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2007.02.05 (Mon)

【黒猫ポンセの野望】「HEARTS OF IRON II」リプレイ(その14)

これまでの経過はこちら。 
「アシカ、アシカ、アシカ 我、奇襲ニ成功セリ」 チャーチルをイギリスから蹴落としました。


同床異夢の日独伊三国同盟 1939年10月21日~11月2日

フランスが休戦を申し出てきた10月18日、イタリアがギリシャヘ宣戦布告した。ドイツがたった7週間弱でポーランドとフランスを落としたのを見たムッソリーニ親方は、ドイツに続けとばかりに動き出したのだ。
「ヒトラーはいつもワシを出し抜く。そして気がつけばポーランドもフランスも手に入れている。我らイタリア人にも電撃戦ができることを証明してみせよう。ローマ帝国の再興を実現するのだ!」

22日にはギリシャと相互に独立保障を行っているユーゴスラビアがイタリアへ宣戦布告し、「イタリア vs ギリシャ&ユーゴスラビア」という形で戦争が始まった。あらかじめ国防軍情報部からイタリアの不穏な動きを知らされていたポテンテは、開戦を知るとすぐにヒトラー総統に進言してルントシュテット軍団をオストマルク(旧オーストリア)州へ派遣した。戦況によっては我が国もユーゴスラビアへ宣戦布告し、イタリアの膨張を防がなくてはならない。
イギリス侵攻作戦『あしか作戦』を控えたこの時期に、イタリアの余計な行動に気を煩わされることになったポテンテはひどくイラついていた。


状況は目まぐるしく動く。10月27日にはノルウェーで『アルトマルク号事件』が発生した。捕虜となったイギリス兵約300名を乗せたドイツの輸送船アルトマルク号が、中立国ノルウェーの領海内でイギリス海軍によって拿捕されたという事件だ。アルトマルク号は捕虜を乗せていたとはいえ商船の旗を掲げており、ハーグ海戦法規によれば補助船艇として敵の攻撃を受けずに中立海域を通過する権利があった。
この知らせを聞いたヒトラー総統はポテンテ補佐官とザールヴェヒター海軍総司令官を呼び、あしか作戦が終わり次第スカンジナビア侵攻の準備に取り掛かるよう二人に命じた。

総統がこの事件を問題視したのは、イギリスの国際法を無視した暴挙もさることながら、そのイギリス海軍の行為を黙って見ていたノルウェー政府の姿勢にあった。ドイツから猛抗議を受けたノルウェー政府は、イギリスに対して形ばかりの抗議をしたが、総統に「ノルウェーはいずれ連合国に加わるかもしれない」という疑念を抱かせた。
もし、ノルウェーが連合国に加わってイギリス海軍がノルウェー海で行動するようになれば、スウェーデンからの鉄鉱石の供給が止まる恐れがある。スウェーデンの鉄鉱石は、夏季はボスニア湾経由でドイツへ運ばれていたが、ボスニア湾が凍結する冬季はノルウェーのナルヴィクから積み出して大西洋~北海経由で運搬されていたからだ。

※ゲーム上ではそこまで細かく設定されてない。たとえノルウェーが連合国に加わっても、鉄鉱石は何の問題も無く供給される。しかし、そんなことを言っては身も蓋も無いので、話を大げさにしている。


10月30日、『日独伊三国同盟』締結のイベントが発生。いずれ決着をつけなければならないソ連との戦いに備え、日本と同盟を組んでおくのは当然の選択と言える。もちろん、イタリア抜きなのは言うまでもない。防共協定締結以来、総統官邸内部では日本との連携は既定路線となっていたことから、これに反対する声は殆ど無かった。ところが、これに対する駐ドイツ日本大使大島浩からの回答は、「同盟締結の必要性を感じない」という予期せぬものであった。

当初は「欧州での戦争には介入しない」という方針を掲げていた日本政府だが、ドイツの快進撃を見ると「バスに乗り遅れるな」とドイツとの連携を推進する声が高まり、一度はアメリカから批判されることを覚悟の上でフランス領インドシナへの進駐を行ったほどだった。しかし、結局はモロトフ=リッベントロップ協定を締結したナチス政権に対する不信感を拭い去ることができず、またソ連との戦いよりも南方への進出を優先したいという思惑があり、同盟締結に応じることはなかった。

