【黒猫ポンセの野望】「HEARTS OF IRON II」リプレイ(その8)
これまでの経過はこちら。
いよいよ本格的に暴走していくドイツ。話がどんどん重くなっていきます。こんなはずではなかったのだが・・・。
砕かれた水晶の夜 - 1938年11月9日〜11月10日
ナチス・ドイツの恫喝外交によって欧州情勢が加速的に香ばしくなる中、ポテンテは来るべき戦争に備えて軍備増強に奔走していた。自然と国内の空気も戦争目前の切迫したものになっていき、それに伴ってユダヤ人に対する弾圧も過酷さを増していた。
そして11月9日、ついに越えてはならない一線を越える事件が起こった。水晶の夜事件(クリスタルナハト)だ。
ゲッベルス宣伝相の扇動で興奮した突撃隊(SA)やナチ党員がついに暴発し、ドイツ全土でユダヤ人街やシナゴーグ(ユダヤ教の教会兼集会所)を一斉に襲撃したのだ。ヒムラーの差し金により警察が見て見ぬふりをしたため、ユダヤ人は成す術なく殺害され略奪に遭った。
もはやユダヤ人排斥運動の激化は止められないことを確信したポテンテは、まずは他の外国人に累が及ぶのを防ぐべく、ナチ党外務部長アルフレート・ローゼンベルクに協力を仰いだ。
ローゼンベルクは『我が闘争』に次いでナチ党員に大きな影響を与えた書物、『二十世紀の神話』の著者として党の思想やイデオロギーに大きな影響力を持っており、ゲーリングやヒムラーの掲げる「ゲルマン民族"しか"認めない」というものに比べて、彼の「ユダヤ人"だけ"認めない」という主張はポテンテにとって受け入れやすいものであった。また、エストニア出身で東欧情勢に詳しく、「ドイツがボリシェヴィキの圧政からの解放を訴え、ウクライナ人国家やバルト連邦、カフカス連邦を作ることで、ロシア人の侵略を阻止できる」という彼のヴィジョンにポテンテは大きく共感していた。
ヒトラー総統が『我が闘争』の中で「スラブ民族は劣等民族」と唱えていることもあり、ナチ党内ではゲーリングやヒムラーなどが主張する「東方にドイツ人を入植させて直接統治を行い、スラブ民族は奴隷化する」という考えが圧倒的に主流だった。そのため、反主流派の二人は自然と共闘する機会が多く、またアクの強い性格の人物が多いナチ党幹部にあって、ローゼンベルクはクールでインテリ然としていたことからポテンテとはウマが合った。
しかし、学者肌のローゼンベルクは悲しいほどに政治に関するセンスが無く、いつもヒムラーやリッベントロップに自分の仕事を邪魔されていた。そのたびにポテンテが総統に掛け合って彼の仕事を助けていたことから、二人は同志のような関係となっていた。
二人はギュルトナー内相の協力を得て警察組織を率いるヒムラーに圧力を掛け、翌日には暴動の沈静化に成功した。ユダヤ人以外に被害者が出ることは無く、最悪の事態は何とか回避された。
偉大なトルコ人の死 1938年11月11日〜1939年1月12日
暴動の沈静化にホッとしたその翌日の11月11日、彼の元に悲報が届いた。敬愛するトルコ大統領ケマル・アタトゥルクが亡くなったという知らせだった。トルコを破滅の危機から救った救国の英雄にして、近代国家へと生まれ変わる道筋をつけた建国の父は、その実現を目前にしてこの世を去った。
取るものもとりあえずイスタンブールへ向かい葬儀に出席すると、ケマル閣下の後継者イスメト・イノニュから閣下がポテンテに遺した手紙を手渡された。そして、手紙を読み終えた彼は人目もはばからずその場で号泣した。手紙には次のように書かれていた。
「ポンセよ、私にも神の元に旅立つ時が来た。私にはまだやるべきことがあるのだが、偉大なる神アラーはこのケマル・アタトゥルクのことがよほど好きらしい。しかし、私が死んでも心配することはない。私に代わってイノニュがお前を助けるだろう。
お前の夢はトルコの夢、そして世界中の夢だ。皆で力を合わせて輝かしい未来を築いてくれ」
ケマル閣下と過ごした日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、ポテンテの涙はいつまでも止まらなかった。 Guicho Zurdoの出す意味不明な命令や彼のわがまま・気まぐれに苦しめられていたポテンテにとって、ケマル前大統領は「独裁者とはかくあるべし」という存在だった。ポテンテは、もし世の中に「正しい独裁者」というものが存在するとしたら、それはケマル・アタトゥルクのことなのだろうとさえ思っていた。
