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2011.02.07 (Mon)

それでも君を

ゲイリー・ムーア、死去

ギタリストのゲイリー・ムーアが日曜日(2月6日)、休暇で滞在中だったスペイン、コスタデルソルのホテルで亡くなった。58歳だった。

現在のところ、死因は明らかにされていないが、睡眠中に亡くなったと報道されている。彼の死を発表したマネージャーは、あまりに突然のできごとに「まだ信じられない」とBBCに話している。「彼はものすごく元気だった。彼はロックの犠牲者じゃなかった。健康だった」

北アイルランド、ベルファストで誕生したゲイリー・ムーアは14歳でバンド活動をスタート。1969年、16歳のときにスキッド・ロウへ加入しレコード・デビューを飾った後、シン・リジィに参加。その後のソロ活動も成功し、レジェンド・ギタリストとしての地位を確立した。

シン・リジィのギタリスト、スコット・ゴーハムは「『Black Rose』時代、ゲイリーとプレイできたのは素晴らしい体験だった。彼は素晴らしいギタリストで素晴らしい人間だった」と、1967年からゲイリー・ムーアを知っているというブライアン・ダウニー(Dr)は「ものすごいショックだ。彼のために祈る。いなくなってしまったなんて信じられない」と哀悼している。

ゲイリー・ムーアは2010年春、21年ぶりに来日公演を行なったばかりだった。

Anger As Art/Abattoirのフロントマン、スコット・ゲインズは、ムーア・ファンを代弁するこんな声明を発表している。「ゲイリー、フィル(・ライノット)が出迎えてくれていると願っている。コージー(・パウエル)を探してくれ。そして、俺らがそこに行くまでに、アルバム何枚分かの曲を作っておいてくれ」

2011年2月7日 BARKS


THIN LIZZYの名曲"Still In Love With You"にこんな一節がある。
"Is this the end? I'm still in love with you" (これでおしまいなの?今でもあなたを愛しているのに)


1986年1月4日、THIN LIZZYのリーダー、フィル・ライノットが亡くなったその日、深夜ラジオでそのことを知ったにゃおんちゃんは泣きながらこの曲を聴いていた。最愛のバンドTHIN LIZZYの再結成が永遠に不可能となったからだ。(後にジョン・サイクスとスコット・ゴーハムがTHIN LIZZY名義でツアーをするが、あれはあくまでトリビュート・バンドであって本物ではない)

あれから25年、また泣きながら"Still In Love With You"を聴く日が来ようとは・・・。
2011年2月6日、"Still In Love With You"でギターを弾いていたゲイリー・ムーアが、突如として天国へ旅立った。享年58歳。
現時点では死因は不明だが、ともかく、にゃおんちゃんは最愛のバンドのリーダー(フィル・ライノット)、最愛のドラマー(コージー・パウエル)に続き、最愛のギタリストも失った。



THIN LIZZYは1983年に解散したが、多くのファンがフィルはまたいつかTHIN LIZZYを復活させるだろうと思っていた。実際、フィルはブライアン・ダウニーとジョン・サイクスを誘ってすぐに再結成するつもりだったらしい。
ところが、ジョン・サイクスは当時『Geffen』との契約を得てアメリカ進出に乗り出していたWHITESNAKEに加入してしまう。途方に暮れたフィルとブライアンだったが、STAMPEDEのローレンス・アーチャーを見つけて始めたのがGRAND SLAMなのである。
にゃおんちゃんが「サイクス!てめぇがTHIN LIZZYを名乗るんじゃないよ!」と憤るのはこの経緯を知っているからである。

結局、GRAND SLAMはマスコミから「THIN LIZZYの二番煎じ」などとボロクソに叩かれた末に1年ちょっとで解散してしまう。失意のどん底に叩き落されたフィル親父に手を差し伸べたのは、かつて殴りあいの喧嘩の末に絶交となっていたゲイリー親方であった。
ヒースロー空港でばったり会った二人は、また罵り合いを始めるのではないかという周囲の心配とは裏腹に、「久しぶりだね。元気だった?」とハグを交わしたという。これをきっかけに親交を復活させた二人は、レコーディング中のゲイリーの新作にフィルが参加するという形で、1979年リリースのTHIN LIZZYのアルバム「BLACK ROSE」以来のコラボレーションを実現する。

1985年にGARY MOORE&PHIL LYNOTT名義でリリースされたシングル"Out In The Fields"は全英チャートで5位となるヒットを記録し、これで再びレコード契約を手にしたフィルはソロ・アルバムの製作に取り掛かる。その後間もなくリリースされたゲイリーの「RUN FOR COVER」では、9曲中2曲でフィルの歌とベースを聴くことができる。
一方、フィルとの再会でアイルランド人としての自分を再確認する機会を得たゲイリーは、次作はアイルランド色の強いものにすることを決め、再びフィルと競演するための楽曲("Wild Frontier")まで用意していた。

しかし、フィルの死によって全ては幻となった。「いつの日か、フィルとゲイリーの二人がブライアンとスコット・ゴーハムを誘いTHIN LIZZYを再結成してくれるに違いない」という夢を絶たれ、にゃおんちゃんは号泣したのであった。 


1987年、リリースされたばかりの新作「WILD FRONTIER」を聴き終えたにゃおんちゃんは、感動のあまり目をウルウルさせていた。何気なしにレコードジャケット(当時はまだアナログが主流!)の帯をずらしたところ、ジャケットの隅に小さく書かれた「FOR PHILIP」の文字が。次の瞬間、にゃおんちゃんの目からは涙が溢れ出していた。
こうして、ゲイリー親方はにゃおんちゃんにとって最愛のギタリストとなった。もちろん、それまでにリリースされたアルバムも大好きだったが、この日からゲイリー親方はにゃおんちゃんにとって「フィルの魂と志を継ぐ唯一無二の特別なミュージシャン」となった。

