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2007.10.25 (Thu)

2007モルドバ・ウクライナ旅行記(その29)

最近、ちょっと忙しいです。更新が滞りがちでごめんなさい。


◆ハーンの次は可愛い車掌さんに萌える

クリミア半島のバフチサライにて、かつてこの地にあったクリミア・ハン国の王の館を見に行ったにゃおんちゃん。「東洋とイスラムの融合」みたいな世界にウクライナで遭遇するという予期せぬ出来事に狂喜乱舞。萌えまくりながら見学する。
見学を終えると、中庭でポーランド人の女の子達と再会した。ここから数km山手に入ったところに、8世紀に建てられたという「ウスペンスキー修道院」がある。彼女達はそこまで行くべきかどうか悩んでいる様子。「あなたはどうするの?」と聞かれたが、にゃおんちゃんはまだたっぷり時間があるので行ってくることする。
暫し悩んでいた二人たったが、結局止めることにした。バフチサライの街を少し見てからヤルタへ戻ると言うので、お互いの旅の無事を祈ってここでお別れ。さよならー。

館を出てバスを待つ間、土産物屋を覗いたり周辺をウロつくが、建物が何気にトルコ風なことに気づく。ぱっと見はただの薄汚い建物だが、実は18世紀くらいの建築だったりする?でも、これコンクリート製だよねぇ?ハーンの館の傍だからそれ風に作っただけで、実はソ連時代の建築物だったりする?んー、いくら考えても分からない。
でも、タタール・ハン国が滅びても第二次世界大戦前まではこの辺りにタタール人が住んでいた訳だから、それ風の建物が多くても別に不思議ではない。土産物屋でタタール人の帽子に惹かれるが、結局買わず。せっかく買っても、かぶる機会が絶対に無さそうだ。

ハーンの館周辺
ハーンの館周辺の様子。建物が何気にイスラム風。奥にそびえ立つ岩山が見える。


やがてやって来たバスに乗り込むと、可愛い車掌さんがお出迎えしてくれる。どうやら運転手の娘らしい。しかも、妹らしき赤ちゃんをダッコしている。キャー!小さい子が小さい子をダッコしてるー!(〃▽〃)
再び萌えまくる俺。にっこり微笑んでお金を渡すと、彼女は少しはにかみながら微笑み返してくれた。可愛いねぇ・・・ほんとに子どもは可愛い。
運転手の兄さんの身の上が気になった。2児の父とはいえ若く見える。多分、まだ20代後半か30代前半だろう。何故、子どもを乗せて仕事をしているのか。奥さんに逃げられたのか、あるいは奥さんは病で床に伏せっているのか・・・。余計なことを心配して悩む俺。

バスは谷底のような土地を進む。両側には岩山がそびえ立っている。この岩山は垂直にそびえ立っているうえに、岩盤がむき出し。バフチサライの街は平地にあるのに、数km山に入っただけでこんな景色になるのだ。周辺には大きな川も無いので、侵食されてこんな地形になった訳ではない。不思議だ、実に不思議だ。日本じゃ山奥の渓谷にでも行かないと、こんな光景は無い。
10分ほど走ったところでウスペンスキー修道院に到着。可愛い車掌さんに手を振って別れを告げ、修道院へと続く坂道を登る。傾斜はそれほどでも無いのだが、ダラダラと続くので重たい荷物を背負った今のにゃおんちゃんには結構キツい。

可愛い車掌さん  ウスペンスキー修道院の入口
左:バフチサライで見た可愛い車掌さん。妹の子守と車掌の仕事をこなす偉い子。
右:ウスペンスキー修道院の入口。ここまで来るのに散々坂道を登ったのに、さらに階段が・・・。


汗をかきかき15分ほど歩いたところで修道院に到着。この修道院は岩山にへばりつくように・・・というか、岩肌のくぼみを利用して作られている。何でわざわざこんなところに作ったのやら・・・。
8世紀に作られたってことはウクライナにあった「キエフ大公国」が作った教会なのかな?と思ったが、キエフ大公ウラジーミル1世が東方正教を受け入れたのは10世紀。それに、その頃のクリミアにウクライナ人は住んでいない。えーと、タタール人が来る前のクリミアはギリシャ人やハザール人が住んでいたはず。ハザール人は「アシュケナジム」と呼ばれる東欧ユダヤ人の祖先と噂されている謎の民族で、ユダヤ教徒なのでキリスト教の教会なぞ建てる訳が無い。ということはギリシャ人が建てた?えー?その頃のギリシャってビザンツ帝国なんですけど?
この教会、実は何気に凄くない?