葬儀を終えるとイノニュ大統領に呼ばれ、「トルコはケマル前大統領の遺言に従ってドイツとの同盟を含む今までの外交方針を堅持する」ことを告げられた。
そして年が明けた1月7日、ポテンテはシャハト国防相を訪ねた。ブロンベルク=フリッチュ罷免騒動でヒムラーの恨みを買って以来、彼は国防軍情報部から護衛を派遣してもらっていたが、ゲシュタポの監視や嫌がらせは水晶の夜事件以降一層ひどくなり、新たな対策に迫られていた。
打ち合わせは30分程度で済んだものの、ヒトラーの恫喝外交によってドイツが国際社会から『ならず者国家』と見なされていることに心を痛めていたシャハトは、溜まった鬱憤を晴らすべくここぞとばかりにポテンテに対して延々とお説教をした。
シャハトもホスバッハ会議の出席者なので、過激な外交がヒトラー総統の方針によることは知っていたが、彼は三奉行の存在がそれをさらにタチの悪いものにしていると考えていた。ポテンテは親衛隊とゲシュタポの流言によって「総統をたぶらかす化け猫」として多くの人に警戒されていたし、彼と共に『ヒトラーの三奉行』と呼ばれていたマルティン・ボルマンは優秀だが傲慢、ヨアヒム・フォン・リッベントロップは無能なうえに傲慢と、三人揃って最悪の評判を誇っていた。
シャハトは小一時間ほどポテンテを問い詰めたあげく、最後には「ワシはもう全てが嫌になった」と言って国防相を辞任することをほのめかした。ドイツ一経済に精通した政治家である彼は国防大臣としても軍需産業の経営・生産効率化に辣腕をふるっており、代わりが務まる人間など他に誰もいなかった。ここで彼に辞任されると大変困る。
ヒトラー総統はポテンテから報告を受けるとすぐにベルリンへ向かい、自ら説得してシャハトの辞意を思いとどまらせた。
いよいよ本格的に暴走していくドイツ。話がどんどん重くなっていきます。こんなはずではなかったのだが・・・。
砕かれた水晶の夜 - 1938年11月9日〜11月10日
そして11月9日、ついに越えてはならない一線を越える事件が起こった。水晶の夜事件(クリスタルナハト)だ。
ゲッベルス宣伝相の扇動で興奮した突撃隊(SA)やナチ党員がついに暴発し、ドイツ全土でユダヤ人街やシナゴーグ(ユダヤ教の教会兼集会所)を一斉に襲撃したのだ。ヒムラーの差し金により警察が見て見ぬふりをしたため、ユダヤ人は成す術なく殺害され略奪に遭った。
もはやユダヤ人排斥運動の激化は止められないことを確信したポテンテは、まずは他の外国人に累が及ぶのを防ぐべく、ナチ党外務部長アルフレート・ローゼンベルクに協力を仰いだ。
ローゼンベルクは『我が闘争』に次いでナチ党員に大きな影響を与えた書物、『二十世紀の神話』の著者として党の思想やイデオロギーに大きな影響力を持っており、ゲーリングやヒムラーの掲げる「ゲルマン民族"しか"認めない」というものに比べて、彼の「ユダヤ人"だけ"認めない」という主張はポテンテにとって受け入れやすいものであった。また、エストニア出身で東欧情勢に詳しく、「ドイツがボリシェヴィキの圧政からの解放を訴え、ウクライナ人国家やバルト連邦、カフカス連邦を作ることで、ロシア人の侵略を阻止できる」という彼のヴィジョンにポテンテは大きく共感していた。
ヒトラー総統が『我が闘争』の中で「スラブ民族は劣等民族」と唱えていることもあり、ナチ党内ではゲーリングやヒムラーなどが主張する「東方にドイツ人を入植させて直接統治を行い、スラブ民族は奴隷化する」という考えが圧倒的に主流だった。そのため、反主流派の二人は自然と共闘する機会が多く、またアクの強い性格の人物が多いナチ党幹部にあって、ローゼンベルクはクールでインテリ然としていたことからポテンテとはウマが合った。
しかし、学者肌のローゼンベルクは悲しいほどに政治に関するセンスが無く、いつもヒムラーやリッベントロップに自分の仕事を邪魔されていた。そのたびにポテンテが総統に掛け合って彼の仕事を助けていたことから、二人は同志のような関係となっていた。
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アルフレートさん!大変だ、ユダヤ人が! |
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やあ、カール。そんなに慌ててどうしたんだい?その話なら、もう知ってるよ。 |
