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2007.03.29 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第39回:コンゴ民主共和国(Part12) - コンゴのぬかるみはどこまで続く?

前回の続きです。
コメントを残してくれた皆様、ありがとうございました。まだゲホゲホいってますが、おかげさまで熱は下がりました。食欲もあるしすぐに元気になると思います。

さて、コンゴ編の最終回です。いやー、長かった・・・。書くのも大変でしたが、それ以上に厄介なのが書いていると気分が陰鬱になり、心が荒んでいくことでした。コロンビアにコンゴですよ。西半球と東半球で一番ヤバい国をそれぞれ登場させたわけで、これ以上香ばしい国はもうスーダンくらいしか残ってないのではないかと。
ギザギザ・ハートになりたくないので、当分は長編は書きません。


◆貴公子ジョセフ・カビラはコンゴを救えるか?

国連の仲介によってコンゴ政府と周辺諸国は1999年7月、ルサカ合意と呼ばれる停戦協定に調印した。国連はこれを受けて「国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)」を設立し、各国部隊の監視とゲリラの武装解除を試みた。
ところが、この協定を守って撤退したのはナミビアのみ。それ以外の国はコンゴに居座り続け、ゲリラも武装解除を拒否し、挙句の果てにカビラが国連部隊の展開を妨害したため、停戦はすぐに事実上無効化てしまった。

2001年1月にカビラが側近のボディガードに射殺されるという事態が発生。この暗殺劇はウガンダとルワンダが裏で糸を引いていたといわれている。再び内戦突入かと思われたが、カビラの長男であるジョセフ・カビラ国軍参謀総長がすぐに大統領に就任した。
ジョセフ・カビラジョセフ・カビラは1971年にキヴ州で生まれているが、父ローランがタンザニアを拠点にゲリラ活動を行っていたことから、タンザニアで育っている。その後、ウガンダやルワンダなどでの生活を経て北京の中国国防大学(人民解放軍の幹部候補を養成する大学)へ留学し、1998年にコンゴへ帰国。帰国後は少将の地位を与えられ、高等教育を受けたプロの軍人として国軍参謀総長に就任していた。お坊ちゃまで育ちがいいせいか、父ローランの悪党面と比較すると非常にスマートな好青年という印象を受ける。

29歳のジョセフ・カビラに対し、その若さを危惧する声も多数あったが、彼は大統領になると内戦終結を目指して各武装勢力との交渉を開始した。2002年いっぱいを和平交渉に費やし、年末には包括和平合意が成立。2003年夏にはその合意に基づき、RCDとMLCの代表を含む暫定内閣を発足させた。
2004年にはモブツ派の残党がクーデターを起こしたが鎮圧に成功し、2005年12月には新憲法の是非を問う国民投票を行った。2006年2月には新憲法が発効し、7月には大統領選が行われた。モブツ時代に彼を信任する形式的な大統領選が行われたことはあるが、民主的な選挙はこれが1960年の独立以来初めてのものとなった。


やっと選挙までこぎつけたというのに、コンゴの民は騒ぎを起こし続ける。
カビラとベンバ、双方の支持者はお互いに各地で衝突し、罵り合い、投石などを繰り広げた。それのみならず、相手の選挙事務所を襲撃して警備をしていた警察官を殺害し、女性事務員をレイプするなんてことまでやらかしている。半世紀近くまともな選挙が行われたことが無いコンゴ人にとって民主主義とは、敵対候補の事務所を襲撃して警察官を殺し、女性をレイプすることらしい。
そういう物騒で理不尽な世の中を変えるために、選挙して民主的な政治をするんじゃないのかい?と思うが、コンゴ人にとっての民主主義とはそういうものではないようだ。

また、この選挙には1,300人の選挙監視団が投入されているにも関わらず、各候補とも選挙期間中に市内の病院すべてに救急車を寄贈したり、投票会場となる小学校の屋根の修理代を寄付したりと凄まじい実弾攻勢を繰り広げている。あげくの果てに選挙管理委員会が「現状では票の買収を禁じる法律はない。裕福な候補者が金を配るのは自由だ」と言い張るのだから救いようが無い。
こんな国で選挙なんかやるのは間違っている。民主主義が成功する基準は一人当たりのGDPが2,000ドル以上と言われている。それ以下の国で民主化すると余計に混乱するだけだという。モブツやローラン・カビラのことを「独裁者」と罵ったが、選挙をやってもこのザマではコンゴ人には独裁政治がお似合いなのかもしれない。


