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2006.08.31 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第20回:ミャンマー(Part4) - 引きこもり国家の迷走

前回の記事の続きです。

◆潰された改革
ミャンマーはアジアの引きこもり国家なので、基本的には諸外国からいくら批判されても平気なのだが、そうは言っても経済をズタズタなままにはしておけないし、周辺国がASEANに加盟し急激に経済発展しているのを見て多少は欲が湧いてきたらしい。

ミャンマー政府は1992年を「経済の年」と位置づけ、収監されていたNLDの幹部数名を釈放するなどして外資を誘致しようとする。が、そのような小ざかしい真似で諸外国の信用を得られるならどこの国も苦労しない。思うように外資が入ってこないことが分かると、すぐに態度を元に戻してしまった。
さらに1994年を「全面開発の年」、1996年を「観光の年」と定め、スー・チー女史の軟禁を一時的に解除するなどして再び外資や観光客の誘致を企むが、これも期待したほどの効果が得られないことが分かると、やはりすぐに元の強硬姿勢に戻ってしまった。
ブルキナ・ファソやトルクメニスタンに観光に行く人がいないように、わざわざミャンマーに行く物好きなどいないのだ。おこがましい奴らである。


キン・ニュン前首相中国がバックについて孤立無援という状況は避けられたものの、ASEAN内からでさえ「あんなバカ国は退会させろ」という声が出はじめたことから、これに危機感を覚えたSPDCきっての経済通にして国際派キン・ニュン首相をはじめとする穏健派が動いた。2003年、ミャンマー政府は穏健派の主導によって民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表し、憲法制定のための国民会議が開催するなど民主化に向けた動きを見せるようになった。
しかし、2004年にはこれを推進していたキン・ニュンが失脚し、タン・シュエの子飼いでバリバリの強硬派ソー・ウインが新たに首相に就任した。ミャンマー政府は引き続きロードマップを推進する声明を出したが、この政変で強硬派が再び台頭していることから予断を許さない状況が続く。

キン・ニュン前首相は民主化に非常に積極的な人物だった。オン・ジョー外相が2001年に来日した際、前首相の意向を受けて「スー・チー女史と連立政権を組むことも考えている」とまで発言している。実際、この頃のミャンマー政府は、以前から両者の仲介を行っていた国連大使を通じてスー・チー女史との交渉を準備していた。
スー・チー女史との和解が進むことで改革派に政権を乗っ取られることを恐れた保守派のタン・シュエらが、一度は軟禁を解除した女史にイチャモンをつけて再び拘束して交渉の機会を潰し、さらには穏健派を一掃したのであろう。あるいは、この少し前にタン・シュエが中国を訪問しているので、「中国という金づるができたので、スー・チーとの交渉は必要ない」という判断があったのかもしれない。

それから、ミャンマー政府は2005年11月に突如ヤンゴンから内陸部のピンマナへの遷都を行っている。ヤンゴンの北方約320kmに位置するピンマナは研究施設が多い都市だそうで、とんでもない山奥やド田舎ではない。とはいえ、大都市ヤンゴンでの生活に慣れた政府関係者にとっては迷惑以外の何物でもない。「そんなところへ行きたくないから」と退職願いを出しても受理してもらえず、多くの職員が引越しする羽目になっているらしい。
この突然の遷都はその理由が謎に包まれており、一説には「米軍の攻撃に備えて」とか「タン・シュエお抱えの占い師によって決まった」などと言われている。悲惨なのは隣国タイで、ヤンゴンに数十億かけて新大使館を作っていたのに、突然の遷都でこれがパーになった。遷都の理由が占いの結果だったりしたら、タイ政府は泣くに泣けない。


