2017年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2007.03.03 (Sat)

【世界の香ばしき国々】第29回:コンゴ民主共和国(Part2) - 搾取と暴虐の国「コンゴ自由国」

前回の続きです。
さて、第二回。悪徳国王に狙われてしまったコンゴはどうなるのでしょうか?


◆コンゴを巡る西欧列強の暗躍

コンゴ進出を企むレオポルド2世の企みは国家機密・・・というほど大げさなものではなかったが、極力目立たないように進められていた。ところが、これがあっさりと周辺国にバレた。元々この地域に利権を持つポルトガルやフランスは、「ポルトガルがさっぱり儲けることができず持て余している土地に、ベルギーが人を送り込んで道路や橋や街を作っている。これは何か美味しいものがあるに違いない」と考え、ベルギーの邪魔をしはじめた。
しかし、当時のフランスは本国から遠く離れた未開の地コンゴになど興味は無く、それよりもエジプトを狙ってイギリスと激しく争っていた。それでも、名門貴族のド・ブラザ伯爵がコンゴ獲得を強く主張したことから、コンゴ川北部に小規模の探検隊を送って一帯を保護領とした。後にフランスはこの土地をフランス領赤道アフリカの中部コンゴ植民地とし、総督府を置いて赤道アフリカ経営の拠点としている。中部コンゴ植民地は後に独立して現在の西コンゴになるのだが、首都のブラザヴィルという名前はこのド・ブラザ伯爵に由来している。

宿敵フランスの動きを見ていたイギリスは、コンゴへの利権を認めてることでポルトガルを味方にしてフランスに対抗しようとした。せっかく見つけたコンゴをポルトガルに取られてはかなわないベルギーは、コンゴ川以北の利権を認めてやることでフランスと組んでポルトガルに対抗しようとした。「ポルトガル&イギリス vs ベルギー&フランス」という構図となる。
しかし、二枚舌の腹黒紳士イギリスが破産寸前の没落貴族ポルトガルを素直に支援するわけがない。借金だらけで破綻寸前のポルトガルに金を貸し付け、その担保としてコンゴを取り上げてやろうという魂胆だった。

ベルギー&フランス陣営にドイツが同調してきた。統一国家建設が遅かったドイツは植民地ビジネスに乗り遅れていたが、この頃にはカメルーンや南西アフリカ(現ナミビア)に進出していた。そこで、ベルギーとフランスは「ドイツさん、こっちに味方してくれたらあなたが植民地を持つことを認めてあげるし、コンゴでの貿易にも便宜を図ってあげるよ」という飴玉でドイツを誘った。
実は、ドイツはイギリスからも「ポルトガルを借金漬けにして、コンゴを二人で山分けしようぜ」と誘われていたが、この件に関してはベルギー&フランスに味方した。また、ベルギーはイギリスに対してもコンゴとの貿易に便宜を図る申し出を行い、直接のライバルであるポルトガルを孤立化させることも忘れていない。

本当に腹黒い奴らである。



◆ベルリン会議(アフリカ分割)

1884年、ドイツ帝国の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの主催により、このコンゴ問題を解決すべく「ベルリン会議(アフリカ分割)」が開催された。
ベルギーはフランスとドイツに加え、裏取引によってイギリスを自陣営に引き込んであるので結果は明白だった。ベルギーはコンゴ盆地中央部(現在のコンゴ民主共和国)を、フランスはコンゴ盆地のうちコンゴ川以北(現在の西コンゴとガボン領)をまんまと手に入れた一方、哀れなポルトガルはアンゴラの領有権は認められたものの、コンゴに関してはコンゴ川河口のカビンダ(現アンゴラ領の飛び地)という地域を除いて全て失った。