日独同盟を強力に推進していたリッベントロップはひどく落胆し、プライドを傷つけられたヒトラー総統は「あのような二流民族に頼らずとも、ソ連に勝ってみせる」と強がっていたが、その傍らでポテンテはどこか安堵したような表情を浮かべていた。彼は、「正直、日本が断ってくれて助かった」と考えていたからだ。
そもそもドイツと日本ではソ連に対する態度が違いすぎた。モロトフ=リッベントロップ協定を締結しながらも「こいつはいつかブチ殺す」とソ連に対する敵意を隠さないドイツと、ノモンハン事件で派手に殴り合いをしながらも「できればソ連とは事構えたくない」と消極的な姿勢を取る日本では、お互いにとって有意義な同盟関係の構築など望むべくも無かった。

また、下手に日本と同盟を結べば、アメリカに欧州へ介入する口実を与える危険性があった。中国大陸の権益を巡って、日米はいずれ戦争を始めるだろう。そうなれば、アメリカは日独同盟を口実にイギリスを支援し、欧州に介入してくるに違いない。
普通の国が二正面作戦を行うなど愚の骨頂だが、圧倒的な工業力と豊富なマンパワーを有するアメリカだけは世界で唯一それができる国だった。ポテンテはイギリスなどさほど恐れていなかったが、アメリカだけは心底恐れていた。
「アメリカだけは絶対に敵に廻してはいけない。あの国と戦争するなど自殺行為だ」 



「太陽の沈まない帝国」の落日 - 1939年11月3日~ 1940年2月23日

かつて世界の海軍力の50%を一国で有し、『太陽の沈まない帝国』といわれたイギリスは、今やファシズムの海に浮かぶ孤島と化していた。 しかし、ヒトラーの考えではイギリスが絶対に譲れないものは海上支配と植民地支配であり、東方政策(いわば地続きの欧州大陸のみを制覇する政策)を目指すドイツとは共存し得るものであった。だからこそ、フランスが倒れればイギリスは和解に応じると考えており、ドイツが東方を目指す際にはイギリスはその後ろ盾となってくれるであろう国であった。
元々、イギリスとの戦いを望んでいたわけではないヒトラー総統は和平の提案を行った。
「これは和平に向けた最後のチャンスである。イギリスがこの機会を無視するならば、ドイツ軍がグレートブリテン島に殺到するだろう」

しかし、徹底抗戦を掲げるチャーチル首相の意志は固く、彼は首相に就任すると「ナチス・ドイツとの共存は絶対にあり得ない」という意見で国内をまとめ上げ、矢継ぎ早に戦時体制の構築に取り掛かった。さらに、チャーチルはアメリカを引き込むべく猛烈な外交工作を開始した。ソ連がドイツの取引応じた以上、イギリスをしのぐ工業力を持つ超大国アメリカだけがイギリスを救えるのだ、と。
しかし、モンロー主義を掲げ欧州情勢には介入しないことを国是とするアメリカの反応は鈍かった。大統領フランクリン・ルーズベルトを筆頭とするホワイトハウス首脳陣は、ドイツそして日本の台頭に危機感を持ち戦時体制を整えつつはあったものの、国内では未だ反戦機運が強く容易には動けない状況にあった。

しかし、チャーチルは「いずれアメリカは動く」と確信しており、次のような演説を行って国民を鼓舞し、ヒトラーからの和平案に対する回答とした。
「我々は最後まで戦い続ける。我々はフランスで、海で、大洋で戦う。我々は強固な自信と力とをもって空で戦う。たとえいかなる犠牲を払っても我々は祖国を護る。我々は浜辺で、滑走路で、野原や街路で、丘陵で戦う。そして、我々は断じて降伏しない!」


この演説を聞いた総統は途方に暮れてしまった。予想以上の速さでフランス攻略に成功したため、彼にはイギリス侵攻について何のプランも無かったからだ。しかし、ポテンテとザールヴェヒター海軍総司令官はドイツ海軍復興計画『Z計画』において、この日が来ることに備えて必要最低限の輸送艦を整備しておいた。総統は軍艦の主砲のサイズにまで口出しするくせに、こういう事態になることを全く想定していなかったのだ。
総統の『当てにならない直感』は、機甲師団の活躍などの当たりも生み出したが、その一方でこういう見落としが多々あったことから、ポテンテは様々な人に相談して足りないものを補う作業を怠らなかった。

ザールヴェヒターが作戦決行が可能であることを告げると、想定外の事態に困惑していた総統は安堵の表情を浮かべた。その様子を見たポテンテは、ザールヴェヒターにそっと耳打ちした。
「天才とバカは紙一重。さて、あの総統はどちらでしょう?」