◆麻薬王クン・サの華麗なる転身
と、ここまで軍事政権のことをボロクソに書いてきたが、ミャンマーにはいきなり民主化できない事情もある。
この国は結構な多民族国家であり、辺境の地域には様々な少数民族が住んでいる。少なく数えて8、細かく数えると40以上というのだから尋常ではない。しかも、これらの少数民族はその殆どが武装組織を持っており、1990年代半ばにSLORCが様々な利権を餌にして彼らと和解を果たすまで、辺境地域はミャンマー(ビルマ)政府の統治が及ばない地域だった。特にカレン族は1948年のビルマ独立以来、一貫して分離独立を唱えて武力闘争を続けている。こんな状況で一気に民主化を進めようものなら、ミャンマーという国家の枠組みが崩壊しかねない。

カレン族の約70%を占める仏教徒が率いる武装勢力「民主カレン仏教徒軍(DKBA)」は麻薬利権を餌にSLORCと和解を果たしたが、キリスト教徒が率いる「カレン民族同盟(KNU)」は今でも闘争を続けている。もっとも、KNUはDKBAの裏切りによって壊滅寸前まで追い込まれ、今ではミャンマー領内に拠点も無く、タイ領内の難民キャンプを拠点にしている。
かつてタイ政府はミャンマーとの国境地域に緩衝地帯を作り出すためカレン族を支援していたが、親ミャンマーのタクシン政権以降はこの支援も激減しており、KNUは四面楚歌の状況に追い込まれている。


タイ=ミャンマーの国境地帯といえば、いわゆる「黄金の三角地帯」の一角に当たる。
知らない人もいるだろうから説明しておくが、「黄金の三角地帯」とはタイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川で接する地域を指し、この地域はアフガニスタン、パキスタン、イラン国境付近の「黄金の三日月地帯」と並ぶ世界最大のケシ栽培・覚せい剤密造地帯として知られている。
この地域は近年までいくつかの少数民族の武装組織が実効支配しており、タイ、ミャンマー、ラオスいずれの国の統治も及ばない地域だった。ミャンマーの場合はシャン州東部がこれ属するのだが、最近までシャン州は外国人立ち入り禁止になっていたほど。

麻薬王クン・サこの地域でカレン族と並んで長年ミャンマー政府と戦っていたのが、シャン族の武装組織「モン・タイ軍」。モン・タイ軍の親玉クン・サは元々はシャン族独立の運動家で、その闘争資金確保のために麻薬ビジネスをやっていたのだが、いつの間にか本業と副業が逆転し、ついには世界最大のケシ生産者にまで登りつめた。

しかし、あまりに手広く商売をやりすぎたクン・サはアメリカに目をつけられ、200万ドルの懸賞金を掛けられて麻薬密輸容疑で指名手配となった。すると、ミャンマー政府に捕まってアメリカへ送られることを警戒したクン・サは、麻薬利権を手土産に政府に投降してまんまと身の安全を確保した。ミャンマー政府はクン・サを逮捕してアメリカへ送還するどころか、アメリカからの身柄引き渡し要求を拒否し、クン・サが撒いた餌に食いついて利権を貪った。
クン・サは刑務所にぶち込まれるどころか豪邸に住み、タイとの国境沿いのジャングルに無数の麻薬精製工場を持つほか、今やバス会社やホテルを経営して表のビジネスでも活躍している。

この地域で生産された麻薬はその殆どがタイを経由して世界各地へ運ばれていく。そのため、タイでは麻薬中毒患者の数が一向に減らず、タイ政府はミャンマー、ラオスの両政府に取締りと撲滅の徹底を訴えている。しかし、ラオス政府の統治はこの地域に及ばず、ミャンマー政府は前述のとおりクン・サとグルになっているので本気で取締りなどしない。
ミャンマー政府はヤンゴン市内に「麻薬博物館」なるものを作り、SPDCがいかに麻薬撲滅のために努力を払ってきたかを宣伝しているが、全てはポーズに過ぎない。


