冬の北海道でエンコすると命の危機に直面します
少し古い話になりますが、お正月に台湾に行っていました。旅行自体は楽しかったのですが、帰国後に酷い目に遭いまして・・・。今回はそのときの話を。
◆突如息絶えた我が愛車
北海道から台湾へは直行便が飛んでおり、当然それを利用して台湾へ行ってきた。無事帰国し、「さてと、それじゃ頑張って家まで帰ろうか(空港から家まで約350km)」と張り切って車を走らせること20分、千歳市の郊外に出たところで突然エンジンの吹けが猛烈に悪くなり、ノッキングが起こりはじめた。 ああ、私の愛するレガシーちゃんよ、一体どうしたというのだ。
以前にエアフローが不調になった際にだましだまし家まで走って帰ったことがあったので、今回もどこかディーラーを見つけるまで彼女をなだめすかして走り続けようと思っていた矢先・・・。
いきなりエンジン停止。始動せず。
下り坂で突如エンストし、その次の上り坂の途中で完全に止まってしまった。いくらセルを回しても息絶えたレガシーちゃんの心臓は動き出す気配はない。ここは千歳市のとなりの田舎町。そのさらに郊外の田園地帯。おまけに外は-10℃で雪が降っている。冗談じゃねぇぞ。
◆緊急入院
幸いなことに近くに民家が見えたので、そこに駆け込み近くの修理工場に電話してもらうことに。レッカーが来るまでのあいだ、道の真ん中で息絶えている我が愛車を脇道に寄せねばと思い、必死にセルを回すオイラ。エンジンはかかるのだが、回転数は恐ろしく低く、ギアを入れて発進しようとするとストールする。お願いだ、あと5m走れば脇道に入れる、動いてくれ!
セルを回しては発進しようとしてエンスト、という状態が続くこと数分。気難しいことで定評のある水平対抗エンジンなだけに、あまりやりすぎるとプラグがかぶってしまうのではないかと心配になりはじめたその矢先、クラッチをつないだところストールしないで動いた。何とか脇道に車を移動させ、ホッと一息ついてタバコを吸っているところにレッカー車が。
それにしても空港への到着が早い時間でよかった。これが夜の便で帰国して、山の中を走っている最中にエンコしようものなら、命の危険に関わる。整備士に症状を説明し、その場で少しトラブルシューティングをしてみるがそう簡単に分かるはずもなく、工場へ持って行くことに。
ああ、愛しのレガシーちゃんに一体何が起きたんだ。 それに、オイラは明日仕事だぞ。今日中に家に帰れるのだろうか・・・。
工場へ持って行き、早速トラブルシューティング開始。「これは時間がかかるなぁ・・・」と思っていたのですが、そこはさすがプロ。20分後には原因が判明。なんと燃料ポンプ。確かに症状はガス欠のときと似ていた。
部品交換が必要、当然在庫は無い。というわけで愛車レガシーちゃんは緊急入院することに。
◆ツイてないときは、とことんツイてない
さて、どうやって家に帰ろうか・・・。翌日は仕事なので絶対に家に帰らないと。とはいえ、ここはJRも走っていない田舎のN町。まずはJRの駅まで出なくてはならないのだが、街外れにポツンとある工場なのでバスターミナルまで行く足も無い。 トホホのホ。
さすがに可哀想に思ってくれたのだろうか、工場の人の好意でバスターミナルまで送ってもらい、岩見沢行きのバスを待つことに。待合室にいる乗客はオイラ一人。
ところが、ここで一悶着起きる。
バスは既にターミナルに入っているのだが、ドアはまだ開いていない。警備員のおじさんが「運転手によって出発ギリギリまでドアを開けない人もいるからね。特に今は冬で寒いし。まぁ、待っていなさい」と言われたので、おじさんと談笑しながらドアが開くのを待っていた。
「お客さんが待合室で待っているのに、ドアを開けないでそのまま出発しようとした運転手が今まで一人だけいたなぁ」と言うおじさんの話を聞いていると、なんとバスはそのまま出発しようとするではないか。慌ててバスを止めようと走り出すおじさんと、荷物を抱えて待合室から飛び出すオイラ。 おじさんが「ここに勤めるようになってから十数年の間に、今までに一度だけあった」という事態が今目の前で起きている。今日のオイラは最悪の星の下に存在しているらしい。
バスはすぐに止まりオイラは無事にバスの乗り込むことができたのだが、警備員のおじさんと運転手の兄ちゃんの口論が始まってしまった・・・。
おじさん:客が待っているのは知っていたのだから、一旦ドアを開けるべきではないか!
