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2006.07.03 (Mon)

【世界の香ばしき国々】第16回:中央アフリカ(Part3) - 騒乱続きで外資も逃げ出す悲惨な国

前回の記事の続きです。
ボカサ皇帝が失脚した中央アフリカですが、状況は全く改善されません。アフリカ諸国はどこもこんな調子で、政情が安定するという点では独裁のほうがマシなんじゃないかと思います。
「独裁=絶対悪」と思いがちですが、中国にしろこの手の国にしろ、独裁でもやらないと国が治まらないんですよね。内戦でズタズタになるくらいなら独裁のほうがマシですよね。

◆相変わらず選挙とクーデターの繰り返し
クーデター後、大統領に復帰したダッコは'81年の選挙で再選されるが、選挙不正に反発した野党勢力が大規模なストライキを起こし国内は混乱した。すると、アンドレ・コリンバ国軍参謀長がクーデターを起こして実権を掌握、ダッコは再び失脚した。コリンバは1986年の選挙によって大統領に就任すると、1993年まで政権を維持した。

アンドレア・コリンバ元大統領1990年代初頭までは隣にスーダンやコンゴ共和国(当時はコンゴ人民共和国)といったイスラム原理主義や共産主義の国があったことから、フランスは中央アフリカの独裁を大目に見てきた。しかし、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結すると、親仏というだけでは横暴な政治を行うことは許されなくなった。

コリンバは渋々ながらも1991年から複数政党制を導入し、'92年には初めてまともな選挙を実施した。今までは合法政党がMESANのみだったため、候補者は現職一人のみという場合が多く、信任投票に過ぎなかった。選挙にはコリンバや元大統領のダッコなども出馬したが、アンジュ・フェリックス・パタセが当選した。
すると選挙に負けたコリンバは突如選挙の無効を宣言して、引き続き大統領の座に居座ろうとした。しかし、10ヵ月後のやり直し選挙でもパタセが勝利。往生際の悪いコリンバはクーデターを画策したが失敗し、裁判にかけられそうになるとウガンダへ逃亡してしまった。


アンジュ・フェリックス・パタセ前大統領1993年10月に大統領に就任したパタセは、元々は熱帯農業に関する研究者でフランスに留学した経験も持つ。1965年にダッコ政権で大臣に就任して政界に進出すると、ボカサの妻の従兄弟だったことからボカサ政権でも重用され、約10年間にわたって様々な大臣ポストを歴任した。ボカサ政権が崩壊すると、その主要閣僚だったパタセはダッコやコリンバによって激しく弾圧され、フランスへ逃亡する羽目になった。しかし、1991年に中央アフリカが民主化されると帰国して大統領選に出馬した。

中央アフリカの大統領は代々南部出身者が多く、長年に渡って南部氏族が優遇されてきた。しかし、北部出身のパタセは南部人が持っていた利権を取り上げ、それを北部人に与え始めた。当然、南部人は怒る。南北対立の激化が経済に影響を及ぼし始めると、政府は公務員に対して給料を払えなくなり、これに怒った国軍兵士の一部が1996年4月から半年間のあいだに3度も大規模な騒擾事件を起こしている。

パタセはフランスの支援を得て体制を立て直そうとしたが手に負えず、周辺国が調停に乗り出す事態となり、ガボン、ブルキナファソ、マリ、チャド、セネガル、トーゴの6ヶ国で構成されるアフリカ仲介軍(MISAB)が派遣された。MISABの活動は国連PKO(国連中央アフリカ共和国ミッション:MINURCA)に引き継がれ、1999年9月にはその支援のもとで大統領選挙が実施されパタセが再選された。


