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2006.12.04 (Mon)

【世界の香ばしき国々】第22回:コロンビア(Part2) - ボリバルの遺志を継ぐ・・・どころか内訌を繰り返すバカども

前回の記事の続きです。

南米を解放した英雄シモン・ボリバルですが、民衆や他国の理解を得られず彼の夢は頓挫し、夢破れて失意のまま死亡します。しかも、コロンビア人は彼の遺志を継ぐどころか、彼が見たら嘆くであろう壮絶な殺し合いを始めます。
コロンビアが未だにズタボロのダメ国なのは、この時期に内乱を繰り返して道を踏み外したから、と言っても過言ではないでしょう。パラグアイみたいに強力な独裁者が余計なことをして国が破滅するのも問題ですが・・・。


◆グラン・コロンビアの崩壊 - 19世紀前半
南米各地の解放を達成したボリバルは、「アメリカや欧州の列強から搾取されないよう、南アメリカ諸国は団結しなければならない!」と「ラテンアメリカ諸国連合」の創設を提案し、1826年にグラン・コロンビア、ペルー、メキシコ、中米連合(グアテマラなど5ヶ国)を招待して会議(パナマ会議)を開いた。ボリバルは他のラテンアメリカ諸国にも参加を呼び掛けたが、多くの国は彼に主導権を握られることを警戒して欠席している。
ボリバルはこの会議において連合軍の設立や加盟国間の紛争解決のための裁判制度を設けることを提案したが、連合に縛られることを嫌った各国からの理解を得られず失敗に終わった。

それどころか、ボリバルの理想はグラン・コロンビア国内ですら理解を得られず、中央集権志向のボリバルと分権志向の有力地主等との対立が深まった。労働者や奴隷をコキ使うことで莫大な利益を上げてきた地主や農園主が、ボリバルが掲げる平等主義や奴隷制廃止に賛同するわけがなく、さらにベネズエラやキトにはボゴタ主導で物事が進むことに不満を感じている人が大勢いた。
パナマ会議から半年も経たない1826年11月、中央政府の集権的手法に反発したベネズエラが独立を宣言して反乱を起こした。ボリバルは軍隊を投入してこれを鎮圧した他、憲法停止措置など強権を発動して必死に分離独立運動を抑え込もうとするが、中央政府内でも中央集権支持派と連邦制支持派の対立が酷かったうえに、1830年にはキトまで分離独立を宣言してしまい、グラン・コロンビアは崩壊した。

夢破れたボリバルは1830年12月にサンタマルタで病死した。かつてはベネズエラ有数の大富豪だった彼だが、長年に渡ってコロンビア独立のために私財を投入し続けたため、晩年には無一文になっていた。彼は、「歴史上、3人の偉大な馬鹿がいる。それはイエス・キリストとドン・キホーテと私だ」と言い残して死んだという。南アメリカ諸国を独立に導いた英雄の最期はあまりに哀れなものだった。
ボリバルが死ぬとグラン・コロンビアという枠組にこだわる政治家は誰もいなくなり、ベネズエラは「ベネズエラ共和国」として、キトは「エクアドル共和国」として分離独立した。ボゴタやサンタマルタなどを含む残りの地域は再編され、コロンビア共和国改め「ヌエバ・グラナダ共和国」として再出発することとなった。


◆千日戦争とパナマの独立 - 19世紀後半~20世紀前半
1886年になると国名が「コロンビア共和国」に変更となり、現在あるコロンビアという国の枠組みが出来あがった。しかし、当時から貧富の差が酷く、地主階層と教会といった既得権益層を支持基盤とする「保守党」と、19世紀に入ってから栽培が盛んになったコーヒーで財を成した新興企業家や農民などに支持される「自由党」が激しく対立することになる。

1899年、保守党政権がコーヒーの国際相場暴落による歳入減に耐えかね不足分を紙幣増刷によって補おうとしたため、コロンビアでは酷いインフレが発生した。金本位制の時代に不換紙幣を乱発するなど自殺行為以外の何物でもなく、これに怒った自由党急進派が武装蜂起して「千日戦争」と呼ばれる内戦が始まった。
自由党はベネズエラからの軍事援助を頼りに戦うが政府軍に大敗。保守党政権はここぞとばかりに自由党壊滅を目指して徹底的に弾圧を加えたため、内戦が長期化してコロンビアが政情不安定になるのを嫌ったアメリカが1902年に軍事介入する事態となった。アメリカに叱り飛ばされた保守党は方針を変更して和平協定に応じたものの、3年に及ぶ内戦で約15万人の死者が出た。


アメリカが介入した理由はパナマ運河の建設にある。アメリカは太平洋と大西洋を結ぶ運河を長年欲しており、ニカラグアとパナマを建設候補地として検討を続けていた。1902年にパナマに建設することが決定したが、当時のパナマはコロンビア領。自国の安全保障に重大な影響を与える運河をこれから作るというのに、当事国のコロンビアはそんなことはお構い無しに内乱を続けていた。そこで、アメリカは「おまいら、いい加減にしろ、ゴルァ!」と軍事介入したわけだ。

