去って行った。
また、東部のモスキート海岸に住む少数民族がFSLN支持派と反対派に分かれ、反対派はホンジュラスを拠点にゲリラ活動を行うようになった。この地域はかつてイギリスの保護領だったことから、住民はスペイン語ではなく英語を話すなど他のニカラグア人とはかなり異なっている。サンディニスタ政権もそれを踏まえて一定の自治権などを与えていたのだが、それは反対派にとって満足できるものではなかった。サンディニスタ政権は反対派の浸透を恐れ、少数民族を丸ごと移住させようとしたのだがかえって猛反発を生み、ゲリラに加わる者が後を絶たなくなった。


◆レーガン政権とコントラとの戦い
第40代アメリカ大統領ロナルド・レーガン1981年にアメリカ大統領に就任したロナルド・レーガンは前任者カーターの弱腰外交を批難し、「強いアメリカ」をスローガンに強気の外交政策を掲げた。カーターの人権外交はCIAを弱体化させ、結果としてイラン革命やテヘランのアメリカ大使館占拠事件などを許してしまったのだから、その反動から強硬派が台頭するのは当然だった。
当時は東西冷戦の真っ只中。アメリカは、高々と親ソ反米を掲げる「真っ赤」な共産主義国キューバはもちろん、穏やかな社会主義を指向する「赤風味」程度のニカラグアの存在すら許さない。宿敵FSLNはキューバとつながりのある共産主義者のうえに、その親分のオルテガはホモでロリコンなのだ。キリスト教右派のレーガンがこんな男を許すわけがない。

レーガン政権はエルサルバドルの内戦が簡単には収まりそうもないと知ると、「ソ連やキューバがニカラグアを通じてFMLNを支援している」という内容の報告書(エルサルバドル白書)をまとめ上げて援助を停止し、さらに1982年になると露骨にニカラグアを潰しをかかってきた。
しかし、アメリカはベトナム戦争で酷い目に遭っていることから正規軍の投入には消極的だった。そこで、ニカラグア国内で反政府活動を行っていたソモサ政権の残党や地主層などをかき集めて「コントラ(コントラ・レボルシオン=反革命軍)」を結成させ、彼らに豊富に武器を与えてゲリラ活動を行わせた。コントラにはチャモロ一族やロベロなど、かつてFSLNと共にソモサ政権と戦った人達も多く加わった。

再び内戦状態に突入したニカラグアでは、サンディニスタ政権が戦時下政策を次々と打ち出す。1982年には非常事態宣言を発動してマスコミへの統制を強め、翌年には徴兵制を導入した。コントラとの戦闘により軍事費は増大し、教育費や社会保障費は削減された。
コントラはアメリカから軍事援助を受けているだけあってゲリラにしては圧倒的な火力を有しており、これに対抗するためサンディニスタ政権は非同盟を原則とする外交方針をかなぐり捨ててソ連やキューバに接近していった。その甲斐あってコントラの猛攻を撃退したが、するとコントラは各地で破壊工作や要人の拉致・暗殺などを行うようになり、内戦は泥沼の様相を呈してきた。


しかし、これを見かねた周辺国(メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ)の首脳がパナマの保養地コンタドーラ島に集まり、ニカラグアを含む中央アメリカ諸国の紛争解決について話し合った。ちなみに、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラは内戦真っ最中であり、ホンジュラスはアメリカと共にコントラを支援する立場、コスタリカは中立の姿勢をとっていたことからこれ出席していない。また、ベリーズは当時グアテマラが領有権と独立の無効を主張していたため、出席というか招待されていない。
この4ヶ国は「コンタドーラ・グループ」と呼ばれ、「ラテンアメリカの問題はラテンアメリカで解決する」との方針を掲げてニカラグアに調停案を提示してきた。

当初、ニカラグア政府はこの提案に猛反発した。サンディニスタ政権にしてみれば、これは既得権を取り上げられたソモサ政権の残党と自らの意思で政権を去った保守派が吹っ掛けてきた喧嘩であり、キューバのように赤い旗を振ってアメリカを挑発したわけでもないのに、周辺国に「喧嘩両成敗である」などと言われて納得できるわけがない。
しかしコントラは最盛期には1万人を超えた大規模な武装組織であり、人口500万人程度の小国でこれを壊滅させるのは不可能であり自殺行為であった。サンディニスタ政権はやむなくこれを受け入れる声明を発表した。慌てたのはアメリカである。サンディニスタ政権とコントラが手打ちしてしまえば、アメリカが介入する余地が無くなるだけでなく、中央アメリカの覇権をコンタドーラ・グループなどに奪われかねない。アメリカはコントラに圧力を掛けて調停案を拒否させると、一層激しくニカラグアを締め上げにかかった。