◆ボジゼ政権の現状
それでも国内の政情不安は治まらない。この手のダメ国は独裁者いなくなると、途端に内輪もめを始めるケースが多い。
中央アフリカもその例外ではなく、MINURCA撤退後も国連やIMF、世界銀行によって復興支援が行われていたにも関わらず、2001年5月に国軍兵士によるクーデター未遂事件が発生。同年11月、次いで2002年10月には大統領警護隊とフランソワ・ボジゼ元参謀長派の国軍兵士による武力衝突事件が発生している。
ボジゼはパタセによって干された国軍やコリンバ政権時代の有力者達から支持を受けており、特に2002年10月の武力衝突の際には国軍兵士の相当数がボジゼに加担した。大統領警護隊だけでは手に負えず、パタセはリビアとコンゴ民主共和国(元ザイール)の助けを借りてかろうじて鎮圧に成功した。

2003年3月、パタセの外遊中にボジゼが三度クーデターを起こし、これに成功すると大統領就任を宣言した。また、ドサクサに紛れた市民が略奪、破壊、放火を行ったため、商店をはじめ政府や外国人関係の施設が大きな被害を受けた。大統領から市民まで、揃いも揃ってどうしようもない国である。
ちなみに、このクーデターの際には現地に進出する外資系企業の事務所や日本企業の駐在員の住宅に、兵士や市民が強盗に押し入っている。各国は大使館を閉鎖し、殆どの外国人が国外に退去してしまった。だからさぁ・・・そういうことするから外資が逃げるんだってば。中央アフリカ国民よ、自分で貧乏を加速させてどうする。
在中央アフリカ日本大使館はこのときに閉鎖され、それ以来今日までカメルーン大使がこの国の担当を兼任する状態が続いている。

フランソワ・ボジゼ大統領ボジゼは軍出身者だが後に政界に転じ、1979年にはダッコ政権で国防大臣に就いている。続くコリンバ政権でも大臣を務め、1993年には大統領選にも出馬している。2001年5月に国軍兵士の一部と共にクーデターを計画するが未遂に終わり、チャドに逃亡した。以後、国軍内のシンパと連絡を取りつつチャドから機会を窺っていた。
クーデターによって帰る場所を失ったパタセはトーゴに亡命し、「チャドやその背後にいるリビアがボジゼを炊きつけて中央アフリカに傀儡政権を作ろうとしている」と批難したが、チャドのイドリス・デビ大統領にあっさりと否定されている。

ボジゼ暫定政権は2004年に新憲法を国民投票で採択した後、2005年5月に大統領選挙を実施。ボジゼはこれに勝利して、正式に大統領に就任した。しかし、国軍からの支持が厚いボジゼといえども、相変わらず公務員への給料遅配問題は解決できておらずストライキが頻発しており、予断を許さない状況が続く。
また、中央がゴタついたことで地方への統治が緩み、周辺国との国境地帯では盗賊や武装勢力が跋扈するようになった。特に北部で暴れる反政府武装勢力は強力で、約4万人の難民が発生している。この武装勢力はチャドからの支援を受けていると思われるが、北部地域の分離独立を唱えているわけでもなく、またフランス軍が駐留していることから内戦に突入する可能性は低い。

《中央アフリカ編 終了》

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19:01  |  中央アフリカ共和国  |  TB(0)  |  CM(11)  |  EDIT  |  Top↑

2006.07.01 (Sat)

【世界の香ばしき国々】第15回:中央アフリカ(Part2) - 世界中の笑いものになった皇帝ボカサ1世

前回の記事の続きです。
やっと独立を果たしたというのに、他のアフリカ諸国と同様に植民地時代よりも悲惨な状況に陥ります。アフリカ諸国って、どうしてこうなんでしょうかね・・・。

◆暴君ボカサ登場
大戦終結後の1946年、ボカサの叔父にあたるベルテルミ・ボガンダが「ブラックアフリカ社会進歩運動(MESAN)」を組織して独立運動を開始した。実はボカサ一族はムバカ族という部族の酋長で、フランスの植民地統治にも協力的だったことからウバンギ・シャリではエリートの一族だった。
ウバンギ・シャリは大戦中に自由フランス政府について戦ったことからフランスの心証も良く、1958年には制限付きながらも自治権を認められた。これを受けてウバンギ・シャリはフランス領内の自治共和国となり、名称をウバンギ・シャリから「中央アフリカ」へと改めた。その後、アフリカ全土で独立の機運が盛り上がると、中央アフリカ自治共和国も1960年に「中央アフリカ共和国」として独立することとなった。