あ、それから「ビルマの竪琴」って小説があります。映画化されて話題にもなりました。
しかし、あの映画の中で竪琴が上手なビルマ人の僧侶が登場しますが、上座部仏教の戒律では僧侶が歌・踊り・音楽を行うことは一切禁止です。実際にはあんな僧侶はいません。

《ミャンマー編終了》

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2006.08.29 (Tue)

【世界の香ばしき国々】第19回:ミャンマー(Part3) - アウン・サン・スー・チーの闘い

前回の記事の続きです。

◆軍事政権 vs 民主化勢力
ネ・ウィンが退陣した2ヶ月後、ソー・マウン参謀長率いる国軍がクーデターを起こした。軍部は軍人を中心とする21人の有力者から成るSLORCを作り、これを中心に国家運営を始めた。SLORCは自らを民政移管までの暫定政権と規定し、2年後の1990年に選挙を行うことを約束したが、その一方で民主化運動を容赦なく弾圧して1,000人以上を殺害している。

ミャンマー民主化の闘士 アウン・サン・スー・チー1988年にミャンマーへ戻り、病気の母の看病をしていたスー・チー女史だったが、SLORCが民主化運動を弾圧するのを見て立ち上がった。なにせ英雄アウン・サンの娘にして先進国で長く暮らした経験を持つインテリである。抜群の看板と明晰な頭脳を生かして国内の民主化勢力をまとめあげると、1990年の総選挙に向けてNLDを結党した。
1945年生まれのアウン・サン・スー・チーは父の死後、母親が外交官だったことからその赴任先であるインドの高校・大学を卒業している。イギリスへの留学を経て、国連やブータン外務省で勤務した時期もあったが、主に母校オックスフォード大学で研究に従事している期間が長かった。
ミャンマーへ戻る前は、1985年から京都大学で父アウン・サンに関する研究をしていた。アウン・サンは旧陸軍の「南機関」の支援を受けて独立闘争の準備をしていたことから、彼に関する史料は実は日本にたくさんある。


1989年には共産主義体制の崩壊に伴い国名が「ビルマ連邦(Union of Burma)」に変更となったが、SLORCがすぐに「ミャンマー連邦(Union of Myanmar)」に変えてしまった。同時に、首都ラングーンもヤンゴンに改名されている。
「ビルマ」と「ミャンマー」の違いは先に述べたとおりだが、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリアなどはSLORC政権を承認しないという意味を込めて「ビルマ」の名称を使用し続けている。
日本?日本はSLORC政権の親日家パフォーマンスに引っかかって、真っ先にこれを承認してます、ええ。ミャンマー国軍のパレードは「軍艦マーチ」で始まることは有名だが、こういう演出にコロッと騙されたわけです、はい。それどころか、諸外国から散々批難されて2003年に援助を停止するまで、日本こそがミャンマーにとって最大の援助元だったのだ。
こんなチンピラ国家に金を出すことを決めた奴は誰だ!


1990年5月に行われた総選挙では、スー・チー女史が国家破壊法違反の容疑により自宅に軟禁されていたが、それでもNLDが議席の80%以上を獲得して圧勝した。当然だろう、国民は軍事政権による独裁にうんざりしているのだ。かつて一党独裁の下でビルマを支配したBSPPも「国民統一党」と改称して出馬したが、たった2.5%しか獲得できず惨敗している。
NLDの圧勝に危機感を覚えたのか、総選挙が終わるとSLORCは「民政移管のためには堅固な憲法が必要であることから、さしあたっては新憲法制定を優先させる」と言い出し、政権移譲を拒否して時期を引き延ばす戦術に出た。NLDがこれに反発すると、SLORCは活動家の逮捕や議員の資格剥奪、スー・チー女史の対話集会参加禁止などで抑え込みにかかった。