1989年リリースの「AFTER THE WAR」は、期待していた「WILD FRONTIER」の続編ではなかったものの、"Blood Of Emeralds"というアイリッシュ・トラッド色の強い曲が収録されており、次作を期待させるに十分な出来だった。(コージー・パウエルにドラムの叩き方を指図するという暴挙をやからし、怒ったコージーが脱退してしまうという事件を起こしているが・・・)


ところが、1990年の「STILL GOT THE BLUES」で風向きが変わる。
この当時、HM/HR界ではブルース色の強いバンドがもてはやされており、これを見たゲイリー親方が「俺が若造どもに本物のブルーズってものを見せてやる!」と言い出したのがきっかけだった。当初は、1枚だけブルーズ・アルバムを作り、その後はまた元のロック路線に戻るはずだったのだ。当初は・・・。
「STILL GOT THE BLUES」は親方が大口叩いて作っただけあって傑作となり、HM/HR界の住人はもちろん、ミック・ジャガーやジョージ・ハリスン、さらにはアルバート・キングやアルバート・コリンズなど本職のブルーズ・ギタリストの大御所達にも絶賛され、なんとアメリカだけで200万枚の売り上げを記録する大ヒットとなってしまった。

それまで、日本やイギリスではアリーナ規模の会場でライヴをできる存在だったのに対して、アメリカではRUSHの前座がいいところだったのに、いきなりダブル・プラチナムである。これですっかり気を良くしたゲイリー親方はブルーズ路線へと転向してしまう。
その後、ジャック・ブルース&ジンジャー・ベイカーの元CREAMコンビと「BBM」を結成し、1994年にアルバムをリリースするが、わがままなおっさんの3人組だけに予想通り(?)これ1枚でプロジェクトは消滅。1995年には敬愛する元FLEETWOOD MACのピーター・グリーンのトリビュート・アルバム「BLUES FOR GREENY」でソロに戻る。
このあたりまでは、「早くロックやってよぉ」と思いつつも、ちゃんとアルバムを買っていたにゃおんちゃんだが、ここでゲイリー親方は仰天の行動に出る。


1997年リリースの「DARK DAYS IN PARADISE」は、あろうことかドラムンベースによる奇怪なビートの上にゲイリー親方のギターが乗っているという珍作となり、これで完全にブチ切れたにゃおんちゃんはゲイリー親方に絶縁状を叩きつけ、「またハードロックをやるまで、もうあんたのアルバムは買わない!」と誓ったのであった。
キレちゃったのはにゃおんちゃんだけではなかったようで、あらゆる人からボロクソにコキ下ろされたこのアルバムはセールスも惨敗し、ゲイリー親方はメジャー・レーベルとの契約も失った。しかし、懲りない親方は同路線で1999年に「A DIFFERENT BEAT」を発表し、またしても袋叩きに遭う。

さすがに反省したのか、ゲイリー親方は2001年の「BACK TO THE BLUES」で再びブルーズ路線に戻るが、もはやにゃおんちゃんの興味を引く存在ではなかった。
2003年にはハードロック路線に戻る気配を見せ、「LIVE AT MONSTERS OF ROCK」なるライヴ盤をリリースするが、すっかり不信感に囚われたにゃおんちゃんはこれすらもスルーした。「ほんとにやる気あんなら、ボブ・ディズリーとニール・カーターを呼び戻しなさいよ」ってなもんであった。
2010年には21年振りの来日公演を行うが、演奏するのはどうせブルーズ曲ばかりなわけで、高い金を払って見に行こうとはこれっぽっちも思わなかった。
こうして、ゲイリー親方の離別は13年に及んだ。



2010年夏、何を思ったのか親方はニール・カーターを呼び戻し、1980年代のハードロック曲を演奏するツアーに出た。
実は、にゃおんちゃんは所用で2010年9月下旬にウクライナへ行っていたのだが、キエフの街中至るところにゲイリー親方のライヴ告知のポスターが(そして、SCORPIONSの最後のツアーのポスターも)貼られていて驚いた。何とか見に行けないものかと思案したが、親方がキエフにやって来るのは1週間後。さすがに1週間も帰国を遅らせるのは不可能で、泣く泣く諦めた。

「ニール・カーターを呼び戻したってことは、次はハードロックのアルバム作るのね?また日本にも来るよね?」と思っていた矢先の今回の訃報であった。
今夜は我が家にあるゲイリー親方関連のCDとDVDを片っ端から引っ張り出し、ウォッカを飲んで泣きながら追悼しようと思う。先日、1985年「Run For Cover Tour」のライヴ音源を手に入れて喜んでいたのだが(にゃおんちゃんはこの1985年のラインナップが一番好き)、まさかこんなことになろうとは・・・。


親方、謹んでご冥福をお祈りいたします。
天国でフィルやコージーとバンドやるんでしょう?
いつか、僕がそっちへ行く日が来たら、ライヴを見せてくださいね。


And I remember a friend of mine.  (忘れ難き我が友)
So sad now that he's gone. (彼が逝ってしまい、今はとても悲しい)
They tell me I'll forget as time goes on. (時が経てば忘れると人は言うけれど)

"Wild Frontier"より





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テーマ : HR/HM - ジャンル : 音楽

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