中央アフリカのダッコちゃん独立直前にボガンダが飛行機事故で亡くなったため、甥のダビッド・ダッコがMESANを引き継いだ。ダッコはウバンギ・シャリの大学の学長を務めたことがあるインテリで、自治共和国時代には大臣職も経験していた有力政治家だった。独立後の国会で大統領に選ばれたダッコは、中央アフリカ共和国の初代大統領に就任した。
大統領に就任したダッコは親フランス路線を取りつつも、MESANを唯一の合法政党とし、敵対勢力を弾圧して独裁体制を敷いた。ダッコの従兄弟にあたるボカサも、中央アフリカ出身の最高の軍人として活躍した実績により、国軍の参謀総長に任命されている。


しかし、ダッコは経済政策に失敗したうえに政権内ではダイヤモンド利権に関する腐敗が酷かったことから、ボカサは1965年にクーデターを起こしてダッコ政権を倒した。
ボカサは大統領に就任すると独裁体制を作り上げ、凄まじい贅沢を始めた。これに怒った軍や警察が幾度となくクーデターを試みるが全て失敗に終わり、猜疑心に囚われたボカサは共にクーデターを起こした側近達を次々と粛清し、しまいには16ある大臣のポストのうち14を兼任するという傍若無人ぶりを発揮する。

ジャン・ベルデ・ボカサまた、ボカサは猜疑心が強いだけでなく残虐な性格の持ち主だったようで、わざわざ自ら刑務所に出向いては囚人を殴り殺したり、収監されていた小中学生を杖でぶったりしたという。大統領自ら刑務所に行って囚人を撲殺するという話も凄いが、小中学生が収監されているというのも凄まじい。
一方で、自分がクーデターで失脚させたくせにダッコとはその後も仲が良く、側近として彼を取り立てている。後にダッコ本人も「大統領在職中に反対勢力に命を狙われていた自分を、ボカサがクーデターという形で保護してくれたのだ」と語るほどであった。ただし、ダッコが本当に自分の意思でそのようなことを言ったかどうかについては不明。


そんな暴君ボカサだったが、元軍人にしては外交手腕に長けているところを披露している。
1970年にド・ゴールが死亡すると、ボカサはわざわざ自由フランス軍時代の制服を着て出席し、親フランスぶりをアピール。しかし、親フランス一辺倒というわけではなく、訳の分からない文句を言ってフランスを怒らせては、頃合を見計らって矛を収めるかわりに譲歩を引き出すという巧みな外交でフランスにタカり続けた。
もっとも、フランスにしてみれば「元植民地の独裁者が何やらわめいているが、どうせ本気で我が国に逆らう気など無いのだから、適当に金でも与えておけ」といった程度なのかもしれない。何だか、日本の隣にある某国を彷彿させる話だ。

他にも、近隣諸国と友好関係を保ちつつも、アパルトヘイトのせいで他の黒人国家から敵対視されていた南アフリカに接近してみたり、共産主義者でもないくせにソ連に接近してみたりと、とても元軍人とは思えない無節操ぶりを披露している。しまいには、リビアのカダフィ大佐から援助を引き出すためにイスラム教に改宗したりもしている。
金さえくれれば誰でもいいのか、お前は。


◆ボカサ、ついに皇帝になる
ボカサの専横ぶりは留まることを知らず、1972年には終身大統領に就任。しかし、これに飽き足らず、1976年には「皇帝ボカサ1世」と名乗り帝位についてしまった。これに伴い、国名も「中央アフリカ帝国」に改名されている。・・・・・・20世紀だぞ、しかも1970年代。こんな時代に皇帝を名乗る馬鹿がどこにいるか。