タン・シュエSPDC議長1992年にタン・シュエ将軍がSLORC議長に就任すると新憲法策定のための制憲国民会議が招集されたが、そのメンバーのー殆どがSLORC関係者によって占められていたことから、NLDはこれをボイコットした。
以後約5年間にわたり、NLDは1990年の総選挙結果に基づく議会の開催を幾度もSLORCに申し入れたが、SLORCは応じる気配を見せなかった。そこで当選した議員の過半数から委任を受けて、その代表者10名からなる国民議会代表者委員会(CRPP)を1998年に発足し、議会の代行開催に踏み切った。CRPPでは独自の新憲法草案を作成し、SPDC(1997年にSLORCより改名)が出す各種法令に正当性がないことを個別具体的をあげて指摘するなど対決姿勢を強め、しまいにはキン・ニュンSPDC第1書記を犯罪行為で司法当局に訴えた。もちろん、訴えを出したというだけで当局には相手にされないのだが、さすがのSPDCもこれにはカチンと来たらしく、NLD幹部を片っ端から逮捕することで報復している。

その後は2003年まで、「NLDは民主化を要求し続けるが、SPDCはこれを無視、度が過ぎると判断するとすぐに逮捕で報復」という構図が続き、SPDCは事あるごとに諸外国からボロクソに批難されるのだが、タン・シュエが動じる様子は全く無かった。
スー・チー女史は1989年以来、一時期を除いてその殆どは自宅に軟禁される状態が続いている。SPDCは彼女を「脅威」というより大物ではあるが「厄介者」と見ており、正直どう取り扱ったらよいのか分からないようである。何ら武力的な後ろ盾を持たない彼女など、いつでも刑務所にぶち込んだり国外追放することは可能なのだが、1991年のノーベル平和賞受賞によって今や彼女は「ミャンマー民主化の象徴」となっており、下手なことをすればNLDや諸外国が騒ぎ出してしまう。
さしあたっては現政権の基盤が揺らぐような脅威ではないため、手荒なことはせず彼女が諦めるか自宅で朽ち果てるのを待っているのであろう。

《Part 4につづく》

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2006.08.28 (Mon)

【世界の香ばしき国々】第18回:ミャンマー(Part2) - ビルマ式社会主義 = 引きこもり + 貧乏の加速

前回の記事の続きです。

◆建国からして、いわくつき
ミャンマー南部には古くからモン族やピュー族という民族と言われる民族が点在して暮らし、やがて小さな都市国家を建設するようになった。これらの民族は仏教を信仰し、城壁で囲まれた集落とその周囲に水田を作り稲作農業を発達させた。その名残りはフモーザー遺跡などにあるサンスクリット語やピュー語で書かれた文化遺産に見いだすことができる。しかし彼らは南詔などの侵略とビルマ人の移住によって統一国家を作ることなく滅亡した。

中国の雲南地方から侵入してきたビルマ人は、9世紀になるとパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、その後はミャオ族やタイ系のシャン族の王朝が建った時代もあったが、18世紀になるとコンバウン王朝が生まれてビルマ人が再びミャンマーを支配した。コンバウン王朝はミャンマーのみならずタイのアユタヤ王朝を滅ぼし、インドのアッサム地方まで征服し、さらに1818年には当時インドを支配していたイギリスに対してベンガル地方(インダス川下流のデルタ地帯)の割譲を要求している。
イギリスがこれを拒否すると、列強の恐ろしさを知らないマヌケなコンバウン王朝はイギリスに対して戦争を仕掛けるが、返り討ちに遭って滅ぼされたうえに、1886年にはイギリス領インドの一部として併合にされてしまった。(英緬戦争)


ビルマ建国の父、アウン・サン1940年から日本のインドシナ侵攻が始まると、独立運動家アウン・サンは日本の支援を得てビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦いイギリスを追い出すと、1943年に「ビルマ国」を建国して自らは国防大臣に就任した。しかし、太平洋戦争で日本の敗色が濃厚と見ると、アウン・サンは1945年にクーデターを起こし、イギリスに寝返って日本軍をミャンマーから追い出した。
日本には勝利したものの一度寝返っているだけにイギリスの心証は悪く、ミャンマーは再びイギリスの植民地にされてしまった。また、アウン・サンも、イギリスと独立に向けた交渉を行っていた1947年に国内の政敵によって暗殺されてしまった。