◆絶対絶命のサンディニスタ政権
1983年、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がニカラグアを訪問したが、サンディニスタ政権に多数の教会関係者がいることに対して「聖職者は革命に参加してはいけない」と批判的な説教を行い、戦死者へ祈りを捧げることを拒否した。聖職者は政治はもちろん戦争への参加はご法度なのに、ニカラグアの教会関係者達は自ら銃を取ってソモサ政権と戦ったのだから、破門されたり叱られるのは当然である。しかもバチカンの宿敵である共産主義者FSLNと共に戦ったのだから。この後、ニカラグア大司教はアメリカとバチカンの圧力に負け、サンディニスタ政権に加わっている教会関係者を破門している。

こんな状況ではあったが、ニカラグアでは1984年にソモサ政権打倒後初の大統領選挙と議会選挙が行なわれた。国内が安定するまで選挙は無理という理由で延期されていたが、もはや革命から5年が経過し、民意を問う必要があった。コントラとの戦争で国内経済は疲弊し徴兵制の施行など国民の負担は増していたが、それでも貧困層はFSLNを支持し、得票数67%の圧勝でオルテガが大統領に当選、議会でも議席の2/3を獲得した。
オルテガ政権は革命直後に掲げた3つの基本方針を明記した新憲法を公布し、対立していた東部の少数民族とも和解を果たした。


名実共に民主政権が樹立されたニカラグアだが、それでもアメリカの嫌がらせ止まらない。経済援助の凍結はもちろん原油の供給停止など外交的圧力を掛け続けたうえに、CIAがコントラを使って高速道路や石油備蓄施設などを破壊している。さらに1985年には全面禁輸措置を行い、大混乱に陥ったニカラグアでは年300%を超えるインフレが発生した。1988年にはインフレは20,000%にも達し、通貨コルドバは紙クズと化した。
サンディニスタ政権は徹底した緊縮財政で対応するが、街には失業者が溢れ国民の不満は高まる一方。進退極まったオルテガはソ連を訪問してゴルバチョフ書記長から2億ドルの援助を引き出すことに成功するが、これによってアメリカ議会の穏健派まで敵に廻してしまった。
サンディニスタ政権は国連やハーグの国際司法裁判所にアメリカの暴挙を訴えたが全て無視され、しまいには国境付近での小競り合いが原因で中立だったコスタリカも反ニカラグアに転じてしまい、コントラは北のホンジュラスからのみならず南のコスタリカからも侵攻するようになった。

絶対絶命に陥ったサンディニスタ政権だったが、1986年にコスタリカでオスカル・アリアスが、グアテマラでビニシオ・セレソが大統領に就任すると風向きが変わってきた。一度はポシャったコンタドーラ・グループによる和平交渉だったが、アリアスやセレソの働きかけによって交渉が再開されることになった。セレソは国内では私服を肥やすことばかりしたなどと評判が悪いが中南米の和平には尽力したほか、アリアスも厳正中立と善隣外交を掲げてコスタリカ領内からコントラを追い出し始めた。


さらに、アメリカで「イラン・コントラゲート事件」と呼ばれる大スキャンダルが発生した。
その中身というのが、「アメリカはイランに武器を密輸して、その代金をコントラへの援助に充てている」というもの。当時はイラン・イラク戦争の真っ只中で、アメリカは親米だったパーレビ国王を追放してイスラム原理主義国と化したイランを倒すため、サダム・フセインのイラクに援助を行っていた。ところが、アメリカ議会でコントラ向けの援助予算が否決されたことにより金の工面に困った国家安全保障会議(NSC)が、よりによって敵国イランに武器を横流ししてその資金を稼いでいたというのだ。これが事実とあってはレーガンの首が飛んでもおかしくはない大スキャンダルだが、NSCの担当者が沈黙を保ったため真相は闇に葬られた。
しかし、これによってレーガン政権はアメリカ国内はもちろん国連総会でも散々突き上げられ、さらに国際司法裁判所でもアメリカの介入が国際法違反との判決が出てしまい、これまでのようなニカラグア潰しを続けることが不可能となった。

《Part5につづく》

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