戴冠式の様子翌1977年には当時の中央アフリカの国家予算の2倍にあたる2,500万ドルを費やして、ナポレオンにならったという豪華な即位式を行った。当時のこの国の一人当たりのGNPはたったの150ドル。そんな貧しい国で、こんな何の形にも残らない贅沢な式典のために2,500万ドルの大金を浪費したのだ。

本当はバチカンの大聖堂でローマ教皇に戴冠してもらいたかったのだが断られたので、首都バンギに建設した「ボカサ・スタジアム」で行った。また、同じ皇帝である日本の昭和天皇を戴冠式に呼ぶべく日本政府にも招待状を出したが、にべも無く断られている。
当たり前だろ、教皇や天皇を何だと思ってるんだ。



この戴冠式はテレビ放映されて世界中から嘲笑を買い、アメリカなどは「馬鹿馬鹿しい、こんな国に援助する理由など無い」と、即座に経済援助を停止してしまった。ただし、フランスは中央アフリカに金やウラン鉱山の採掘権を持っていたことから、トチ狂った独裁者の愚行といえども切り捨てることができず、経済援助を続けたうえに戴冠式に必要な金も貸し付けた。
もちろんボカサのほうも抜かりはなく、フランスから支持と援助を取り付けるために当時の大統領ヴァレリー・ジスカールデスタンに膨大な贈賄工作を行い、戴冠式に必要な費用の借款と皇帝としての承認を引き出している。


皇帝となったボカサの悪政と浪費は一層酷くなり、国情は悪化の一途をたどった。元々経済的に脆弱なこの国が、粛清による人材不足からくる行政組織の機能不全と腐敗、それが引き起こす社会の停滞や混乱に耐えられるはずがなく、頼みの綱はフランスからの援助。
しかし、その援助も全てボカサ皇帝が浪費してしまうのだから、国の経済は一向に改善しない。もっとも、フランスにしてみれば、自国企業への採掘権さえ保証してくれればこんな土人の国の主など誰でも良いわけで、渡した金がどのように使われようと知ったことではないのだが。

ボカサ皇帝の奇行や狼藉はエスカレートする一方で、目に留まった女性を片っ端から連れ帰ってハーレムを作って100人以上の子どもを作ったり、30歳未満の国民全員を帝国唯一の政党MESANの党員にしたり、大学で憲法学や政治学、社会学の講義を禁止にしたりとやりたい放題。国民にとってはたまったものではない時代が続く。


◆ボカサ帝国の崩壊
そんなボカサ帝国の終焉は思いのほか早く訪れた。
帝位についた2年後の1979年1月、首都バンギで反帝政の学生デモが起こった。そもそもの発端は、ボカサが小中学生への制服着用を義務化したことだった。この制服はボカサ自らがデザインしたもので、皇帝一族の所有する工場で生産され、一族の所有の店を通じて販売された。寡占体制なので当然価格は不当に高く、日頃からボカサの圧政に苦しんでいた国民の怒りがついに爆発し、大規模なデモと暴動に発展した。

ボカサは皇室親衛隊に加えてザイールから軍を派遣してもらい、400人の死者を出してこれを鎮圧した。デモには何故か多数の小学生も参加していたため、死者400人のうち100人は子どもだったという。子どもを容赦なく殺すのも酷いが、こんな圧政国家で行われるデモに子どもを参加させる親も親である。しかし、これにはさすがのフランスも怒り、ついにボカサに見切りをつけて全ての援助を止めてしまった。
ちなみに、ザイールから軍を派遣してもらったのは、ボカサがザイールのモブツ大統領と仲が良かったことに加え、自国の軍隊を信用してなかったから。皇室親衛隊はボカサのボディガードとして優遇される一方で、国軍はボカサの浪費癖のせいで酷い扱いを受けていた。