運転手:ドアのところまで来てくれれば開けた。お客さんに暖かいバスに乗ってもらいたいと思っているからこそ、むやみにドアを開け放たないようにしている。実際、乗客からもそのようにするよう言われている!
どちらの言うことにも一理あるが・・・。 あの・・無事にバスに乗れたので、もうその辺で止めにしては・・・? 自分が原因のような気がして、一人オロオロするオイラ。
結局、バスは行かなくてはいけないので、おじさんが引き下がる形で口論は終わったのだが、おじさんはプンスカ怒りながら待合所に戻ってしまい、礼も言えませんでした。 運転手からも「お客さん、すいませんね」と言われ、ますます気まずくなるオイラ。
◆我が家までの苦闘の道程
小さくなりながらバスで1時間強の時間を過ごした後、岩見沢に到着。ここからJRの特急に乗り換え、旭川を目指す。駅へ行くと、5分後に旭川行きの特急がやって来るので慌てて切符を買ってホームへ走る。が、時間を過ぎても列車はやって来ない。ホームで震えながら列車を待つオイラに非情のアナウンスが。
「大雪のため、16分遅れの到着となります」
早く言えよ、バカヤロー! 今日のオイラはとことんツイてないらしい。
寒さに震えながら永遠に続くかと思われた16分を耐え、やっと来た列車に乗り込む。車内から旭川に住む従兄弟に家まで送ってくれるよう頼んだところ。幸いなことに彼は快く引き受けてくれた。 旭川の駅で彼と合流し、途中でメシを食って帰宅。家についたのは午前1時。 空港を出たのは午後3時。何事も無ければ7時か8時には家に着いていたのに、10時間もかかって我が家に到着することに・・・。
まさに最悪の一日。
「行くときにエンコしなくて良かった」とか「熊や狐しかいない山の中でエンコしなくて良かった」と自分を慰めるしかない・・・。
【思い出の80'sメタル】第3回:BLACK 'N BLUE - 良い子にも、悪い子にも、大人にも成りきれなかったのが失敗?
今回はBLACK 'N BLUE。
やれボーカリストの顔がディー・スナイダーに似てるとか、ギタリストの顔が恐ろしくデカいとか、もう一人のギタリストは若ハゲだとか、写真一枚で散々ネタにされたバンドでしたが、もう少しきちんと評価されても良いバンドでした。世間一般ではパーティーロックみたいに思われてますが、実はかなり硬派な一面もありまして。というわけで、オイラが骨を拾ってやる!
BLACK 'N BLUEは1981年にアメリカのオレゴン州、ポートランドで結成されました。1982年には『Metal Blade』が主宰する有名なコンピレーション・アルバム「METAL MASSACRE」に"Chains Around Heaven"を提供し、アンダーグラウンドシーンにその名を馳せます。(METALLICAやMALICEなどもこのアルバムに曲を提供している)
あれは80年代後半のことでしょうか。このアルバムを聞く機会があったのですが、後年のパーティーロックのイメージしか無いだけに、バキバキのメタルバンド揃いの「METAL MASSACRE」の中にBLACK 'N BLUEがいるとはこれいかに?と思ったのですが、実際に聞いてみてびっくり。当時の彼らはかなりバイオレントな雰囲気を持った荒々しいアメリカン・メタルバンドでした。元々はNWOBHMに影響を受けてバンドを始めた人達らしいので、そう考えるとこういう音だったのも納得。
その後、LAメタルのムーブメントが始まり、このバンドもめでたく『Geffen』と契約。1984年に「BLACK 'N BLUE」でデビューします。秋には1回限りのショーケースでしたが来日公演も行っています。
当時は「若くて可愛い男の子5人組のメタルバンド」みたいな売り出し方をされていましたが、わざわざドイツまで飛んでディーター・ダークスにプロデュースしてもらっただけあって、新人バンドらしく溌剌としてはいますが実際はかなり硬派で重たい音です。
今にして思えば、こういうイメージと音のギャップがこのバンドが成功できなかった原因ではないでしょうか。実際、「皆で歌おう!」みたいな曲は殆どありませんし。SWEETの"Action"なんかカヴァーしちゃってるのが逆に仇になっているような感すら・・・。
