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2007.03.04 (Sun)

【世界の香ばしき国々】第30回:コンゴ民主共和国(Part3) - カップ麺みたいな即席国家「コンゴ共和国」

前回の続きです。
ついに独立したコンゴですが、その直後から香ばしいことに・・・。さすが最強のバカ国。


◆ベルギー領コンゴ植民地の時代

しかし、そんなレオポルド2世の悪巧みもそう長くは続かなかった。貿易に関する当初の約束が履行されないことに腹を立てたイギリスがコンゴ自由国の実態を暴露したため、ベルギーは世界中からの批難を浴びた。
レオポルド2世のせいで「ベルギー人は悪党、鬼畜、吸血鬼」と罵られた議会や国民はカンカンに怒り、ついに1908年に国王個人の所有物からベルギー政府直轄の植民地という扱いになった。もちろん、20世紀初頭のこの時期に「それじゃ植民地支配は止めて独立させてあげようか」なんて話には絶対ならない。
コンゴ自由国と引き換えに政府からしっかり補償金をふんだくったレオポルド2世だが、己が野望を打ち砕かれてガックリしたのか、その2年後に死去している。

「コンゴ自由国」改め「ベルギー領コンゴ植民地」となったコンゴ。ベルギー政府の直轄領になって少しはまともな統治が行われるかと思ったら、1914年に第一次世界大戦が勃発。ベルギー本国はドイツに占領されたうえに、コンゴもドイツ領東アフリカ(現在のルワンダ、ブルンジ、タンザニア)から進軍してきたドイツ軍に攻撃された。しかし、ドイツは敗戦して全ての植民地を失ったため、ベルギーはルワンダとブルンジを委任統治領として手に入れることができた。

第一次世界大戦後、合成ゴムの発明によって天然ゴムの需要が低下すると、ベルギーはこの地の豊富な鉱物資源に目をつけた。鉱山の開発に関連する多くのベルギー人がコンゴへ渡り、最初は3,000人程度だった白人の数は10万人にまで増加した。
すると、今度は1939年に第二次世界大戦が勃発。ベルギー本国はまたしてもドイツに占領されたが、コンゴ植民地政府はドイツやイタリアに対する抵抗を続け、イギリス軍がイタリア領東アフリカ(現在のエチオピア、エリトリア、ソマリア南部)を攻撃した際には援軍を送っている。


枢軸国(ドイツ、日本、イタリア)の敗北で第二次世界大戦は1945年に終結したが、二度の世界大戦を引き起こした反省から欧米諸国では帝国主義に対する批判的な意見が目立つようになった。これに同調してアフリカ各地では民族主義や独立運動が盛んになるが、それはコンゴでも例外ではなかった。ベルギー政府は30~50年という長いスパンの中でいずれコンゴを独立させようと考えていたため、黒人に一定の権利を与えて不満を逸らそうとするが、黒人達はその程度では満足せずストライキやデモが頻発した。
しかし、ベルギーにとってコンゴは宝の山だった。世界の工業用ダイヤモンドの70%、ウラニウムの50%を産出するコンゴが稼ぎ出す金は半端なものではない。ベルギーは基本的には植民地など持たなくても生活していける豊かな国とはいえ、この時期は第二次世界大戦によって荒れ果てた国土を復興させるために莫大な資金を必要としていた。少なくとも1950年代の時点では独立など許すことはできなかった。

独立を渋るベルギーが悪者に見えてしまうが、決して天然資源が惜しいという理由だけでコンゴの独立を渋ったわけではない。ポルトガルと並ぶダメ宗主国のベルギーといえども、コンゴの将来を考えていた人物はいた。実際、将来の国家運営を担う人材を育成するためには最低でも30年くらいは必要なわけで、実務能力も無く受け皿となる組織も持たないコンゴ人に放り投げるようにして独立を与えるのは、それはそれで無責任な行為なのだ。

ところが、1958年にフランスが各植民地にかなり広範囲にわたる自治権を与え、それらの植民地はフランス共和国内の「自治共和国」として条件付ながらも次々と独立し始めた。コンゴに隣接するフランス領赤道アフリカ植民地も西コンゴ、ガボン、中央アフリカ、チャドと4ヶ国に分かれて独立した。これらの植民地は第二次世界大戦の際に、親ドイツのヴィシー政府ではなくシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス政府について枢軸国と戦っており、戦争協力と引き換えに自治権拡大が約束されていた。
コンゴだってベルギー政府に味方してドイツやイタリアと戦っているのだ。当然、コンゴ人達も「フランス領に住む連中は自治を与えられたのに、ベルギー領に住む俺達は植民地の奴隷のままかよ!」と怒り出す。



