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2013.01.28 (Mon)

2009カザフスタン・南朝鮮旅行記(第35回)

いやいや、だいぶ間が空いちゃいましたね。ごめんね。
それじゃ、ボチボチ始めようか。


◆朝鮮のインチキを暴く(三田渡碑編)

さて、笑韓の神様に導かれて蚕室(正確には蚕室の隣にある地下鉄8号線石村駅)へやって来たにゃおんちゃん。
地下鉄駅を出たところで、目の前にあるのはだだっ広い道路と高層ビルとコンビニと銀行くらい。普通の観光客が来るところではない。一体何が目当てでこんなところにやって来たのでしょう?

その答えは「大清皇帝功徳碑(通称:三田渡碑)」。
17世紀半ば、女真族(満洲に住んでいたツングース系民族)の建国した清が朝鮮に対して朝貢と明への派兵を求めると、女真族を野蛮人と蔑んでいた朝鮮王朝は「てめぇら野蛮人に朝貢なんかするわけねぇだろ!ウリの宗主国様は明だけニダ!」とこれを拒否した。案の定、清国皇帝の怒りを招いた朝鮮は激しく攻め立てられ、ボコボコにされて屈辱的な内容で講和条約を結ぶ羽目になった。(丙子胡乱)

そして、この三田渡碑はその際に朝鮮王が清国皇帝に9回地面に頭を擦り付けて服従を誓った(三跪九叩頭の礼)ことについての記念碑なのである。
この石碑には満洲語の碑文が刻まれているのだが、その内容を要約すると「大馬鹿の朝鮮王は愚かにも偉大な清国皇帝に逆らった。清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった。良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するため、この石碑を建てることにする。」というもの。

朝鮮人はこれでも<`Д´ #>「ウリナラは中国の属国だったことはないニダ!」と言い張るのだろうか?
ちなみに、このときの講和条約の内容たるや凄まじいもので、詳しくは以下のとおり。

1.朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと
2.朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと
3.王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること
4.清が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること
5.内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること
6.城郭の増築や修理については、清に事前に承諾を得ること
7.清に対して黄金100両・白銀1,000両と二十余種の物品を毎年上納すること
8.清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること
9.清が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること
10.清からの逃亡者を隠してはいけない
11.日本との交流を許すこと

どうですか?凄いでしょ?
ちなみに、7番の「二十余種の物品」ってところに、朝鮮が毎年朝貢していたと言われている牛や馬、宦官や処女などが該当する。
「処女3,000人を毎年貢いでいた」ってのは眉唾らしいけどね。当時の朝鮮の人口を考えると無理ありすぎるし。

しかし、清の属国だった国は多々あれど、ここまで屈辱的な扱いを受けた国も珍しい。
実際、朝鮮は清の属国の序列でも最低ランクに位置づけられていたからね。元々国力が貧弱なのに無駄に逆らったせいで余計に待遇が悪くなったのだろうかね?
ま、朝鮮人が致命的な外交ミスを犯すのは別にこれが初めてでもないし、最後でもない。究極の二択をさせたら絶対に間違えるんだから、あいつら。


三田渡碑のある公園
朝鮮のインチキを暴く土下座碑はこんな普通の公園の片隅にあった・・・。

石村駅を出てすぐに路地へ入り、住宅街の中を進んでいくと公園がある。
そして、三田渡碑はその公園の片隅にポツンと立っていた。周りにはマンションや一戸建ての住宅が建ち並び、公園では近所の子供たちがキャッチボールしてたりなんかする。そんな平穏な日常に満ちたごく普通の公園の片隅に、朝鮮人の自尊心(≒虚栄心)を吹き飛ばしかねない危険なブツがひっそりと鎮座していたのであった。

そのギャップたるや凄まじく、一瞬言葉を失い立ち尽くすにゃおん氏。すぐに気を取り直して観察に取り掛かり、さらに写真を撮り始めるが、公園で遊んでいた小学生達が不思議そうな顔をしてこっちを見ている。
ま、今のあんたらにはこの石碑の意味など分かるまい。いや、知らないほうが幸せなままでいられるのかもな。

そう、南朝鮮政府はこの石碑の存在を隠匿してるのである!
一応、大韓民国指定史跡101号として文化財扱いはしているが、朝鮮が中国の属国だったことを学校でまともに教えていないのだから、こんなヤバい石碑の存在について触れられるわけがない。
実際、某三国人チャットで多数の朝鮮人と丙子胡乱について議論したが、この石碑の存在を知っていた奴はたったの2人である。しかも、そのうちの1人は「三田渡碑」という文字を見た途端にファビョってしまい、殆ど話にならなかった。
朝鮮人が説く朝鮮の歴史なんか、三田渡碑と訓民正音を持ち出すだけで簡単に論破できる。「三田渡碑の碑文を読め、訓民正音を読め(ただし原文で)」って言うだけ。
ま、あいつら漢字読めないからダメなんだけどね。


土下座碑本体
これが三田渡碑の本体。
本来は対になっているのだが、石碑の片方は滅失して土台だけになってしまった。

しかし、一応こうやって保護してるだけ南朝鮮政府はまだマシ。
あいつら、日清戦争後の1895年と第二次大戦終了後の1956年に「こんな恥ずかしい石碑は埋めてしまうニダ!」ってホントに埋めやがったからな。
しかし、漢江の洪水によって埋めたはずの石碑が再び姿を現してしまい、1913年には当時の日帝が、1963年には南朝鮮政府がこれを保護して立て直している。埋めても埋めても姿を現す三田渡碑の呪い・・・。

石碑のある公園は地下鉄駅から近いとはいえ、石村は漢城の中心部からかなり遠く、余裕で1時間くらい掛かる。正直、面倒だったのだが、どうしても今のうちに見ておく必要があった。その理由は石碑の隣に立っているレリーフにある。
実はこの三田渡碑は元々この場所にあったものではない。埋めたはずの石碑が1963年に再び姿を現したとき、置いておくのに適当な場所が無かったのでここに置いただけ、ということらしい。
近年、近隣住民からの要望(この石碑の正体を知ってしまった不幸な朝鮮人が荒らしに来るから)でこの三田渡碑を本来あった場所(蚕室のロッテワールド内らしい)に戻そうという動きがあり、その際に「石碑は歴史的遺産なのでちゃんと移設するが、付属のレリーフには歴史的価値は無いので移設しない(解体する?)」という内容の記事をウリナラチラシで見かけたことから、これは移設される前に何としても見ておかないと!と思ったのであった。
そんなことでもなけりゃ、わざわざこんな漢城の端っこまで来ませんよ。

朝鮮人の皆さん、にゃおんちゃんはもう証拠写真撮っちゃったからね。
移設にかこつけて土下座レリーフを破壊しても、無かったことにはできませんからね。


土下座レリーフ
これが付属のレリーフ(通称:土下座レリーフ)。
朝鮮王が三跪九叩頭の礼を行う様子が描かれている。



≪つづく≫


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