で、その辺のギャップを埋めようとしたのが、85年にリリースされた2nd「WITHOUT LOVE」。LOVERBOYなどで有名なブルース・フェアバーンをプロデューサーに起用し、大きく路線変更しました。
前作で漂っていた硬派な雰囲気は影を潜め、ポップな楽曲が増え、徹底的にシンプルかつコンパクトにアレンジされています。元々このバンドが持っていた溌剌とした雰囲気を生かしてヒットを狙えば、こういう路線になるのは当然ですよね。バンドも相当考えて作ったアルバムだと思いますよ。シンプルでキャッチーな楽曲が増えており、日の光が降り注ぐ天気の良い日に屋外のデカいスタジアムでハンドの演奏に合わせて客が大合唱している、そんなイメージの湧く音になりました。
BON JOVIがこのアルバムを聞いて、あまりの音のよさに「SLIPPELY WHEN WET」でブルース・フェアバーンを起用した、というのは有名な話です。実際、立体感のある音作りやコーラスの処理なんかは見事だと思います。
ところが、これだけ質の高いポップで元気の良いアルバムを作ったのにも関わらず、あまり売れなかったことに失望したのでしょうか。KISSのジーン・シモンズをプロデューサーに迎えた「NASTY NASTY」(1986年)では一転してタフ&ワイルドな路線に。
とはいえ、1stのような荒々しいアメリカンメタルの質感とは異なり、当時流行しつつあったバッド・ボーイズ・ロックンロールを意識したような作品です。1曲目なんてあのジェイミー・セント・ジェイムズがブチ切れたかのようにシャウトしまくって暴れ倒す荒々しい曲です。初めて聞いたときは、おいおい一体どうしたんだ?何かあったのか?と思うくらい驚きました。
もちろん、このバンドのやることですから、いきなりL.A. GUNSやKIXのようになるわけもなく、どの曲にもきちんとキャッチーなメロディが織り込まれています。このへんは前作で得たものをうまく活用していると思います。
続く「IN HEAT」(1988年)でもジーン・シモンズがプロデューサーを努めますが、今までの元気溌剌さはどこへやら、基本は前作の延長ながらもミディアム・テンポのズッシリした質感の楽曲が増え、何やら貫禄のようなものを漂わせるようになりました。
アルバム自体の完成度はこれが一番高いと思いますが、今までの元気の良いサウンドからいきなりこんな渋い音になっても周りはついて来れるはずもなく、案の定当時のレビューなどもあまり良いことは書かれていませんでした。オイラ本人も「なんじゃこりゃ?」と思いましたから。
実際、こういうタフで重たい音を目指すのであればこの線の細いボーカルでは太刀打ちできなくなるわけで、このアルバムでジェイミー・セント・ジェイムズの声が妙にザラついた感じに処理されているのはそのあたりを解決しようとしてのことなのでしょうかね。
いずれにしても迷いや行き詰まりのようなものが感じられるアルバムです。
悪い予感のとおり、このバンドはこれを最後に解散します。以後、ジェイミー・セント・ジェイムズ(Vo)はFREIGHT TRAIN JANE、トミー・セイヤー(G)はHARLOWやSHAKE THE FAITH、ピート・ホルムズは(Ds)はMONSTERといったバンドでアルバムを出しますが、どれもパッとせず短命に終わります。
1997年に一回ポッキリの再結成ライヴが行われ、そのときの模様が「ONE NIGHT ONLY - LIVE」というアルバムとしてリリースされました。今のところ、BLACK 'N BLUEとしての活動はこれが最後です。というか、トミー・セイヤーがエース・フレーリーの代役としてKISSに参加していることなどを考えると、この先は何も起こらないでしょう。
しっかし、仮にもアルバム4枚も出して世界中をツアーしたバンドなのに、ジェイミー・セント・ジェイムズはメイクしてCOLD GINというKISSのコピーバンドをやってるし、トミー・セイヤーに至っては本物のKISSに加入したとはいえエース・フレーリーの物真似やらされてるんですから、情けないったらありゃしない。お前ら、それでいいのか!
こいつ、中の人は大阪人に違いない!