選挙には33名が立候補したが、最終的にはジョセフ・カビラと副大統領ジャンピエール・ベンバ(MLCのリーダー)の一騎打ちとなり、11月に決選投票が行われてジョセフ・カビラが勝利した。
このベンバという男、元々はビジネスマンでモブツの親族に当たる。モブツ政権下でビジネスマンとして大成功を収め、今ではコンゴでも有数の金持ちだという。ベンバ陣営は「カビラはタンザニア育ちで外国人も同然だ。彼はコンゴを外国に売り飛ばそうとしている」というキャンペーンを行ってカビラに対抗していた。
余談になるが、この第二次カビラ政権で首相を務めるのは何とアントワーヌ・ギゼンガ。そう、コンゴ動乱の際にルムンバ派がスタンレーヴィルに打ち立てた政権で大統領を務めた男だ。81歳の高齢にも関わらずPALUという政党を率いて出馬し、決選投票ではカビラ支持にまわっていた。

国際社会はこの選挙を全面支援し、EUやAU、各国のNGOなどが計1,300人の選挙監視員を派遣。国連も約17,000人規模の平和維持部隊を派遣した。政権は国内すべてを掌握しておらず、依然として内戦状態は続いている。
また、選挙に敗れたベンバが案の定「選挙に不正があった」と騒ぎ出して、最高裁に異議を申し立てた。最高裁がこれを却下すると、ベンバは手下に命じて最高裁を襲撃するという暴挙に出た。怒ったカビラは「大逆罪」の容疑で逮捕状を出すが、ベンバは手下の民兵組織の武装解除を拒否しており、依然として政情不安な状態が続いている。東部は特に酷く、民族対立とも相まって虐殺・略奪・レイプの頻発する無法地帯と化しているという。

この国は今も呪われ続けている。
35歳の若き大統領は、この生き地獄のような国を救えるのだろうか。


《コンゴ民主共和国編終了》

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2007.03.22 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第38回:コンゴ民主共和国(Part11) - モブツの最期とアフリカ大戦

前回の続きです。
風邪をひいて具合が悪いのに、書いても書いても終わりません。ネタ不足で書くことが無いと大変ですが、ネタてんこ盛りなのもつらいです。さて、長年に渡ってザイールに君臨したモブツ大統領ですか、ついに国を追われることになりました。


◆1997年5月、ザイール共和国(モブツ政権)崩壊

さすがのモブツも観念し、大統領の座を退くことを決意して望んだ第2回目の直接会談。ところが、今度はカビラが文句を言い始め、「会談場所に警備上の問題がある」などとイチャモンをつけてドタキャンしてしまった。カビラにしてみれば、キンシャサ陥落が目前なのに話し合いなどする必要は無い。 国連やマンデラが慌ててカビラの説得に掛かるが、そこでカビラから出された要求はモブツに対して「俺様にひれ伏せ」と言うのに等しいものだった。
もはやこれまでと観念していたモブツだったが、あまりの屈辱的な要求に激怒。「こうなったら最後の最後まで徹底抗戦するんじゃ!」と部下に命じ、自分はキンシャサ市内の銀行にある全ての外貨をかき集めてバドリテの宮殿に立てこもった。

バドリテの宮殿には強固な塹壕が築かれており、DSPの精鋭部隊と白人傭兵が守備している。「ADFLごときチンピラ・ゲリラが簡単に落とせる代物ではないわ!うぇーはっはっは」とモブツが高笑いしていたのも束の間、100kmほど離れたところにいた国軍の部隊が蜂起し、こちらに向かっているという知らせが入った。ついに国軍からも裏切り者が出る事態となった。
もはやこうなっては万事休す。モブツは慌てて脱出の準備をし、お友達のニャシンベ・エヤデマ大統領を頼ってトーゴへ脱出した。脱出直前に造反部隊が空港に到着し、モブツの乗る飛行機が狙撃されるほど危機一髪の脱出だったらしい。無事脱出に成功したモブツだが、機中で次のようにつぶやいたという。

