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2007.03.15 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第35回:コンゴ民主共和国(Part8) - モブツに立ち向かう民主化勢力

前回の続きです。
冷戦が終わり、モブツ体制に揺らぎが。果たしてどうなる、ザイール?


◆民主化への圧力

戦争慣れした優秀な兵士が多かったFLNCが相手とはいえ、外国に助けてもらってやっと勝利したザイール。それによってザイールは欧米諸国の意見を無視できなくなり、民主化を要求する勧告に従わざるを得ない立場に追い込まれた。
そこでモブツは渋々ながらも自分の失政について認め、議会と裁判所に行政(大統領)を監査する権限を与えた。三権分立が徹底されているまともな国では当然の権限だが、当時のザイールはこの程度のことすら守られていなかった。案の定、国会議員たちは早速モブツ政権の不正を追及しはじめてしまい、怒ったモブツは「お前らなんかいつでも殺せる」と脅迫した末に再び権限を取り上げてしまった。

エツィエン・チセケディしかし、一旦始まった民主化の流れは止まらない。カサイ州出身で博士号を持つ法律学者エツィエン・チセケディを筆頭とする一部の国会議員はモブツに公開書簡を送りつけ、その政治をボロクソにこき下ろして独裁政治に立ち向かった。シャバ紛争以前にこんなことをすれば問答無用で処刑されているところだが、シャバ紛争によってモブツ政権の影響力が低下していたことに加え、チセケディは反モブツの筆頭格として欧米でも名を知られていたので、さすがのモブツも手荒なことはできなかった。
チセケディ達は1982年に「民主主義と社会進歩のための連合(UDPS)」という政党を作って民主化運動を開始した。しかし、憲法ではMPR以外の政党は認められていないので、当然UDPSは非合法団体として扱われ厳しく弾圧された。それでも、カソリック教会やまともに給料を貰えない下級公務員、失業者などがUDPSの活動に賛同し、モブツの独裁体制は徐々に揺らいでいく。


モブツは憲法の三選禁止規定を無視して1984年に大統領再選を果たしたが、1989年にベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終結してしまうと、これまでのように反共を掲げることで西側諸国(特にアメリカ)から手厚い援助を引き出して独裁体制を維持することは、もはや不可能となった。
さらにその数ヵ月後、個人的にも親交があったルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領がルーマニア革命によって失脚し、国外逃亡しようとしていたところを捕らえられた末に公開処刑されてしまった。親米と親ソという違いはあれど、モブツもチャウシェスクも冷戦構造の中で独裁を維持してきた男。チャウシェスクが処刑された様子をテレビで見たモブツは、自分の未来が垣間見えてショックを受けたのか、担当大臣を呼びつけて「こんなものを報道するとは何事か!」と激しく叱りつけたという。

このままでは自分もチャウシェスクと同じ運命を辿ることになると悟ったモブツは、1990年になると民主化を容認する姿勢を打ち出した。モブツは全国を行脚してタウン・ミーティングを開催し、国民の声を直接聞くキャンペーンを行った。しかし、そこで彼に寄せられたのは体制の否定や辞任要求ばかり。最初の頃は「よしよし、お前達が困っているのはよく分かった。ワシが何とかしよう」と寛大な大統領を演じていたモブツだったが、どこへ行っても自分の政治に対する批判ばかり聞かされてゲンナリしたのか、全国ツアーの最後に頃は冒頭に挨拶をするのみで、後は全て側近任せにしてしまったという。
しまいには手下であるはずの中央省庁の役人すらも、「自分の出身部族ばかりえこひいきするのは止めろ」とか「大統領(とその一族)は金遣いが荒すぎる」とか文句を言いはじめ、外務省にいたっては「あんた、このまま政権に居座ったらチャウシェスクみたいになるよ」という脅し文句入りの文書をモブツに叩きつけている。

さらに1990年3月にはアメリカ・ブッシュ(父)政権のジェイムズ・ベーカー国務長官と会談を行ったが、その席でベーカーから「冷戦も終わっちゃったし、議会が怒ってるから今までみたいな支援はもう無理ね。あ、それからいい加減に独裁政治は止めなさいよ」と三行半を叩きつけられてしまった。
パパ・ブッシュはCIA長官を務めたことがあり、モブツとはその頃から深い親交があった。そのパパ・ブッシュですらモブツを見捨てたのだ。モブツのショックはいかほどのものだったろうか。


◆ルブンバシ大学虐殺事件

しかし、モブツはこの程度でメゲるような可愛げのある男ではない。すぐに延命工作に取り掛かった。このまま恐怖政治を続けてはチャウシェスクの二の舞となってしまうので、モブツは政治的発言の自由を認め、MPR一党独裁を廃止して複数政党制を導入すること、そして三権分立を徹底することを確約した。
すると、社会が変わることを期待した国民は政治について活発に議論するようになり、新しい政党が次々と生まれた。

とにかくこの頃のザイール経済は酷かった。まあ、この国の経済は独立当初から酷かったが、まるで底なし沼にはまったかのごとく悪化していく一方だった。モブツのデタラメな政治と腐敗しきった体制のせいで1980年代半ばから深刻化していたインフレは、アメリカからの援助が止まると急激に悪化し、1992年には年率4,200%を記録するという信じられない事態となっていた。
鉱山事業の低迷で収入が減少しているのに、モブツは緊縮財政を敷くどころか、後に国民会議が始まると、その多数派工作のために湯水のごとく金を使ったため、2年後の1994年にはついに年率10,000%を超えてしまい、国民の怒りは頂点に達した。