今回は国際交流(実際はダベってるだけだが・・・)ネタで行ってみましょうか。
オイラが主に東欧諸国の人とチャットやらメールやらで遊んでいるのは前回お話したところですが、最近の一番のヒットはウクライナに住むアンナという女の子です。この子、見た目はウクライナ人なんですが、中の人は大阪人です。何が凄いって、オイラが何を言っても必ずボケで返します。どこまで冗談なのか、どこから本気なのか、マジで分かりません。こんなに強烈にボケ倒すウクライナ人なんて見たことありません。中の人は絶対大阪人に違いありません。
では早速ほんの一例を。
「あら、ママから電話が来たわ・・・。ママに、"今変な日本人とPCで会話してる"って言ったら、驚いてるわよ」
おいおい、俺は変な日本人か!素敵な男性を見つけたので婚約します、と言っておけ。
「あんた、私のママをショック死させる気?」
俺は宇宙人か!婚約すると、ママがショック死するほど俺は酷いのか!
「それにしても、あんた英語上手ね。私も勉強しなくちゃ・・・」>
あなただって上手じゃないか。
「ほ・ん・や・く・き」
ぎゃはははは!「さっき言ったでしょ!私の英語は酷いのよ!」
翻訳機使ってるの?その割にはちゃんとした英語書いてるじゃん。俺、色んなロシア人からメール貰うけど、文法がメチャメチャなものが多いから、ロシア語をそのまま機械翻訳したらどんな感じになるか見当つくんだよ。
「ロシア人は翻訳機の使い方を知らないのよ!」
うひゃひゃひゃひゃ!
ところで、今日は何してたの?
「鏡の前でダンスしていたわよ」
ん?ディスコ・クイーンになる練習でもしていのか?
「いいえ、骨粗しょう症防止のためよ」
何だそれ!あんた何歳だ。w
と、まぁずっとこの調子です。どこまでもボケ倒します。日本語を覚えたら変なガイジンタレントになれると思います。
今、大寒波がロシアを襲っていますが、ウクライナでも死者が数十名出るくらいの記録的な寒さが続いており、そのせいで彼女の職場も臨時休業中だそうです。で、暇なもんだからオイラと馬鹿話をしているそうなのですが、実は昨日で3連チャンです。毎日ヒーヒー笑い転げているので腹筋が痛くなり、そのことを彼女に話したところ・・・
「ええ、私はあなたの腹筋を破壊するテロリストなのよ!」
ですってさ。w
深夜にモニターの前でゲタゲタ笑っているのを他人が見たら、驚くだろうなぁ・・・。一人暮らしで良かった。
ドクターキリコになったらどうしよう・・・
えー、相変わらずFMばかり聞いて過ごしています・・・ははは。
さて、昨日「救急救命講習」なるものを受講してきました。別件で会場へ行っただけで最初は受講するつもりはなかったのですが、講師の方に「ついでだから、にゃおんちゃんも受講していきなさい」と言われ、受講することに。
受講内容は人工呼吸・心臓マッサージの方法とAED(自動体外式除細動器)の使い方です。30分の講義を受けた後、人形を使った実技へ。
実技に使った人形はただのマネキンではなく、かなり精巧にできており、人形の口から息を吹き込むと、きちんと胸が膨らみます。にゃおんちゃんもその人形を使って練習したのですが、いくらフーフーと吹き込んでも、人形の胸はさっぱり膨らみません。散々フーフーやって疲れた頃に講師の先生が一言、「気道の確保が不十分です」と・・・。
思った以上に顎を上に引き上げてやらないと気道はきちんと確保できないようです。気道をしっかり確保すると、そんなに吹き込まなくても人形の胸は膨らみました。
続いて心臓マッサージに挑戦。こっちは難なくパス。「マッサージのテンポが良い」とお褒めの言葉をいただきました。
「胸が1/3程度沈むまで押す」といわれたのですが、人形の胸は思ったよりもフニャフニャで、それほど力を入れなくても簡単に沈みます。当然、本物の人間は肋骨があるわけですから、相当力を入れないと沈まないでしょう。馬鹿力で押しすぎて肋骨が折れちゃったら・・・。実際に誰かに心臓マッサージをする場面が来ても、おっかなびっくりでしかできないでしょうね。
最後にAEDの使い方について指導を受けました。
これは簡単。電極のパッドをきちんと貼り付けてやれば、あとは機械が自動で判断し、音声で支持を出してくれるのでそれに従うだけ。ただし、今回使ったAEDは練習用のもので実際に高圧電流は流れません。本物は高圧電流を発するわけだし、電気ショックを受けた人は体がビクン!と跳ね上がるわけで、そんなの見ちゃうとオイラのほうがショック死しそうになるんじゃないかと・・・。
3時間の実技を経て無事受講証を貰うことができました。
これでオイラも一応有資格者、AEDを使った救急救命ができます。
でも、いざそういう場面に直面したら、変なことして助かる人も死なせちゃうんじゃないかという恐怖感が先行して、殆ど何もできないんだろうなぁ・・・。ブラックジャックになるつもりで勇んで行って、結果はドクターキリコになっちゃいました、なんてシャレにならんです。
【思い出の80'sメタル】第2回:SLADE - 祭りだ!踊れ!SLADEだ!
