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2007.02.11 (Sun)

【黒猫ポンセの野望】「HEARTS OF IRON II」リプレイ(その15)

これまでの経過はこちら。 
執筆に手間取り、ゲームがさっぱり進みません。


ソルタイアの旗の下に - 1940年2月24日~3月17日

イギリス攻略作戦に参加した部隊が続々と海路で東部戦線へ向かっていた2月24日、イタリアがユーゴスラビアを併合した。旧式装備のユーゴスラビア軍では、やはり近代化されたイタリア軍には歯が立たなかったようだ。もはやギリシャの命も風前の灯となった。
我が国もユーゴスラビアに宣戦布告してアドリア海への出口を確保する案も検討されたが、英仏を倒した今となっては英仏海峡、ジブラルタル海峡経由で地中海へ艦隊を展開させることも容易であり、余計な領土を手に入れてもパルチザンに悩まされるだけなので、静観姿勢を貫いた。

3月3日にデンマーク、ノルウェーへの侵攻作戦『ヴェーゼル演習作戦』発動のイベントが起こるが、総統の「ノルウェーなど捨てておけ」という一言によって中止なった。
我が国は、英仏を手に入れたことによって十分な量の鉄鉱石を自力で賄うことが可能となっており、もはやノルウェーやデンマークを攻撃する必要など微塵も無くなっていたからだ。もしノルウェーが我が国に逆らうようなことがあれば、そのときに踏み潰してやれば良いだけのことだし、下手にデンマークを攻めてはアメリカ軍のアイスランド進駐を招くことになる。


イギリスが降伏を拒否したことによりイギリス本土は軍政に置かれることとなったが、これはドイツ軍に大きな負担をもたらした。パルチザン活動の取り締まりや、イギリス軍の本土奪還作戦に備えて多くの守備隊を残していかなければならなかったからだ。そこで、ヒトラーはポテンテにスコットランドを独立させるよう命じた。独立といっても、もちろん我が国の属国としての独立である。
そして3月7日、チャールズ・ウォルグレイヴ卿がチャールズ3世としてスコットランド国王に即位し、スコットランドは1707年にイングランド王国に合邦されて以来約230年ぶりに独立を果たした。独立心の強いスコティッシュ達は、たとえドイツの属国といえども自分達の国家が誕生したことを喜んだ。

ポテンテはぎ印ドイツ帝国にいた頃、Guicho Zurdoに度々占領地を独立させるよう命じられていたことから、この手の仕事はお手の物であった。ブロンベルク元帥の部隊に随行してグラスゴー入りした彼はグレートブリテン島の制圧が終わらないうちからこの仕事に取り掛かり、そしてこの日を迎えたのであった。
その日の夜、スコットランド国旗に埋め尽くされたグラスゴーのブキャナン通りの片隅にある小さなパブで、ポテンテはスコッチを飲みながら地元民と共に独立を祝った。

3月14日にはイギリスに残っていた部隊の一部がベルファストへの上陸を果たし、17日にはポータダウンを占領して北アイルランドの制圧も完了させた。



発動、バルバロッサ作戦! - 1940年3月18日~5月22日

講和条約を締結していないことから形式上は英仏との戦争が続いていたが、イギリス政府はカラチに、自由フランス政府はブラザヴィルに逃げ出し、ドイツには再び平和が訪れていた。ドイツは第一次世界大戦で失った領土を取り戻し、さらには目の上のタンコブだった英仏を欧州から追い出した。当初掲げていた目標以上の成果を得たと言っても良いだろう。しかし、それでもなおドイツ人の安住の日々は約束されなかった。何故なら、その東に共産主義国家ソ連という怪物がいたからだ。

ポテンテ補佐官の策略により、モロトフ=リッベントロップ協定によってソ連に与えられたのは、史実とは異なりポーランド東部のみだった。したがってフィンランドとの冬戦争も、バルト三国やベッサラビアの併合も発生しておらず、この半年間ソ連は実におとなしくいていた。しかし、貪欲なスターリンがポーランドの東半分を手に入れた程度で満足するわけがなく、世界がドイツの電撃戦に目を奪われている間、黙々とその牙を研いでいた。
一方のドイツ軍も1940年初頭からドイツ軍はポーランドの独ソ国境への移動を開始し、3月中旬にはわずかばかりの守備隊と予備兵を除く全軍が集結しつつあった。


そして3月下旬のある日、ベルリンの総統官邸に政府首脳(閣僚、参謀総長、三軍の総司令官、そして三奉行)が出席し、今後の対ソ戦略を決める会議が開かれた。いつかソ連と決着をつけなければならないことは出席者全員の暗黙の了解となっていたが、ヒトラーはあえて次のような質問から会議を始めた。

アドルフ・ヒトラー

思い込みや先入観に囚われることほど恐ろしいことは無い。従って、私は諸君に改めて問いたい。やはりソ連との戦いは避けられないのであろうか?