しかし、実物の教会は実にヘボいのだ。8世紀の痕跡なんぞどこにも残っていない。クリミアの支配者は幾たびも入れ替わっている訳で、1,300年も前の痕跡が残っていなくても責められないのだが、それにしてもヘボいし建物が妙に新しい。
※帰国後に調べたら、本物はとっくの昔にブチ壊されていて、現存するものはソ連崩壊後に復元したものだそうだ。

ショボい教会の凄いところを何とか探そうとするが、岩山の中腹にへばりつくようにして建っていること以外、凄いところなど全く見当たらない。これじゃ8世紀に作られたとは言えないだろ。
そんな詐欺みたいな教会のわりには観光客や地元民のお婆さんが多く、クソ狭い教会の中は大混雑。全然面白くないし混んでいるので帰ることにする。来て損した・・・。

斜面に作られたイコン  ウスペンスキー修道院外観
左:入口の門をくぐったところ。右上の岩肌にイコンが設置されている。わざわざそんなところに作らなくても・・・。
右:この修道院は、垂直に切り立った崖のくぼみを利用して作られている。物好きな・・・。



◆列車砲グスタフ

バス停まで戻り、売店でジュースを買って飲んでいると、ハチがワラワラとやって来て退散する羽目になる。ジュースに含まれている糖分の匂いに誘われたのか。サソリの次はハチか!
マルシュルートカに乗って駅へ戻る途中、胸からぶら下げていたサングラスが壊れていることに気づいた。金曜日にオデッサで買ったばかりだというのに、わずか4日という短い命に終わる。安物だからいいんだけどさ。

駅へ戻ると16時。次のシンフェローポリ行きの列車は2時間後。どうしようか・・・。
第二次世界大戦においてドイツ軍がセヴァストポリ要塞を攻撃した際、巨大な列車砲を使っているが、その列車砲が設置されたのはここバフチサライだったことを思い出す。何か痕跡が残っているかも?


1941年、「バルバロッサ作戦」においてソ連へ侵攻したものの、レニングラードもモスクワも攻略し損ねて短期決戦で決着をつける予定が大幅に狂ったドイツ。地獄のようなロシアの冬を何とか乗り切りると、長期戦に備えて重要な資源地帯であるウクライナの完全制圧、そしてソ連最大の油田があるバクー(現アゼルバイジャンの首都)攻略のため、1942年6月に「ブラウ作戦」を発動する。
その際にこのクリミア半島を押さえない限り、ウクライナ東部やバクーへと進んだドイツ軍には、側面を突かれる危険性が常に伴う。しかし、クリミア半島は険しい山岳地帯とわずか幅7kmの地峡によって守られた天然の要害であるうえに、ソ連海軍黒海艦隊の拠点であるセヴァストポリには難攻不落の要塞が築かれていた。

セヴァストポリを落とさねば先には進めない。何としてもセヴァストポリを落とせ!
ヒトラーがセヴァストポリ要塞攻略を命じた男は、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン上級大将。第11軍の総指揮官にして、"ドイツ軍最高の頭脳を持つ男"という異名を持つこの軍人は、1940年の西方電撃戦で「マンシュタイン・プラン」という作戦を立案し、フランスを即死させた実績を持つ。
マンシュタインは欧州中から1,300門に及ぶ火砲をかき集めると、約1ヶ月間昼夜を問わずありったけの爆弾をぶち込み続け、ついにセヴァストポリを陥落させた。その際に使用されたのが、80cmの口径を持つ超重列車砲「グスタフ」。世界最大の戦艦「大和」の主砲ですら46cmだから、その異常なまでの大きさは想像を絶する。着弾点には直径28m、深さ30mのクレーターができたという。
重量7tの爆弾が落っこちてきて、さらに爆発するんですよ。こんなものが頭上から降ってきたら、人間なんて骨も残らず消滅する。

グスタフは総重量が1,350tもあるうえに、4本の軌道(複々線)の上に設置されるので、組み立てるのもバラすのも容易ではない。戦車や飛行機の活躍によって戦線が流動的になった第二次世界大戦において、組み立て・解体・運搬にとんでもない手間と時間がかかるこんな兵器の出番は無いに等しく、結局これ以降は出番が無いままドイツ南部に放置されて終戦を迎える。
このドイツ人らしいイカレた発想によって作られた列車砲がその勇姿を現した唯一の場所、それがここバフチサライなのだ。 見に行かない手は無い!

80cmの主砲を持つ脅威の列車砲グスタフ
これが「列車砲グスタフ」。
最大射程45kmなので、ドーバー海峡のフランス側にあるカレーに設置してもロンドンには届かない。
レニングラード攻略で使うという手はあったが・・・。

早速、辺りの人に聞いて回るが、グスタフ云々以前に言葉が通じない。「World War II」って言っても通じないんだぞ?ロシア語で「列車砲」って何て言うんだ?
誰に聞いても「この変な東洋人は何を言っているんだ?」と言わんばかりに怪訝な顔をされるばかりで、手がかりなど全く得られない。そもそも、グスタフなんてマニアックな兵器のことを知っている人など、地元民でも殆どいないに違いない。しかも、敵軍の兵器だし。
日本に来た外国人が「アメリカがB-29で最初に落とした爆弾の着弾点はどこ?」と尋ねたところで、「そんなもの知るか!」と言われるのがオチ。それと一緒。

グスタフの痕跡を見に行こう作戦、15分で頓挫。
もういいわ、次のバスでシンフェローポリに行くことにする。


《つづく》

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21:44  |  2007モルドバ・ウクライナ  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

>>アメリカがB-29で最初に落とした爆弾の着弾点はどこ?
八幡製鉄所でございます。1944年6月。
名無しのイワンさん |  2007年10月26日(金) 08:53 |  URL |  【コメント編集】

●ご指摘ありがとうございます

あの時に名無しさんみたいな人に会っていれば、にゃおんちゃんは「列車砲が乗っていた線路の跡」くらいは見れたかもしれないのにねぇ・・・。
にゃおんちゃん |  2007年10月26日(金) 20:54 |  URL |  【コメント編集】

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