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早く彼らを何とかしないと。このままじゃなぶり殺しだ! |
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君は相変わらずユダヤ人に対して甘い。『シオン賢者の議定書』に書かれているように、奴らは世界を乗っ取ろうとしているのに。 まあ、いいさ・・・。それで何をするつもりなんだい? |
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ドイツ中から貨物列車をかき集めて、彼らを周辺諸国へ移送するんです。ドイツからユダヤ人を追い出すため、と言えば周囲の理解も得られやすいはずだ。 |
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カール、それは甘いな。突然そんなことをしたら、難民と化したユダヤ人を押し付けられた周辺諸国との関係が悪化してしまう。それに、周辺諸国は国境を封鎖してユダヤ人をドイツに追い返すだろう。 |
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そ、そんな・・・。 |
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世界恐慌のせいで、どこの国だって自国民を養うので精一杯なんだ。大量のユダヤ難民を受け入れる余裕のある国などあるわけがない。 |
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じゃあアルフレートさんは、これを黙って見ていろと言うのか! |
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帰る家も無いユダヤ人がドイツ中に溢れ出したらどうなると思う?きっと、保安警察長官のハイドリヒあたりが「収容所を作って押し込んでしまえ」と言い出すに決まっている。そうなったらもうおしまいだ。 |
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・・・・・・。 |
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カール、ここは辛抱だ。私が以前から主張しているとおり、毎年ユダヤ人を少しずつパレスチナに移送するのが一番良い方法なのだ。ドイツからはユダヤ人が消え、彼らは聖地エルサレムへの移住が叶う。両者の利害が一致するじゃないか。 |
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そんな、何年かかるか分からない方法では・・・。 |
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周辺国に逃げても同じことだ。ユダヤ人の迫害はリトアニアでもハンガリーでもルーマニアでもロシアでも起きているのだ。場合によってはドイツにいる以上に危険な目に遭いかねない。 |
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彼らの住む土地はどこにも無いのですか? |
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いずれ英仏と戦争になる。そうなれば同盟国のトルコがパレスチナを攻略するから、その後に彼らを入植させればいい。 恨まれるどころか、感謝されるかもしれないよ。ふふふ。 |
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エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地ですよ。トルコが受け入れてくれるかどうか・・・。 |
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ならば、英仏からマダガスカル島やニューファンドランド島でも奪い取って、そこにユダヤ人を住まわせればいい。 下手に動けば、逆に彼らを追い込むことになる。とにかく、今は耐えるんだ。 |
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う、うん・・・分かったよ。 |