ヘルマン・ゲーリング

こちらにやる気が無くても、向こうがやる気なのですから、戦いは避けられませんな。

カール・ポテンテ

ソ連陸軍の戦力はこの4年間で2倍に増えており、既に230個師団に達しています。
この調子で行けば、戦力がピークとなる1942年頃には間違いなく動き出すでしょう。

アドルフ・ヒトラー

我が軍の約2倍か・・・。どうせ歩兵ばかり作っているのだろうが、それにしても凄い数だ。開戦時期が遅れれば遅れるほど、この差は開いていくことは間違いない。

ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

しかし、我が国を攻めるとは限らないのでは?

カール・ポテンテ

スターリンは、その気になればいつでも戦争ができるのに、死に掛けのイギリスが陣取るインドや、弱小軍閥の新疆すら攻めようとしません。これが何を意味すると思いますか、リッベントロップさん?

ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

ふんっ!

ヘルマン・ゲーリング

スターリンはそんなところなど欲しくないのだな。
やはり、奴が狙っているのは欧州か・・・。

アドルフ・ヒトラー

よし、私は決めたぞ。ソ連軍の強化が進む前に勝負をつけなければならない。
ロシアに春が訪れる5月中旬を待って攻撃を開始する。

カール・ポテンテ

分かりました。それでは早速準備に取り掛かります。


こうしてソ連攻略作戦『バルバロッサ作戦』の準備が始まった。この名前はヒトラー総統の命名によるもので、かつて十字軍を率いて聖地エルサレムを目指した神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に由来している。ドイツ軍は、さしづめ『反共十字軍』といったところであろうか。
そして、モロトフ=リッベントロップ協定が期限切れとなった4月30日、総統は三軍の将軍達を集めて演説を行った。

「本日をもってソ連との不可侵条約は無効となった。いよいよ、人類の敵である共産主義者どもを殲滅し、東方植民地を実現するために戦う時が来た。赤軍はスターリンの大粛清によって有能な将官に不足し、未だ再編途中にある。今のソ連など蹴破れば崩れ落ちる腐ったドアに過ぎない。今なら勝てる。6ヶ月の間にモスクワ、レニングラード、そしてカフカス地方を攻略して戦争を終わらせるのだ。我らドイツ国民こそが欧州の覇者であることを世界に知らしめよう!」

5月10日、国境に集結していたドイツ軍は一斉にソ連領へと雪崩れ込んだ。
武装SS「トーテンコップフ師団」を率いる『獄長』ことテオドール・アイケ少将は、国境の向こう側で待ち構えているソ連兵を見ると部下にこう言った。
「おい、見ろ。共産主義に洗脳されたマヌケな露助どもがあんなにたくさんいるぞ。あいつら、どこに埋めてやろうか。ぐへへへ」


東部戦線で戦うドイツ兵スターリンの元には、数ヶ月前からドイツがソ連侵攻の準備をしているという情報が届いていた。それはドイツ国内に潜伏しているソ連のスパイのみならず、東京のドイツ大使館に潜入しているスパイ、リヒャルト・ゾルゲからも詳細な報告が届いていた。しかし、スターリンは信じなかった。それらの報告はあまりに詳しいものだったため、ドイツとソ連を争わせて共倒れを狙う英仏の謀略と考えたのだ。
そのためソ連軍は何の準備もしておらず、無防備だった国境の部隊はたった10日間で40個師団近くが壊滅した。ポーランドやフランスを即死させた電撃戦が三度行われようとしていた。

スターリンは頭を抱えて喚き散らした。
「何ということだ!ドイツ軍は、北アフリカや中東にあるイギリスの植民地を攻略するのではなかったのか?!」
茫然自失となったスターリンは執務室に閉じこもり、誰にも姿を見せなくなった。心配したモロトフが彼を訪ねると、「ついに自分は逮捕されるのか」と怯えた目をしていたという。


≪つづく≫

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