大事な金づるを失ったボカサはリビアへ接近し、1969年のクーデターによって独裁者として君臨していたカダフィ大佐から軍事顧問団の派遣や経済援助を取り付けた。ところが、ボカサがリビアを訪問していた1979年9月にフランス軍がダッコを担ぎ上げてクーデターを行い、中央アフリカ帝国はあっけなく崩壊してしまった。
ボカサはカダフィー大佐に貰った金を持ってフランスに亡命しようとしたが、たどり着いた空軍基地で50時間も待たされたあげくに拒絶された。他でもないフランス自身がクーデターを画策したことを知らなかったのだろうか?それとも他に行くところが無かったのか、あるいは贅沢な暮らしができればどこでもよかったのか、いずれにせよ何ともマヌケな話である。

ボカサは仕方なくコート・シボワールへ亡命するが、後に許されてフランスへ移住した。しかし、何を思ったのか1986年に帰国。当然すぐに捕まって裁判にかけられ死刑宣告を受けたのだが、1993年に減刑・釈放され、1996年に死去した。晩年は元フランス軍人に支給される年金で生活していたという。

《Part3につづく》

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2006.06.28 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第14回:中央アフリカ(Part1) - キチガイに囲まれた可哀想な国

お待たせしました。久しぶりの「香ばしき国々」シリーズの更新です。
DVDやらサッカーにかまけていたら、いつまにか一ヶ月以上経っていました。
今回は「中央アフリカ共和国」が登場します。

◆地域名じゃなくて、そういう名前の国があるんです。
「中央アフリカ共和国」はその名前のとおりアフリカのほぼど真ん中、コンゴ盆地の北端にある最貧国。北にチャド、東にスーダン、南にコンゴ民主共和国(旧ザイール)と香ばしい奴らに囲まれているだけあって、この国も大変香ばしい。

中央アフリカ国旗この国の産業といえば木材の伐採、コーヒーや綿花の栽培、それに金やダイヤモンド、ウランの採掘。しかし、この国は内陸国なので近隣諸国を経由しなければ何も輸出できない。
ただでさえ輸送コスト高というハンディを抱えているのに、その周辺諸国はことごとく政情不安な国ばかり。周辺国で紛争が起こるたびに交易に支障が出たり難民が流れ込んで来たりするうえに、中央アフリカ自身も政情不安な時期が長く続き、幾度も経済的な大ダメージを受けた。そのおかげで、元から貧しいこの国は一層貧しくなり、今では公務員の給与も支払えないほど国家財政が悪化している。

この国が内乱状態に陥ってズタズタにならずに済んでいるのは、ひとえにフランス軍を中心とする中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)軍が駐留しているから。元宗主国様の軍隊に手を出すとどういうことになるか、中央アフリカ国民もよく分かっているらしい。

中央アフリカ共和国面積は62万3000k㎡(日本の1.7倍でウクライナより少し大きい)、人口は394万人(2004年)、一人当たりのGDPは370$。
この国には砂漠は殆ど無く、国土の大半が600m級の台地にあるサバンナと熱帯雨林。夏は雨季、冬は乾季と気候がはっきりしているとはいえ、雨量が異常に多いわけでも旱魃があるわけでもない。高地なので昼夜の気温差は激しいが、領内にはウバンギ川やシャリ川といった大河があるので、灌漑施設を整備して真面目に農業をやればそれなりにやっていけそうな気がする。しかも、天然資源があるのに、どうしてこんなに貧しいのだろうか。アフリカには、こういう「やる気の無い国」が多すぎる。


もっとも、中央アフリカは「やる気が無い」どころかイカレた国で、独立以来ずっと選挙とクーデターを繰り返す歴史が続いている。以前紹介したカリブ海の小国ハイチほど酷くはないが、この国はハイチよりも貧乏なうえに、ボカサ皇帝という最強の勘違い野郎が帝政を敷いた歴史を持つ。