それでも、1947年にインドやパキスタンが独立を果たすとミャンマーも独立させてもらえることになり、1948年に「ビルマ連邦共和国」が建国された。
しかし、北部に住む少数民族カレン族が独立闘争を行い、共産党は政権を離脱してゲリラ活動を行うなど、独立直後から不安定な状態が続いた。1949年には中国の国共内戦に破れた国民党の残党が国境を接するシャン州(ミャンマーの東部)に流れ込み、ここを拠点として共産党に対するゲリラ活動を行い始めたことから、ビルマ政府は軍を差し向けてこれを一掃している。また初代首相ウー・ヌが仏教を優遇する政策を行ったため、キリスト教徒が多い北部や東部の州の反発を招き、不穏な状態は一向に改善されなかった。
このように、ビルマは建国直後から不安定な状態が続いたため文民統治が徹底せず、徐々に軍部の存在感が増していった。


◆ビルマ式社会主義 = 引きこもり + 貧乏の加速
右がネ・ウィン、左はイギリス海軍元帥マウントバッテン伯爵1958年に与党が内紛による分裂で弱体化すると、ネ・ウィン将軍率いる国軍が1962年にクーデターを起こし、閣僚・議員を逮捕して実権を掌握した。ネ・ウィンは自らの独裁政権に正統性を持たせるため、マルクス主義と仏教を掲げる政党BSPPを創設し、「ビルマ式社会主義」なる政治を追及しはじめた。1974年には新憲法を制定し、国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」に改め、自らは大統領に就任した。
軍事政権が共産主義を掲げるのも相当ヘンだが、同時に仏教を掲げるというのはもっと変。こいつもソマリアのバーレのように自分の独裁を正当化したいだけで、共産主義の何たるかを分かっていないバカタレに違いない。

そんなバカタレの独裁政治だけに、「ビルマ式社会主義」なるものは元から貧弱なこの国の経済を崩壊させた。ネ・ウィンは事実上の鎖国主義を貫いたため、諸外国との貿易は殆ど無いうえに最低限の貿易でさえ赤字続きとなり、外貨獲得手段を持たないこの国は累積債務に苦しみ、国民の生活は地を這うような水準のままだった。
ネ・ウィンは1981年には大統領を退いたが、引き続きBSPP議長として傀儡大統領を操る院政を続けた。

1960年代から問題となっていたインフレは年を追うごとに悪化し、1987年には高額紙幣廃止例が打ち出され、流通している紙幣の80%が紙くずと化すほど悪化した。とても計画経済を導入している国とは思えない。
さすがにこれには国民も怒り、1988年になると学生を中心に民主化を要求するデモが始まった。政府は治安部隊を差し向けてこれを鎮圧するが、その際に100人以上の死者が出てしまい、怒り狂った国民の民主化闘争は激化した。こうなってはミャンマーを最貧国まで叩き落したネ・ウィンだけに、一気に求心力を失い議長を辞任する羽目となった。


◆ラングーン爆弾テロ事件
余談だが、ネ・ウィンは似非共産主義者だけに外交面で中ソにべったりということはなく、北朝鮮と韓国の両方と国交を結んでいたりした。そのような煮え切らない態度ゆえにソ連から援助も貰えず貧乏暮らしが続いたわけだが、インドなどのように非同盟中立諸国として生きるのもひとつ選択肢なので、まぁそれはそれでいい。

これが北朝鮮に暗殺されかけた韓国大統領 全斗煥1983年、当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権はソウル・オリンピック開催の支持と、それに対する選手団の派遣を説得すべく、これら非同盟中立諸国にも活発に働きかけを行っていた。
ビルマは北朝鮮とも国交があるだけに、不支持はもちろん選手団すら派遣してもらえない可能性がある。それだけに韓国政府はこんな取るに足らない貧乏国に並々ならぬ力を入れて説得に当たり、1983年10月には全斗煥大統領をはじめとする多くの閣僚がビルマの首都ラングーンに乗り込んで来た。