さて、第2回はSLADE。
え?SLADEは'70年代からいるバンドだろ、だって?うんうん、確かにそうなんですけどね、今日は'80年代のSLADEにスポットライトを当ててみようかと思いまして。
SLADEはジミ・ヘンドリックスを見出したことで有名なチャス・チャンドラーのバックアップの元、1970年にデビューしました。'70年代前半にはいくつもヒット曲を飛ばし、SWEETやデヴィッド・ボウイ等と並んでグラム・ロックの代表格と言われていましたが、'70年代後半になるとパンク・ブームの勃発によって失速。1979年にはメジャー・レーベルからもドロップしてしまいます。
しかし、そんな彼らも'80年代に入るとNWOBHMのムーブメントに乗って息を吹き返します。NWOBHMはIRON MAIDENやSAXONを登場させたのみらず、死にかけていたベテランを蘇生させましたが、彼らもそのひとつだったわけです。1980年には「第20回レディング・フェスティバル」に出演し、翌'81年にはインディペンデントの『Cheapskate』から「WE'LL BRING THE HOUSE DOWN」を発表。今までの彼らと比較すると、時代を意識した格段にHM/HR色の強いアルバムでしたが楽曲も粒揃いの佳作で、インディペンテントからのリリースにも関わらずイギリスのチャートでTOP10入りも果たしました。
ここで彼らは長年活動を共にしてきたチャス・チャンドラーと別れ、『RCA/Ariora』に移籍し'81年には「TIL DEAF DO US PART」を、'82年には「SLADE ON STAGE」をリリースします。「SLADE ON STAGE」のほうはライヴ・アルバムなので置いておくとして、「TIL DEAF DO US PART」もHM/HR色の強いアルバムで、後にLIONがカヴァーした"Lock Up Your Daughters"もこのアルバムに収録されています。
そして続いて1983年にリリースされたのがこの名作、「THE AMAZING KAMIKAZE SYNDROME」。軽快なリズムと初めて聞いた気がしない親しみやすいジグ風のメロディが特徴的な"Run Runaway"と、ロッド・スチュワートの"Sailing"を彷彿させる"My Oh My"は秀逸で、'70年代前半の全盛期にすら果たせなかったアメリカ進出にも成功します。QUIET RIOTが彼らの"Come On Feel The Noiz"をカヴァーしてヒットを飛ばしたことも影響したのでしょう。
にゃおんちゃんは特に"Run Runaway"が大好きで、この曲を聴くとタータンチェックのスカートを履いてお嬢さんと腕を組んで踊りだしたくなる衝動に襲われます。(なんじゃそりゃ)
アメリカ進出の足掛かりを得た彼らは1985年に「ROGUES GALLERY」をリリース。より幅広い層に受け入れられそうなメロディアスな楽曲を増やしたアルバムでしたが、前作ほどノリノリで踊ってる曲が無かったせいでしょうか、イギリスで"All Join Hands"がヒットした以外は売り上げはパッとしませんでした。続く'87年リリースの「YOU BOYZ MAKE BIG NOIZ」はもっとパッとせず、以後彼らは活動停止することに。'80年代の彼らの活動を簡単に追うと、だいたいこんなもんです。
4年後の'91年に彼らは再度集結し、ベスト盤用に新曲を1曲録音しましたが再び沈黙してしまいます。そして'93年、こともあろうにデイヴ・ヒル(G)とドン・パウエル(Ds)のみでSLADEを名乗り、ツアーを始めます。このバンドの中心はノルディ・ホルダー(Vo,G)とジム・リー(B,Key)ですから、こんなものをSLADEと読んでいいのやら。2002年には「COME ON LET'S PARTY」というアルバムをリリースし、今でもコツコツとツアーをしているようです。
このバンドはどうしても全盛期だった'70年代前半の作品ばかりが注目されがちですが、'80年代の作品にもハズレはひとつもありません。前半の作品はHM/HR色が強くて、後半の作品はベテランのブリティッシュ・ロックバンドに相応しい風格が漂うという違いはありますが、どのアルバムにも初めて聞いた気がしない親しみやすく、暖かいメロディが満載です。