「こんなバカ国に大事な運河は任せられない」と判断したアメリカは、何が何でも運河を自らの管轄下に置くことを要求し、コロンビア政府に「ヘイ・エルラン条約」の調印を迫った。この条約は1,000万ドルの一時金と年間25万ドルの使用料と引き換えに、100年間の運河建設権、運河地帯の行政権をアメリカに認めるというもの。かなり高圧的な条件の条約に見えるが、もしパナマ運河が敵国の手に落ちるようなことがあれば、アメリカの安全保障は重大な危機に晒されるのだから仕方ない。
アメリカ政府は要求に見合った大金を提示したつもりだったが、条約更新の優先権がアメリカにしかない点や、コロンビアはアメリカ以外の国に権利を譲渡できない点でコロンビア人の怒りを買い、国会でこの条約の批准が拒否されてしまった。

するとアメリカはパナマの独立運動を支援し、パナマ独立させてコロンビアから切り離すことを画策した。1903年にパナマは「パナマ共和国」として独立するが、内戦でズタボロになっていたコロンビアにこれを阻止する力は無かった。アメリカはヘイ・エルラン条約とほぼ同じ内容の条約をパナマに締結させて運河の安全を確保した。パナマはアメリカによって独立を保障され、莫大な通行料を手にすることができたが、それと引き換えに激しく内政に干渉されてアメリカの飼い犬のような立場となる。
アメリカはパナマが自国の意向を無視することを決して許さず、事あるごとに内政干渉を行い、マヌエル・ノリエガ将軍のようなろくでなしが台頭して国情が不安定になると、軍事侵攻を行ってまで叩き潰している。パナマ運河は1999年にパナマ政府に返還されたが、この国が反米的な動きをしたらアメリカはあらゆる手段を使って容赦なく締め上げるに違いない。

アメリカの策謀によってパナマを掠め取られたコロンビアは激怒するが、かといってアメリカに喧嘩を売る度胸も無いのでペルーに侵攻するなどして鬱憤を晴らしていた。ペルーにとっては迷惑このうえない。
1914年に就任したマルコ・スアレス大統領は、パナマは奪還は不可能と判断し、親米路線に切り替えてアメリカからの投資を呼び込もうとした。結局、コロンビアは1924年に2,500万ドルの補償金と引き換えにパナマの独立を承認した。


◆ラ・ビオレンシア(暴力の時代) - 1948年~1953年
1920年代になると労働環境・待遇改善を訴える農民デモが多発するようになるが、当局や資本家によって激しく弾圧された。1928年には中南米諸国で手広くフルーツ栽培を行っていた多国籍企業ユナイテッド・フルーツ社が、ストライキに参加した労働者数百人を虐殺している。彼らは組合の代表として団体交渉の席に臨んだところ、いきなり全員まとめて射殺されたのである。労働運動の高まりとと共に社会主義思想が広まり、1926年には革命的社会主義党(後の共産党)が結党され、急速に支持を拡大していく。
しばらく自由党政権が続いていたコロンビアだが、相変わらず保守党と自由党の争いが酷く、政情は一向に安定しなかった。二大政党制といってもアメリカやイギリスのようなスマートなものを期待してはいけない。民度の低いこの連中のやることなので、与党による不当逮捕や選挙妨害、野党の扇動による暴力的なデモやストライキなど当たり前なのだ。

労働運動を弾圧しすぎたせいで保守党が嫌われ、しばらく自由党政権が続くが、1946年に保守党が16年ぶりに政権を奪還した。すると保守党支持者である大地主達は、自由党政権による労働者寄りの政策によって失った土地などを取り返すべく民兵組織を作って自由党員を弾圧した。警察やマスコミは保守党によって押さえられているので、民兵の暴挙を見て見ぬふりをした。
1948年に自由党の大統領候補者が首都ボゴタで白昼に、しかもデモ行進の真っ最中に暗殺されるという事件が起こる。これに激昂した自由党支持者は、警察署を襲撃して武装すると刑務所や放送局を占拠し、軍隊と市街戦を繰り広げた。暴動は3日後に鎮圧されたが、その後の軍の報復によって5,000人が殺害された。
これ以降、コロンビアは「ラ・ビオレンシア(暴力の時代)」と呼ばれる内戦に突入する。

自由党支持者の蜂起はボゴタのみならず国中で発生するが、保守党は軍や警察、さらには自前の民兵組織を使ってこれを徹底的に弾圧し、自由党の政治家を中央政府はもちろん地方政府からも全て追い出した。1950年に保守党のラウレアーノ・ゴメスが大統領に就任すると弾圧はさらに酷くなり、自由党員は共産主義者のレッテルを貼られて2年間で5万人以上の民衆が殺害された。
当然、自由党支持者も黙って殺されるわけがなく、自衛組織を作って対抗することに。やがて両党のイデオロギー対立は階級闘争へと発展し、自由党支持者の自衛組織は保守党支持者である大地主への襲撃を繰り返したことから、これらの大地主は土地を捨てて都会へ逃げ出す羽目となった。

≪Part3へつづく≫

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