我が軍は直ちに「あしか作戦」の準備に取り掛かり、作戦は11月3日に決行された。ドイツ海軍はレーダー提督率いる主力艦隊が空母3隻、戦艦6隻を有していたものの、イギリス海軍はその2倍以上の規模を誇り、正面から激突しては大損害が出ることは必須だった。しかも、ドイツの海軍ドクトリンは潜水艦仕様となっており、艦隊戦には向いてないのだ。
となれば、イギリス海軍の隙をついて上陸作戦を決行するしかないわけだが、これを見たヒムラーはポテンテとザールヴェヒター海軍総司令官に対し、「まるで、番犬の隙を狙って魚を盗む泥棒猫のような作戦ですな」と嫌味を言った。

ヒムラー率いる親衛隊は組織拡大を狙って、国防軍とは別に「武装SS」なる戦闘部隊を組織し、ポーランドにもフランスにも参戦していた。しかし、機甲師団が中心の武装SSにイギリス侵攻作戦の出番などあるはずもなく、ヒムラーはそのことに酷く気分を害していた。
「我々、武装SSは精鋭中の精鋭。徴兵でかき集めた国防軍などとは質が違うのだ」と豪語し、イギリス侵攻作戦に自分達も加えるよう要求してきたヒムラーに対し、ポテンテは冷たく言い放った。
「山が多いイギリスで戦車は生きません。ポーランドへ移動してソ連との戦いに備えてください」

ポテンテはヒムラーが大嫌いだった。自分はうだつの上がらない風貌の小男のくせに、親衛隊の入隊基準は「身長180cm以上、髪はブロンド、目はブルー」などと言っているのだ。これに該当するナチ党幹部など何人いることか。笑ってしまうではないか。
また、ミュンヘン近郊にダハウ強制収容所を作り、政治犯などを収容しては「再教育」という名目で拷問を加えるよう命じていたのは、他ならぬこの男だった。
ヒムラーが部屋から出て行くと、ポテンテはドアを睨みながら吐き捨てた。
「自己顕示欲に囚われた変態サディストめ!」


シェルブールを出発したブロンベルク軍団はイギリス海軍の大艦隊に襲われることなく無事にドーバー海峡を渡り、11月4日にポーツマスへの上陸を果たした。ドイツ軍の上陸を許したイギリスに、もはや勝ち目は無かった。陸軍の戦力はドイツのほうが圧倒的に上なのだ。グレートブリテン島に橋頭堡を確保した我が軍は次々と援軍を送り込み、11月16日にロンドンを陥落させた。
ヒトラー総統はパリからドイツに戻るとベルリンに滞在していたが、ポテンテは総統からの命により、ベック統合参謀長や三軍の総司令官と共にシェルブールの作戦本部に残っていた。総統官邸にロンドン陥落の知らせが届くと、ヒトラー総統はすぐにシェルブールに電話を掛けてきた。
「ポテンテ君!私達は歴史を変えたのだ!皆、よくやった。よくやったぞ!ドイツは勝った!」

歩兵部隊が中心であるため、速度は遅いものの我が軍は順調に進軍を重ね、翌1940年1月22日にはスコットランドの北端スカパ・フローに到達してグレートブリテン島制圧を完了した。心配していたイギリス海軍の大艦隊も、レーダー提督が獅子奮迅の働きを見せて戦艦3、空母2を含む計12隻を撃沈するという結果に終わった。こちらの被害は駆逐艦1、潜水艦1のみだった。
「あしか作戦」は大成功に終り、太陽の沈まない帝国についに落日の日が訪れた。世界一の海軍を持つ国はその自慢の海軍を生かすことなく敗れ去り、インドのカラチ(現パキスタン)へと落ち延びていった。


往生際の悪い男チャーチルしかし驚くべきことに、イギリスは本土を失ってもなお休戦に応じようとしなかった。インドを拠点に徹底抗戦するつもりなのだ。ヒトラーは机を激しく叩いて怒鳴り散らした。
「小癪なチャーチルめ!インドまで首を取りに来いというのか。ほぼ無傷で残った海軍を武器にインドで再起を図るつもりなのだろうが、そうはいかんぞ!」
一方のチャーチルはカラチの暑さにうんざりしながらも、なお闘志を失っていなかった。
「我々にはまだインドがある。大英帝国はまだ沈まない」

また、ロンドンが陥落したその日、中国国民党が共産党を併合したとの知らせが届いた。史実では中華世界の覇王となった毛沢東だが、この世界では何の見せ場も作ることなく延安の土となって消えた。


≪つづく≫

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