ソ連と私
ここ1年ほど東欧(特に旧ソ連諸国)に入れ込んでおりまして、向こうの人とチャットやらメールやらして遊んでおります。その勢いで、昨年の夏には2週間ほどかけてウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ポーランドへ行ってきました。最初はロシアに行こうと思ったんですけど、ビザの取得が面倒くさくてパス。
いろんな人に、「旧ソ連かよ。そんなところ、何しに行ったの?」と言われます。世が世ならアカ認定されかねないところですが、オイラは反共ですよ。冗談じゃない。ついこの間まで、ロシアに対する印象なんて一言でいえば「嫌い」であり、その理由は「馬鹿で粗暴でロクデナシだから」だったんですから。
オイラの地元にはロシア船が入港するので、ロシア人船員を見かける機会は多いのですが、あいつらの評判は最悪です。あいつらのやることと言えば、酔っ払って乱闘・店を壊す、拳銃や麻薬の密売、自販売荒らし、車上荒らし、盗難自動車の売買、海洋資源の密漁・乱獲・・・。これで評判が良い訳がないでしょ?
また、オイラは冷戦時代に育った人間なので、ソ連といえば「体制批判をすると夜中にKGBがやってきてどこかへ連れ去られる国」という印象が強い。要するに人権が全く保障されない恐怖国家ってことです。しかも1960年代に学生運動をやっていた世代ならいざしらず、オイラは10代の頃にソ連が崩壊するのを見ているんですから社会主義に対する憧れなど微塵も無く、100%反共といってもいいくらいです。
さすがにキューバ危機やチェコ事件の頃はまだ生まれていませんが、北方領土はここから遠くないし、大韓航空機がソ連の戦闘機に撃墜されたときにはその残骸が地元の海岸に流れ着いたのを見て、子供心に「ソ連というのは何と恐ろしい国なのだろう」と戦慄を覚えたものです。
それから地元の繁華街でたまにロシア人を見かける以外はあの国とは無縁な日々を過ごしていたのですが、時は流れて2005年の春。
台湾について色々と調べたいことがあり、できれば一度行ってみたいという思いもあって「Yahoo! Asia」に台湾人目当てでメール友達の募集をしたところ、なぜかロシア人数名からメールが来ました。 なぜか全員女性で、頼みもしないのになぜか全員写真を送ってきて、しかもこれが全員美人だったりするのですが、そんなことはこの時点では問題ではありません。 それから、肝心の台湾人からはメールが一通も来なかったことも、ここでは全くもって問題ではありません。 −−;
律儀なオイラはとりあえず彼女達に返事を書いたのですが、オイラ以上に律儀な彼女達は、オイラが返事を書いても書いても、早いときにはその翌日にはその返事を書いてくるのでした。それも結構な長文を。5分や10分で書ける量ではありません。 もっとも、ロシア語で書いたものをそのまま機械翻訳で英文にしただけなので文法がメチャメチャなのが難点なんたけど。
しかしオイラは考えました、「彼女達をここまで駆り立てるものは何であろうか?」と。
こっちは東の小さな島国に住む得体の知れない日本人です。ロシア人が必死になってメールを送りつけるような相手には思えないのだが・・・? という訳で、オイラはロシアのネット事情を調べるべく、ロシア関係のサイトを徘徊しはじめました。
なに?「本当は美人ばかりだったから浮かれていたんだろ?」だって? いや、そんなことは無いぞ!オイラは、女性については国産至上主義なのだ!
ま、それは置いといて・・・。そんなこんなでロシアのサイトを徘徊していると、偶然とあるチャットサイトを見つけました。にゃおんちゃんは外国人と話するのは好きなんです。だって、自分の知らないことをたくさん教えてもらえるじゃないですか。自分とは異なる世界に住む人との会話というのは好奇心を刺激されて楽しいものです。
実は、以前にアメリカのYahoo!のチャットに挑戦したことがあるのですが、オイラの英語ではネイティヴ・スピーカーに太刀打ちできずあっという間に撤退する羽目に。続いて日韓チャットに挑戦。自動翻訳されるので言葉の問題は無いのですが、韓国人の傍若無人な振る舞いと支離滅裂な発言に耐え切れず、すっかり嫌韓になって去る羽目に。さてさて、ロシアはどんなもんでしょう?