◆いきなり決まった独立

多くのベルギー人がコンゴへ流れ込み、開発が進んで都市が形成されると、当然そこには黒人も多く住み着いた。彼らは白人の使い走りとはいえ行政や経済活動の末端を担い、白人の生活を間近で見ている。当時に、都市に住むことで近代的な生活の恩恵を受けているわけで、政治意識にも目覚めるのも早い。数は少ないながらも高等教育を受けている人もいる。
というわけで、フランス領における植民地政府の自治権拡大を見た彼らは、ベルギー領でも同じ権利を勝ち取るべく政治団体を作って活動を始めた。彼らが作った政治団体をたくさんあるのだが、次の有力なものは3つ。

①アバコ党
親西欧派のジョセフ・カサブブが率いる。ただし、コンゴ全土の独立を主張しておらず、バコンゴ族が多く住むコンゴ西部の分離独立を指向している。アバコは「Association des Bakongo」の略であり、コンゴ最大の民族バコンゴ族の民族主義団体という色彩が強い。
②コナカ党
バルンダ族出身のモイス・チョンベ率いる団体でコンゴ南部のカタンガ州(現シャバ州)を地盤としている。党員には黒人のみならずベルギー人入植者も含まれており、ベルギー財界とのつながりもある。カタンガ州の恵まれた資源がコンゴの他地域に搾取されないよう、連邦制国家の実現、あわよくば単独での独立を目指している。
③コンゴ国民運動(MNC)
他の2政党が連邦制または部族ごとにバラバラな独立を目指していたのに対して、この党は中央集権国家としての独立を主張していた。リーダーのパトリス・ルムンバは投獄された経験も持つ筋金入りの独立運動家で、カリスマ性に富みアジテーターとして一流だったことから、コンゴ各地で幅広い支持を受けていた。

ジョセフ・カサブブ  モイス・チョンベ  パトリス・ルムンバ
左からカサブブ、チョンベ、ルムンバ


1959年1月、独立運動の高まりに危機感を覚えたベルギー政府が、黒人政党の活動を制限したことから大規模な暴動が発生した。普通なら軍隊を投入して鎮圧するところだが、ベルギー国民はこれに反対した。本国のベルギー人はコンゴになど関心が無いうえに、下手に弾圧してフランスのように争いに巻き込まれることを恐れたのだ。
ちょうどこの時期、フランスはアルジェリアの独立を認めるか否かを巡って大混乱に陥っていた。フランスは赤道アフリカ植民地などの独立はあっさりと認めたが、最重要植民地だったアルジェリアだけは例外だった。50万人規模のフランス軍がアルジェリアに駐留したが、爆弾テロなどに悩まされて独立運動を抑え込むことができなかった。

黒人達の独立運動を抑えきれなくなったベルギーは代表者を集めて円卓会議を開催したが、普段は部族単位で対立しているコンゴ人達もこのときばかり一致団結して完全独立を要求した。成す術が無くなったベルギーはあっさりと独立を認め、半年後にコンゴが独立することが決まってしまった。ベルギー政府としては、もはや植民地支配を続けられない以上、早期に独立を認めてやって友好関係を維持したほうが得策との判断だった。コンゴ人は行政組織など持ったことも無いし、公安軍の将校は全てベルギー出身の白人。「独立したって、どうせ我々に頼らざるを得ない」という算段なのだ。
これに困ったのが各党。半年後に独立すると決まった以上、何が何でもその日までに準備を整えないと逆に「独立を妨害する勢力」として叩かれてしまう。しかし、一国の独立がたった半年という短期間でできるはずもない。


ドタバタしながらも急ピッチで独立に向けた準備が進められ、1959年5月には国会議員選挙が行われた。ルムンバ率いるMNCが第一党となったが単独過半数に及ばなかったため、アバコ党やコナカ党を含む10党で連立政権を組み、ひとまず独立に向けた挙国一致体制が確立された。大統領にはアバコ党のカサブブが、首相にはルムンバが選ばれた。
一方、コナカ党の党首チョンベだけは国政選挙に出馬せず、地元カタンガ州の知事となった。カタンガはコンゴ南部の僻地だが天然資源に恵まれ、この一州だけコンゴ全体の歳入の40%を稼ぎ出していた。チョンベは、この要所の州知事となって政治的影響力を確保してやろうという腹積もりだった。