予想以上の勢いで民主化(≒モブツ政権打倒)運動が盛り上がったのを見たモブツは、「こりゃヤバい」とすぐに引き締めに掛かった。モブツは、「お前らは何を勘違いしているんだ?ワシは確かに民主化を約束したが、それは新しい憲法が公布され、総選挙を行ってからの話だ。だから現時点ではMPR以外のいかなる政治団体も政治活動も許さん!」と先走りした国民に釘を刺し、これに抗議した市民(特に民主化運動の中心だった学生達)を激しく弾圧した。

特にルブンバシ大学への弾圧は凄まじく、DSPを送り込んで少なくとも50名以上(300名という説もある)の学生を殺害し、キャンパスをメチャクチャに破壊した。モブツは予めDSP隊員に証拠を残さないよう指示しており、DSPは死体をすべて綺麗に回収して立ち去ったという。しかも、大学の周囲を警備していた国軍兵士がDSPが去った後に構内に押し入り、散々荒らしまわったうえに金目のものをすべて略奪してしまった。
世界各国はこの事件を一斉に批難し、アメリカに続いてベルギー、フランスまでもがモブツ政権への援助を凍結や白紙にした。モブツは「外国人学生は被害に遭ってないのに、どうして外国に文句を言われなくちゃいけないのだ!」と逆ギレした。



◆モブツと戦う民主化勢力

さて、モブツが提案した民主化のロードマップは次のとおり。
① まず国民会議を開催し、その場で新しい憲法を制定する
② その憲法に基づいて総選挙を行い、新しい政権を発足させる

ところが、モブツは国民会議の開催をのらりくらりと引き延ばし、一向に実現する気配が無い。シビレを切らしたUDPSをはじめとする野党勢力が団結してモブツに圧力を掛けると、モブツは「国民会議?開催してもいいけど、あくまで話し合いの場でしかないからね。行政や司法がそこで決まったことを執行する義務は無いから。それはまた別の話だね」とトボけたことを言い始めた。
もちろん、野党勢力がこんな戯言を受け入れるはずがなく、一斉に反発を食らったモブツは1991年8月に渋々ながらも国民会議を開催した。

国民会議は企業や職業別団体の代表、各政党の党首や地方政府の高官、そして知識人など約2,800人の多彩な顔ぶれによって構成されていた。国民会議はモブツ体制の総括を行うと新体制の基本方針を固め、それを踏まえて新憲法の草案を作成した。モブツ体制を総括する過程で彼が過去に行った数々の悪行が次々と表沙汰になり、モブツの権威は完全に失墜した。
それでもモブツが大統領の座に留まれたのはDSPという強力な親衛隊がいたから。国内には有力な反政府ゲリラはいなかったし、国軍は衰弱してクーデターを起こす元気も無いのだ。


さて、国民会議で議論が行われているあいだモブツは何をしていたかというと、ひたすら宮殿に引きこもっていた。たとえ国民会議に出席したところで、過去に行った数々の悪行を追求されて袋叩きにされるわけで、それはモブツ本人が一番よく分かっていたに違いない。
しかし、自分の政治的生命が断たれるのをオメオメと待っているモブツではない。モブツは自分は他の政治団体よりも一段高いところに位置し、各団体が対立して収拾がつかなくなった際の調停役であることを宣言していたので、様々な方法(主にチセケディと敵対する勢力に金をバラまいて懐柔する)を用いて国民会議で進められていた議論を妨害した。国民会議が混乱に陥って収拾つかなくなり、「やはりモブツ大統領がいないと国が治まらない」と言ってもらえる状況を作り出すべく、様々な工作を行っていたわけだ。

国民会議の改革派は様々な妨害に苦しめられながらも首相の選任まで漕ぎ着け、UDPS党首のチセケディを首相に選出することに成功した。国内の様々な勢力が集まって開催した国民会議で選出されたわけで、モブツはチセケディの首相就任を認めざるを得なかった。

《Part 9につづく》

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19:25  |  コンゴ民主共和国/ザイール  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

●絶句の歴史の連続・・・・

うーん、ここまで酷いとは・・・・。「国家」というよりは、まだ「お猿のお山」といったほうが・・・、否、まだ猿のほうがまともな国家運営ができるだろうな・・・。北朝鮮を含め、これらの「香ばしい国々」の共通点は、ごく少数の権力者の私利私欲によって大多数の民衆が犠牲になってしまう悲惨な状況が続く事だ。そして、その権力者が退陣してもその悲惨な状況から脱し得ない悪循環に陥る。

そういえば、ザイールネタで一つ・・・。10年以上前のルワンダ紛争の際、テレ朝かTBSの取材陣がザイールのモブツに面談した後にモブツ政権を長期安定した政権として絶賛したコメントを残した解説員がいたな・・・。思わず笑ってしまった。
やまゆき |  2007年03月17日(土) 10:15 |  URL |  【コメント編集】

●ひ、ひどすぎる・・・

モブツを絶賛ですか・・・。金でも貰ったんじゃないですか?w
そういや、木村太郎さんはウガンダの食人大統領ことイディ・アミンを褒めてましたね。「人を食べた云々」はともかく、ことごとく外交に失敗し、不要な戦争を起こし、挙句の果てに国を崩壊させた独裁者なんか、どうしたって褒めることなんてできないんですけどねぇ。
ああいう人達は何を考えているんでしょうか。
にゃおんちゃん |  2007年03月18日(日) 10:52 |  URL |  【コメント編集】

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