ところが、自国の孤立化につながりかねないこれら一連の動きを苦々しく思った北朝鮮は、全斗煥を暗殺することを計画する。全斗煥大統領一行がアウン・サン廟を訪問することを知った北朝鮮工作員は屋根裏に遠隔操作で爆発する地雷を仕掛け、献花に訪れた一行を廟もろとも吹き飛ばした。全斗煥自身はたまたま到着が遅れて難を逃れたが、現職の閣僚4名が死亡する惨事となった。
ビルマ警察は銃撃戦の末に死に損ねた工作員2名を逮捕し、北朝鮮の犯行であることが明らかになった。このときのビルマ政府の怒りは尋常ではない。主権を侵害されたうえに、メンツは丸つぶれ。そのうえ建国の父と慕うアウン・サン将軍を奉る廟を爆破されたのだ。ビルマ政府は北朝鮮との国交を断絶するのみならず、国家承認の取り消しという極めて厳しい措置を取った。

もし、チェチェンのゲリラがレーニン廟を吹っ飛ばそうものなら根絶やしにされかねないし、世界貿易センタービルを吹っ飛ばしたアルカイダを匿ったタリバンは壊滅させられた。世の中、限度というものがあるのだ。それが分からず、敵ではない勢力を敵にしてしまうところが実に朝鮮人らしい。
もっとも、最近になってミャンマー政府は中国のとりなしで北朝鮮との国交を回復したが。

《Part 3につづく》

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2006.08.26 (Sat)

【世界の香ばしき国々】第17回:ミャンマー(Part1) - 軍事政権がのさばるASEANの問題児

◆この国も「圧政の拠点」(byライス国務長官)の一員
今回、久しぶりにアジアから登場するのはミャンマー。どこにあるのか分からないようなアフリカの国と違って、当ブログ読者諸氏もミャンマー軍事政権のロクデナシぶりはご存知のこととは思うが、改めてその香ばしさを見てみようと思う。
なにしろ、アメリカからキューバ・イラン・イラク・北朝鮮・ジンバブエ・ベラルーシと並んで「圧政の拠点」と名指しで批判される国だ。ネタには事欠かない。

ミャンマー国旗この国は1987年の軍事クーデターで実権を握った軍部が、国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に改名している。これを認めない国や有力マスコミも多数あるが、日本では「ミャンマー」という標記に統一され一般化していることから、ビルマという名前だった時代のことについて記述する際を除き、「ミャンマー」と記述する。言っておくが、だからといってにゃおんちゃんはあのようなチンピラ政権を認めているわけではない。
ちなみに、ビルマ語では「ミャンマー」も「ビルマ」も同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多いという程度の違い。国民も特に違いを意識していないらしい。ビルマ語による正式名称は独立以来ずっと「ミャンマー」を使用していることから、1989年の英語表記変更によって内外の呼称が統一化されたことになる。


ミャンマー位置図ミャンマーは1962年の軍事クーデター以来ネ・ウィン政権による社会主義体制が続いていたが、長年続く独裁政治や経済政策の失敗によって民主化運動が激化し、1988年に退陣に追い込まれた。しかし、間髪を置かず再びクーデターが発生し、ソー・マウン参謀長をトップとする軍事政権(国家法秩序回復評議会:SLORC)が実権を握った。

ネ・ウィン政権時代には「ビルマ社会主義計画党(BSPP)」による一党独裁だったが、SLORCは複数政党制を認め、1990年には総選挙も行われた。しかし、この選挙でビルマ建国の父アウン・サンの娘アウン・サン・スー・チー率いる民主勢力「国民民主連盟(NLD)」が圧勝すると、SLORCは政権移譲を拒否して国会を閉鎖してしまった。
1992年以降はタン・シュエ議長をトップとする国家平和発展評議会(SPDC:1997年にSLORCから改名)による軍事独裁政権が現在まで続いている。形式上は首相が存在するが、実際にはタン・シュエには逆らえないただのお飾り。