選挙は何とか無事終わったものの、政治家のレベルは低いし、実際に国家運営を行うプロの官僚なんて殆どいない。イギリスやフランスは自分達の統治に協力的な部族を優遇し、積極的に本国へ留学させるなどして少なからず植民地エリートの養成を行っていた。しかし、コンゴについては国王の私有財産だった過去があるので、そのようなことは殆ど行われていなかった。高等教育を受けているコンゴ人が殆どいないため、独立が決まってから大急ぎで官僚候補生をベルギーへ研修に送り込む有様だった。こんな状況下でたった半年でまともな国家体制が作れるわけがない。



◆独立1週間後には早速暴れだす馬鹿ども

コンゴ共和国の国旗(1960年)1960年6月30日、ベルギー領コンゴ植民地は「コンゴ共和国」として独立を達成した。
独立式典には当時のベルギー国王ボードワン1世も出席し、レオポルド2世がコンゴに近代文明をもたらしたことを賛美する演説を行った。続いて演説を行ったルムンバは、国王を指差して「我々は、もはや貴様らの猿ではない!」とベルギーの植民地支配を糾弾する過激極まりない演説を行ったため、顔面蒼白となった国王は式の翌日に本国に帰ってしまったという。


↑ 独立式典の際のアクシデント
突如飛び出してきた男がボードワン1世の腰からサーベルを奪い取るという事件があった。何とザルな警備だろうか。ナショナリズムに狂った男が国王を暗殺しても不思議ではないのに・・・。サーベルを掠め取られて笑いものになり、ルムンバには公衆の面前で罵られ、ボードワン1世にとっては散々なコンゴ訪問となった。


さて、独立は達成したものの問題は山積している。「これからどうしようか?」と皆が考え始めたその矢先の7月6日、早速暴動が起きた。
植民地時代の公安軍は、ベルギー人士官が黒人の下士官や兵卒を指揮するという形をとっていたが、独立後もそれは変わらなかった。政府の要職には積極的にコンゴ人を登用したルムンバも、さすがに警察と軍隊だけはいきなり黒人だけで運営できるとは考えなかった。公安軍の黒人兵士には下士官すら殆どいなかったのだ。
そんなときに、公安軍の最高司令官エミール・ジャンセン将軍が命令拒否をした黒人下士官を処罰し、黒板に「独立前=独立後」(「独立したって、黒人兵士はベルギー人将校の使い走りのままだ」という意味)と書いて叱責するという出来事が起こった。すると黒人兵士達はこれに怒り、暴動を起こしてベルギー人を襲撃した。

ルムンバはすかさずジャンセン将軍を解任したが、それだけでは黒人兵士達の不満は解消されない。ベルギー人が将校としてのさばっている限り黒人達の不満は消えないのだ。そこでルムンバは黒人のルンドラ准尉を一気に少将に昇進させて最高司令官に、同じくモブツ曹長を大佐に昇進させて参謀総長に任命した。さらに、黒人兵士達の不満を逸らすため、一人残らず昇進させた。そのため、コンゴ公安軍は全員が下士官以上で、兵卒が1人もいないという前代未聞の軍隊となってしまった。
もちろん、こんなコンゴ人に軍隊の運用などできるはずもなく、結局ベルギー人士官を軍事顧問として残す羽目になっている。

しかし暴動は一向に終息せず・・・いや、逆に首都レオポルドヴィルから全国各地へと広がっていった。コンゴ全土は大混乱に陥り、黒人に襲撃された白人達は次々と周辺国へ逃げ出しはじめた。元々、公安軍は民衆を虐げて天然ゴムをたくさん収穫させることや、逆らう奴を弾圧するのが目的の治安維持部隊だったので、とにかく凶暴な兵士が多かった。兵士の多くは未開な辺境部族出身者が多く、オツムのレベルははっきりいって野蛮人と変わらない。そんな連中が暴れだしたら誰も止められない。
コンゴ政府に事態を収拾する能力が無いので、ベルギー政府はやむなく首都に駐留していた軍隊(独立後も邦人保護のために2個大隊のベルギー軍がレオポルドヴィルに駐留することで両国は同意していた)を動かして邦人保護に動き出し、ベルギー人入植者が特に多かったカタンガ州に出兵した。これを知ったルムンバは激怒するが、かといって暴れ狂う土人兵士を抑える力も無く、途方に暮れていた。

《Part 4につづく》

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