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かといって何もしないのも気分が悪いな。そういえば、満州の件はどうなってる? |
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安江大佐と樋口季一郎少将から、「数千人程度なら、いつでも受け入れ可能」との連絡を受けている。 |
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そうか。ならば希望する者は満州へ移住できるよう手はずを整えておこう。 数千人など焼け石に水だが、何もしないよりはマシだからね。 |
二人はギュルトナー内相の協力を得て警察組織を率いるヒムラーに圧力を掛け、翌日には暴動の沈静化に成功した。ユダヤ人以外に被害者が出ることは無く、最悪の事態は何とか回避された。
偉大なトルコ人の死 1938年11月11日〜1939年1月12日
暴動の沈静化にホッとしたその翌日の11月11日、彼の元に悲報が届いた。敬愛するトルコ大統領ケマル・アタトゥルクが亡くなったという知らせだった。トルコを破滅の危機から救った救国の英雄にして、近代国家へと生まれ変わる道筋をつけた建国の父は、その実現を目前にしてこの世を去った。
取るものもとりあえずイスタンブールへ向かい葬儀に出席すると、ケマル閣下の後継者イスメト・イノニュから閣下がポテンテに遺した手紙を手渡された。そして、手紙を読み終えた彼は人目もはばからずその場で号泣した。手紙には次のように書かれていた。
「ポンセよ、私にも神の元に旅立つ時が来た。私にはまだやるべきことがあるのだが、偉大なる神アラーはこのケマル・アタトゥルクのことがよほど好きらしい。しかし、私が死んでも心配することはない。私に代わってイノニュがお前を助けるだろう。
お前の夢はトルコの夢、そして世界中の夢だ。皆で力を合わせて輝かしい未来を築いてくれ」
ケマル閣下と過ごした日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、ポテンテの涙はいつまでも止まらなかった。 Guicho Zurdoの出す意味不明な命令や彼のわがまま・気まぐれに苦しめられていたポテンテにとって、ケマル前大統領は「独裁者とはかくあるべし」という存在だった。ポテンテは、もし世の中に「正しい独裁者」というものが存在するとしたら、それはケマル・アタトゥルクのことなのだろうとさえ思っていた。
葬儀を終えるとイノニュ大統領に呼ばれ、「トルコはケマル前大統領の遺言に従ってドイツとの同盟を含む今までの外交方針を堅持する」ことを告げられた。
そして年が明けた1月7日、ポテンテはシャハト国防相を訪ねた。ブロンベルク=フリッチュ罷免騒動でヒムラーの恨みを買って以来、彼は国防軍情報部から護衛を派遣してもらっていたが、ゲシュタポの監視や嫌がらせは水晶の夜事件以降一層ひどくなり、新たな対策に迫られていた。
打ち合わせは30分程度で済んだものの、ヒトラーの恫喝外交によってドイツが国際社会から『ならず者国家』と見なされていることに心を痛めていたシャハトは、溜まった鬱憤を晴らすべくここぞとばかりにポテンテに対して延々とお説教をした。
シャハトもホスバッハ会議の出席者なので、過激な外交がヒトラー総統の方針によることは知っていたが、彼は三奉行の存在がそれをさらにタチの悪いものにしていると考えていた。ポテンテは親衛隊とゲシュタポの流言によって「総統をたぶらかす化け猫」として多くの人に警戒されていたし、彼と共に『ヒトラーの三奉行』と呼ばれていたマルティン・ボルマンは優秀だが傲慢、ヨアヒム・フォン・リッベントロップは無能なうえに傲慢と、三人揃って最悪の評判を誇っていた。
シャハトは小一時間ほどポテンテを問い詰めたあげく、最後には「ワシはもう全てが嫌になった」と言って国防相を辞任することをほのめかした。ドイツ一経済に精通した政治家である彼は国防大臣としても軍需産業の経営・生産効率化に辣腕をふるっており、代わりが務まる人間など他に誰もいなかった。ここで彼に辞任されると大変困る。
ヒトラー総統はポテンテから報告を受けるとすぐにベルリンへ向かい、自ら説得してシャハトの辞意を思いとどまらせた。
≪つづく≫