このボカサ皇帝、殺した人間の数ではハイチのパパ・ドックことフランソワ・デュバリエ大統領には負けるが、1977年には当時の中央アフリカの国家予算の2倍に匹敵する2,500万ドルを費やして豪華な戴冠式を行って皇帝に即位しており、贅沢三昧で国民に塗炭の苦しみを味合わせた点ではパパ・ドック以上の悪者。'70年代という時代に、アフリカの山奥にある馬鹿国の成り上がりの独裁者が皇帝を自称したところで世界中から嘲笑されるだけなのだが、一体何が彼をそのような愚行に駆り立てたのか。
そういえば、ハイチのアリスティド前大統領が失脚した際に逃亡したのは、この中央アフリカだった。類は友を呼ぶ、というやつだろうか。


◆フランス植民地の時代
この国はコンゴ盆地の北端にあるのだが、コンゴ王国の領地ではなく、チャドにあったカネム・ボルヌ帝国の影響下にあった。しかし、18世紀になるとポルトガル人やアラブ人がこの地で奴隷狩りを行い、空いた土地にスーダンなどから他民族が移住してきて19世紀後半にはエジプトの影響下に置かれることとなった。
フランスは17世紀半ばから西アフリカで積極的に植民地経営を行っていたが、20世紀初頭になると、その南にあるコンゴ盆地西部(現在のコンゴ共和国やガボン)にも進出してきた。フランスはさらに北部にも進出し、1906年にはエジプトを追い出してコンゴ盆地北部をフランス領赤道ギニアのウバンギ・シャリ植民地とした。

ウバンギ・シャリに入植したフランス人は黒人奴隷を使って天然ゴムや綿花などを栽培していたが、この地にダイヤモンドや金が埋蔵されていることが分かると、それらの採掘に力を入れるようになる。
フランスの植民地でも西アフリカ(現在のセネガルやコートジボワールなど)では黒人に教育を与え、徴兵などの義務と引き換えにある程度の権利も付与する政策が取られたが、赤道アフリカではあまり積極的に行われず、徴兵も無いかわりに人口が減少するほど激しく搾取された。


第二次世界大戦でフランスがドイツに制圧されると、フランスには親独政権のヴィシー政府が樹立された。一方、対独徹底抗戦を唱えるシャルル・ド・ゴール一派はイギリスに逃れて自由フランス政府を組織した。
自由フランス政府はロンドンに亡命している身なので、領土も持たず兵力もわずか。しかし、そんな自由フランス政府といえども、本国を奪還するためにはイギリスに頼るばかりではなく自分でも兵を調達して戦う必要があった。自由フランス政府の頼みの綱は植民地。当時のフランスはイギリスに次ぐ世界第2位の植民地大国で、世界各地に1,200万k㎡の土地と約7,000万人の人口を有していた。ここから生み出される資源や人材を活用すれば、たとえ本国を失ってもドイツと戦うことができる。

ところが、各植民地の総督達が支持したのはヴィシー政府。本国を支配しているのはヴィシー政府であり、さしたる抵抗もせずにあっさりと逃げ出した連中が作った自由フランス政府に失望するのは無理も無い。
しかし、ウバンギ・シャリは自由フランス政府につくことを選択した。といっても、積極的に支持したわけではなく、かつてドイツの植民地だったため反ドイツ感情が強い東隣のカメルーン(当時は英仏の委任統治領)や、ナチスの人種差別政策を嫌った北隣のチャド(当時はフランス領赤道アフリカのチャド植民地)が自由フランス政府を支持したから。周辺の大国が揃って自由フランス政府についたのでウバンギ・シャリもそれに同調した、というだけのこと。

後に皇帝となって世界中から失笑を買ったジャンベルデ・ボカサも、自由フランス軍に参加して第二次世界大戦に従軍している。大戦終結後はインドシナ戦争にも従軍し、最終的には大尉まで出世した。当時フランス軍に所属していた黒人の中ではこれが最高位だったらしいので、フランス領の植民地出身の軍人として見ればボカサは優秀だったのだろう。

《Part2につづく》

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