この会議の凄いところは、ベルギーが獲得したコンゴ盆地中央部は「ベルギー王国」ではなく、「コンゴ国際協会」の持ち物として認定されてしまった点だ。東インド会社や南アフリカ会社が植民地を経営していたように、領土というものは必ずしも国家が持つとは限らないのだが、それにしてもよくこんなことが認められたものだ。もちろん、議会の承認が無いのでベルギー政府として植民地を持つことができないという事情があり、レオポルド2世が相当暗躍したと思われるが・・・。
この会議の開催のきっかけはコンゴ問題ではあったが、話し合われた内容はそれだけではない。前述の欧州各国に加えアメリカやオスマン・トルコ帝国なども参加しており、これらの国は「アフリカで新たに植民地を持つ際には、協定締結国の承諾と当該地域の実効支配を原則とする」というベルリン協定を結んだ。
要は、植民地の取り合いで喧嘩にならないよう、事前に皆で話し合ってルールを決めておこう、ということである。アフリカ人がこんなものを見たら激怒するに違いない。


その翌年には「コンゴ国際協会」が廃止されたため、コンゴは協会の代表者であるレオポルド2世の「私有財産」となってしまった。
コンゴ自由国の国旗金持ちが山林や原野を買ったのとは訳が違い、多くの人が住む広大な土地であることから行政機構が作られ、コンゴは「コンゴ自由国」と名乗ることになった。このコンゴ自由国は国王が国外に持つ私有財産という扱いなので、ベルギー王国の領土ではない。したがってベルギーの憲法も及ばない。どこの国にも帰属しない奇妙な植民地が生まれてしまった。
「コンゴ自由国」って何が自由なんだろ?どこの国にも属さない自由な土地ってことか?と疑問に思い調べてみたところ、「関税を設定しない自由貿易地域だから」とか「国王が好き勝手にできる国だから」だそうだ。ベルギーのコンゴ獲得に協力したイギリスとドイツは当然この自由貿易の恩恵にあずかることになる。



◆コンゴ自由国~国王の「私有財産」

晴れて国際社会からのお墨付きを貰ったコンゴ自由国だが、その実態とはどのようなものであったか。植民地なのだから、何かしらの資源を輸出して本国(というか、この場合は国王個人)に利益をもたらすことになる。
コンゴでは良質の天然ゴムが取れたのでこれが重要な外貨獲得手段となり、自由国政府はコンゴ人に対してゴムの採取を義務付けた。自由国の役人や公安軍(国軍)兵士の給料は歩合制となっていたため、これらの役人・軍人達は国民に厳しいノルマを課し、激しく搾取した。この国は普通の国ではないので、役人の仕事は国家の統治・運営や国民に対する行政サービスの提供ではなく、むしろ奴隷の労務管理に近かった。

役人や軍人はコンゴ人が必死にゴムを採集するよう、ノルマを達成できない場合は罰として手を切断したという。しまいには切り落とした手の数が多いほど頑張って仕事をしているということで、手がボーナスの査定対象となり、些細なことでイチャモンをつけて手を切り落とすようになった。公安軍の将校・士官クラスは全て白人だが、末端の兵士はもちろん現地の黒人。黒人が黒人を搾取し、自分の給料のために同胞の手を切断していたのだ。コンゴ人の野蛮さも酷いが、このような過酷な統治を行ってコンゴ人に共食いを強いるベルギー人は相当な悪党だ。
自由国(Free State)という名前から受ける印象とは裏腹に、コンゴでは凄まじい搾取と暴虐の嵐が吹き荒れ、20世紀初頭には全世界の天然ゴム生産量の10%を占めるようになった。当然、生まれる利益も半端な額ではなく、これでボロ儲けしたレオポルド2世は欧州各地に別荘を建てて愛人と遊びまわった。

コンゴ自由国ではたった20年程度のその統治の間に500~800万人の死亡者を出したといわれている。コンゴ王国時代の人口は不明なのだが、1960年にコンゴ共和国として独立した際の人口が1,400万人程度であることを考えると、少なくても20%、もしかすると半数以上のコンゴ人が死んでいる計算になる。
レオポルド2世はこのような過酷な搾取が外部に知れ渡らないよう、外国人どころか自国民の入国すら厳しく制限した。もっとも、レオポルド2世に言わせれば「ここの余の私有地じゃ。勝手に入るな、この愚民ども」ということになるのだろうが・・・。

コンゴ自由国の様子

≪Part 3につづく≫

関連記事
01:54  |  コンゴ民主共和国/ザイール  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://powerpopisland.blog68.fc2.com/tb.php/176-a1bdb8ed

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。