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2009.08.09 (Sun)

【世界の香ばしき国々】第50回:ローデシア(Part4)

前回の記事の続きです。

◆ローデシア・ニヤサランド連邦

1938年に第二次世界大戦が勃発するとローデシアからも多くの国民がイギリス軍に加わって戦場(主に東アフリカ戦線)へ向かい、残った国民は物資の生産に尽力してイギリスを支えた。当時のイギリスは兵員や物資の多くをインドやアフリカに依存しており、植民地がイギリスの戦争遂行を支えたと言っても過言ではなかった。
戦争継続には植民地の協力が不可欠なことから、当時の首相ウィンストン・チャーチルは1941年に『大西洋憲章』の中で「国民が政治体制を選択する権利の尊重と、強奪された主権の回復」について宣言を行った。これは別にドイツや日本に占領された地域の解放のみを意味している訳でなく、イギリスが持つ植民地も含まれている。要するに「戦争に勝ったら独立させてやるから協力しろ」ということである。

イギリスやフランスは第一次世界大戦が終わった時点でボロボロに疲弊しており、アメリカやソ連が参戦したおかげで第二次世界大戦に勝利したようなもの。かつて七つの海を支配し植民地帝国として世界に君臨した英仏の栄華は、1945年のベルリン陥落と広島・長崎への原爆投下によって終わりを告げた。第一次世界大戦まで欧州列強を中心に動いていた世界秩序は、これ以降アメリカとソ連によって牛耳られることになる。
帝国主義の時代が終わったことを悟った英仏は各植民地に独立を許し、1943年にレバノン、1946年にシリア、1947年にはインドやパキスタンが次々と独立した。そして仏領インドシナや蘭領東インドでは独立戦争が始まっていた。もちろんアフリカでも「戦争に協力したんだから独立させろや、ゴルァ!」という声が高まり、各植民地で独立運動が盛んになりつつあった。


戦後のローデシアでは復員軍人などの入植者が進んで白人人口が増加し、それにしたがって外国からの投資も増えて農業のみならず製造業も盛んになった。すると白人入植者達は「南ローデシアの農業と製造業、北ローデシアの鉱業、ニヤサランドの安い労働力、この3つを組み合わせたら自前の経済圏を構築できるのでは?」と考え、これら3つの地域を統合した自治領の創設を主張するようになった。
ニヤサランドはローデシアの東側にあり、インド洋方面から入り込んで来たアラブ商人が奴隷狩りなどを行っていたが、イギリス人宣教師が現地人を味方につけてアラブ商人を叩き出し、1851年にイギリスの保護領となっていた。しかし、農業も鉱業も未発達な貧しい地域だったため、ローデシアへの労働力供給元となっていた。ニヤサランドの黒人もローデシアと同様バントゥー語群系だが、アラブ人の影響下にあった歴史からイスラム教徒が多い。

ローデシア・ニヤサランド連邦旗本音では「できるものなら植民地を手放したくない」と考えていたイギリス本国は、これらの地域が黒人国家としてバラバラに独立してしまうよりはマシと考え、白人入植者の提案に乗ることにした。
そして1953年、これらの地域は『ローデシア・ニヤサランド連邦(中央アフリカ連邦)』としてイギリス領内の自治領となった。南ローデシア同様、独自の行政組織や議会、通貨を持ち通商協定などは自由に結べるが、外交権は無い。
ローデシア・ニヤサランド連邦はローデシア南部の白人入植者の思惑によって作られたものであることから、連邦の政治は何事においても南ローデシア主導で進んだ。北ローデシアの銅とニヤサランドの安い労働力を手に入れた南ローデシアは急成長する。

北ローデシアの都市ルアンシャにある鉱山
北ローデシアの都市ルアンシャにある鉱山


1950年代後半になると独立運動の波はアフリカにも押し寄せ、イギリス領ではガーナが、フランス領ではギニアが1958年に独立を達成した。
比較的諦めが早かったイギリスは「分かったよ、独立させてやる。だけどこれからも仲良くしようぜ」と訴え、独立した国の殆どを英連邦内に引き止めることに成功した。一方、往生際の悪いフランスは各植民地を「フランス共同体内の自治共和国」という形で独立させ、自治権を持つ準独立国とすることで手を打とうとした。
イギリス方式は各植民地が完全な主権国家として独立するのに対し、フランス方式は自治共和国レベルなのだから当然外交権は無いし、教育や公安など重要な部分は本国の管轄となる。結局、独立に燃える黒人は自治共和国レベルでは満足せず、これらの国は1960年前後に次々と独立することになった。

ローデシア・ニヤサランド連邦にもこの動きが飛び火した。この国はイギリス領内の自治領レベルであるうえに、30万人の白人が900万人の黒人を支配する国。政治は南ローデシア優先で、おまけにアパルトヘイト政策まで採っている。
南ローデシアの白人ばかりが肥え太り、黒人の生活水準は一向に向上しなかったことから、1959年にはニヤサランドで大規模な暴動が起こった。イギリス軍はすぐにこの暴動を鎮圧したものの、ニヤサランドは未開なうえに白人が殆どいない地域なので、他地域に反乱が飛び火するのを防ぐため連邦から切り離して独立させることにした。
こうしてニヤサランドは1962年に自治領となり、さらに1964年に『マラウイ共和国』として独立した。

白人が少ないのはローデシア北部も同じ。北部の主力産業は鉱業なので、黒人労働者は鉱山周辺にまとまって住んでいることが多く団結しやすい。1956年には大規模なストライキが発生して非常事態宣言が発令されたこともあった。しかし、北ローデシアでは黒人の政治団体のいがみ合いが続いたうえに、大規模な銅鉱山があることからニヤサランドのようにあっさり独立が認められることは無かった。
前述のとおり各植民地は1960年前後に次々と独立していくのだが、イギリス領でも1961年にタンザニアが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが独立を達成した。元々白人の少ない北ローデシアで独立運動を押さえ込むのはもはや不可能となっていた。
結局、北ローデシアも1963年に自治権を獲得し、1964年に『ザンビア共和国』として独立した。ローデシア・ニヤサランド連邦はわずか10年で崩壊した。

マラウイ共和国大統領カムズ・バンダ   ザンビア共和国大統領ケネス・カウンダ
左:マラウイ共和国大統領カムズ・バンダ。初代大統領に就任すると独裁者と化し、暴政を敷いたあげく散々私服を肥やし、最後には終身大統領となった。
右:ザンビア共和国大統領ケネス・カウンダ。こちらも独裁体制を築いて30年近く大統領の座にしがみつくが、冷戦崩壊と銅価格の下落による経済悪化により民主化を迫られ、1992年の大統領選で敗れて下野した。

せっかく独立したのに、マラウイもザンビアもロクでもない国に・・・。



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