SLORCは1990年の選挙結果を無視すると民主化運動を徹底的に弾圧し、スー・チー女史を1989年以来断続的に自宅に軟禁している他、国民の義務として様々な強制労働を国民に強いている。可愛いところでは街の清掃に3日間ほど借り出される程度だが、酷いものになると鉱山やダムの建設現場にぶち込まれてコキ使われる羽目になる。労働の対価としての給料を貰うどころか、免除してもらうためには逆に政府に金を払わなくてはいけない。


アメリカなどの欧米先進国はミャンマーに対する経済制裁を発動。共産主義体制崩壊後、緩やかにではあるが経済発展を遂げつつあったミャンマーを締め上げた。
しかし、そんなことに動じるSLORCではない。元々欧米諸国との貿易など微々たるものなので痛くも痒くもないし、麻薬密売組織とグルになっている彼らは金には困っていない。文句を言う国民は射殺したり装甲車で轢き殺せば済むだけのこと。

開き直るSLORCの態度を見て逆に困った東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国では、「このまま制裁を続ければミャンマーを孤立化させるだけ」という建設的関与論が台頭し、積極的に関与することで徐々に民主化を促そうとした。もちろんそんなものは建前で、実際はミャンマーの天然資源や安価な労働力を目当てに商売したかったに過ぎない。外国からの投資が期待できることからSLORCもこれには反対せず、1997年にはASEANに加盟した。
しかし、SLORCはASEAN加盟国の首脳や外相が集まる会議などで人権改善や民主化を要求されると途端にヘソを曲げて引きこもるため、周辺国もホトホト困り果てている状況にある。開き直った奴は強い。

アメリカやEUの経済制裁にも怯まず、ASEANのとりなしも無視するSLORCはただでさえ困り者なのに、1990年代半ばからそんなミャンマーに擦り寄ってSLORCをますま増長させる奴が現われた。誰?もちろん、中国だ。余計なことをして国際社会の努力を台無しにする国といえば、いつだって中国とロシアに決まっているではないか。
中国は様々な援助を与えてSLORCを懐柔するとアンダマン諸島の北にある大ココ島を租借し、ここにレーダー施設と軍港を建設した。東はミャンマーから、西はパキスタンからインドに圧力を掛けようという腹づもりなのだ。また、中国はヤンゴンからミャンマーを縦断して雲南省へ抜けるパイプラインの建設を計画している。これが完成すれば、中東からの石油をマラッカ海峡や台湾海峡を経由せずに輸入できるため、有事の際にアメリカや日本、その影響下にあるマレーシアやインドネシア、フィリピンや台湾に海峡封鎖されたって平気というわけである。


面積は68万k㎡(日本の約1.8倍でアフガニスタン、ソマリアとほぼ同等)、人口は約5,200万人(2002年)、一人当たりGDPは159$。
調べて驚いた。アジアどころか世界でも最低クラスの数値だった。これ以下の国はエリトリア、エチオピア、コンゴ民主共和国(旧ザイール)、ブルンジの4ヶ国のみ。要するに、ミャンマー経済は貧しいアフリカ諸国の中でも最低クラスのクズ国家と同等なのだ。
この国の主要産業は農業だが外貨を稼げるようなレベルではなく、天然ガスや木材の輸出と宝石のオークションで細々と稼いでいる。そのうえ欧米諸国から経済制裁を喰らっているのだから、こんな数値になるのは当然なのかもしれない。世界最大のケシ生産国であるこの国は麻薬でボロ儲けしているが、そんなものがGDPに反映されないのは言うまでもない。

《Part 2につづく》

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