早速話を始めてるみと、外国人もたくさんいるサイトなので、会話は殆ど英語で行われています。しかも、ネイティヴ・スピーカーは少ないのでスラングや口語的な言い回しも殆どありません。オイラの英語力で十分会話ができるレベル。
ロシアのサイトですから一番多いのはロシア人なのですが、他にも中央アジアやコーカサス地方の国々の人、東欧諸国の人もたくさんいます。アゼルバイジャンとかモルドバとか、日本には大使館すら無いマイナーな国の人と話す機会なんてそうそうありませんから、これは刺激的です。
しかも、印象の悪かったロシア人ですが、話してみるとまともで知的な人が多いです。話す前は「ウォッカで脳みそをやられてる奴らだから、韓国人みたいに酷いかもしれん」などとあまり期待してなかったのですが、とんでもない。殆どの人はマナーも良いし、気さくで話題豊富です。
もっとも、英語を話して自分のPCを持っているような人たち(要するにそれなりにきちんとした教育を受けて、良い生活をしている人たちってこと)ですから、彼らを旧ソ連諸国の平均的な国民と呼ぶには無理があるのかもしれませんが。
それから、「日本人であること」というのは結構メリットでして、「日本人と話をしたのは初めてだ!」とか「お前の国は豊かだし、独自の文化を持っていて素晴らしい!」と、びっくりするくらいチヤホヤしてもらったのも好印象を持った理由かもしれません。東欧諸国では日本の印象はかなり良いようです。
実は、後で「ところで、ドルか円くれない?」なんて言われるんじゃないかとビクビクしてましたが。w
そんなわけで、すっかり気を良くしたオイラはこのサイトにちょこちょこ通うようになり、東欧諸国にも関心を持つようになり、色々と勉強している最中です。考えてみれば、元々国際政治や軍事にも興味があって、その頃から我々が暮らす西側社会とは全く異なる思想や社会を持つ東欧には興味はあったんですよね。ただし、その頃の興味は「怖いもの見たさ」なんですけどね。
でも、そういうことを向こうの人にストレートに言っちゃうと、「お前は我が国のことをそんな風に見ていたのか!」と悲しい思いをさせちゃったり、「お前は共産主義者か?」と恐れられたりするので、あまり言わないようにしてますが。w
【思い出の80'sメタル】第1回:FM - バンド名が失敗の元?
初回からいきなり東欧の独裁者の話をして読書に逃げられるのも嫌なので、まずは無難にロックの話から。ENUFF Z'NUFFからは随分と縁遠いバンドですがね。で、そのバンドはこれ。
いきなりこんな写真を見せても、「誰だ?」って言われちゃいますかね。サングラスをかけたハゲが一人いますが、THUNDERではありません。wイギリスのFMというバンドです。
元WILDLIFE、DIAMOND HEAD、SAMSON等のメンバーが集まって結成されたバンドで、86年にデビューしました。当時はNWOBHMで盛り上がった反動かハードロックバンドにとっては非常に厳しい時代で、メジャーデビューするバンドは殆どいないような状況でした。そんな中でNWOBHMの残党達は「生き残るためにはアメリカに進出するしかない、シングルヒットを狙うしかない」と考えたようで、TYGERS OF PAN TANGやSAXONですら腑抜けたハードポップ路線に走る有様でした。
そんなわけで、この時期にはTHUNDERの前身であるTERRAPLANE、元IRON MAIDENのデニス・ストラットン率いるLIONHEART、PRAYING MANTISとクライヴ・バーが合流したSTRATUSなど、ブリティッシュ・ハードポップと呼ばれる産業ロック系のバンドが数多く登場しました。あのポール・ディアノですら、DI'ANNOというバンドで頭にチューリップが咲いたかのような能天気でポップな曲を歌っていたんですから。
このFMもそういう時代に登場しただけあって、洗練された大人のハードロックを披露するバンドでした。バンド名やルックスからして、ラジオでのオンエアーやシングルヒットを狙ってるのがプンプンします。口の悪いファンは「NWOBHMの負け犬どもが軟弱な音楽をやってる」なんて言ってましたが、オイラは不思議なことにこの手のバンドが大好きで、このバンドは実績のある人達が作ったバンドだけにデビュー作から質が高く、当時はよく聞いたものでした。
しかし、他のブリティッシュ・ハードポップ・バンド同様、この手の音はあまりイギリスではウケないらしく、かといってアメリカに進出する力も無く、彼らの出自を知っているハードロック・ファン達には「軟弱者」とそっぽを向かれ、メジャーからドロップする羽目に。この手の路線で成功したバンドなんてMAGNUMくらいではないでしょうか?もっとも彼らも欲をかいてアメリカ進出を狙って酷い目に遭った末に解散するのですが・・・。
90年代に入りメンバーチェンジをきっかけに彼らはBAD COMPANY風の渋いブリティッシュ・ハードロックへ変身し、92年にリリースされた「APHRODISIAC」や「LIVE : ACOUSTICAL INTERCOURSE」は日本でも話題になりました。が、イギリスでの状況は改善されることはなく、結局96年の「PARAPHERNALIA」を最後に解散してしまいました。
ボーカルのスティーヴ・オーヴァーランドの名前をたまにトリビュート・アルバムや誰かのソロアルバムなどで見かけるのを除けば、ここ数年FMのことなんてすっかり忘れていたのですが、先日馴染みのCD屋で1stアルバム「INDISCREET」を見つけまして。CDで買い直してもいいかと思い、購入しました。で、この手の再発盤にはボーナス・トラックが入っているものが多いのですが、このアルバムも例に漏れず3曲のアウトテイクと5曲のライヴ音源が追加収録されており、このライヴ音源が素晴らしいこと!とにかく演奏が上手いです。スタジオ盤と変わらぬ精度で再現してます。その演奏の上に乗るスティーヴ・オーヴァーランドの歌も完璧。というか、スタジオ盤よりも数倍ソウルフルで素晴らしいといったらありゃしない。「LIVE : ACOUSTICAL INTERCOURSE」を聞いたときに、ライヴでもこんなに上手い人だったのかと驚きましたが、この当時からこんな凄かったんですね。
1stアルバムでもこれくらいソウルフルな歌を披露していれば、このバンドの運命は少しは違ったかもしれませんね。スタジオ音源では妙にあっさりしていて、彼の凄さはあまり伝わりませんから。
「LIVE : ACOUSTICAL INTERCOURSE」でライヴバンドとしての実力は証明されていますが、デビュー当時からこんなにしっかりしたライヴをやるバンドだったんですね。考えてみれば、ボーカリストとリズム隊は変わってないわけですから、当然といえば当然ですけどね。このラインナップで再結成してくれないかなぁ?ギターのクリス・オーヴァーランドがとっくの昔に音楽活動から引退しているので、無理だよなぁ・・・。いや、でもオリジナル・ラインナップのPRAYING MANTISの例もあるし・・・ブツブツ。
ブログ開設のご挨拶
サイトのほうはここ1年半ほど殆ど更新せず放置しっぱなし。これはまずいなぁと思い、意を決してリニューアル作業を始めたものの、PCはぶっ壊れるわ仕事は忙しいわストレスに負けて国外逃亡するわと、これでもかというくらいダメっぷりを晒しております。しまいには、サイトがさっぱり更新されないことに不安を感じた友人Aから、ついに「おい、にゃおんちゃん。あんた生きてるのか?」というメールが届く有様です。
で、Aくんと電話で話した際に「そんなに更新がしんどいなら、とりあえずブログでも書いておけ」と言われまして。と言われても、書くこと無いんだけど・・・。すると、オイラが日記代わりに内緒でブログを書いていたことを知っているAくんは、「日記のブログがあっただろ。あんなもんでいいから、とりあえず書いておけ」と言うわけですよ。そんな訳で、こうしてブログを作ってみました。
ENUFF Z'NUFFに関してはNEWS用に専用のブログがありますので、こちらではオイラの日常について書いてみたいと思います。Aくん曰く、「あんたの放蕩三昧の生活を書けば、3人くらいは面白がってくれるだろうよ」だそうで・・・。ホントにそんなのでいいのか・・・?
なにはともあれ、読んでくれる人がいないと書くほうにも張り合いがありません。末永くご愛顧のほどをよろしくお願いします。
何でもいいからコメントつけてね。無反応なのは寂しいから。w