「ワシの兵士達でさえ、ワシに銃を向ける。ワシはもうこの国でやるべきことがない。もはや、これはワシのザイールではない」


こうして30年に及ぶモブツ独裁政権はついに崩壊した。 モブツはトーゴを経てフランスへの亡命を希望するが、総選挙を控えていた与党「国民運動連合(UMP)」とフランス政府はこれをやんわり拒否。最後まで色々と面倒を見てくれたシラクですら、最後はモブツを切り捨てた。さらに、お友達だと思っていたエヤデマ大統領からも、「お前がいると野党の攻撃材料になるから、この国に長居しないでくれ」と言われる始末。
立て続けに友達に裏切られたうえに宿無しになる危機に陥ったモブツだが、数少ないモブツの友達モロッコ国王ハッサン2世が「フランスからも頼まれたし、仕方ないのぉ」と受け入れを表明した。

ちなみに、各国がババ抜きならぬ「モブツ抜きゲーム」をしていることを知ったカビラは、「仮にも一国の元首だった人物が宿無しで世界を放浪するのはあまりに屈辱的。身の安全を保証するので、望むなら帰国してもよい」と表明した。しかし、モブツ自身が過去に国外逃亡していた政敵が国内に戻ると捕らえてなぶり殺しにしたという前科を持つだけに、こんな申し出に応じるわけがなくモロッコへ亡命した。

その4ヶ月後の1997年9月、以前から患っていた癌が進行し、モブツはついに死んだ。享年66歳。 アフリカ人はどこでどのように死のうが生まれた土地に埋葬されるのがしきたりらしいのだが、モブツの亡骸は未だにザイールに埋葬することを許されず、モロッコの外人墓地で眠っている。



◆国名が再び「コンゴ」に

モブツがザイールを去った翌日、ADFLがキンシャサを制圧した。国軍もDSPも皆逃げ出してしまい、戦闘行為は全く無かった。
数日後、キンシャサに入ったカビラはすぐに新政権を樹立するが、国防大臣にはADFL幹部のルワンダ人が選ばれ、ルワンダ人兵士がキンシャサ市内をパトロールするなど、ルワンダの傀儡色が強いものとなった。さらに、カビラはADFL以外の政党の活動禁止と国会議員選挙の延期を宣言し、これに抗議したUDPSの政治家を弾圧した。長年モブツ政権と戦ってきたチセケディをはじめとする民主化勢力と共闘するつもりなど、これっぽっちも無かったのだ。そのうえ、カビラは自分と同郷のカタンガ出身者ばかり要職に起用したことから、ザイール国民はすぐにADFLに失望してしまった。
独裁者がモブツからカビラに変わっただけで、ザイールの悪政は何も変わる見込みは無かった。

コンゴ民主共和国の国旗(1997年)そんなザイールだが、国名だけはまた変わった。これで何度目の改名だろうか。 「ザイール共和国」への国名変更はモブツ主導で行われた経緯があるので、カビラはモブツ体制を否定する意味を込めて国名を「コンゴ民主共和国」へ変更した。彼は人民革命党を率いていたころから、自分が大統領になったらこの名前にしようと決めていたのだという。
しかし、実際はこの国で民主主義によって選ばれた大統領など、初代大統領のカサブブ以外一人もいないのだ。独裁で世襲制の北朝鮮が「民主主義」と「共和国」を名乗るのに匹敵するバカらしさだ。


大統領となったカビラは欧米からの支援を受けて経済を立て直そうとしたが、東部を制圧した際にルワンダから逃げてきたフツ族難民を虐殺したことが仇となった。国連はこの虐殺に関する真相究明として調査団派遣を行おうとしたが、自分の悪行がバレてしまうのでカビラがこんなものに応じるわけがない。 調査団受け入れを拒否したことによって、経済支援も棚上げされてしまった。
ADFLは一党独裁体制を築いたうえにルワンダの傀儡色が強いため国民から総スカンを食らい、しかも経済を立て直すこともできない。「このままでは俺もモブツの二の舞になってしまう」と危機感を抱いたカビラはコンゴ人の歓心を買うべく勝負に出る。ルワンダ人の閣僚を更迭し、さらにルワンダ軍に対して「申し訳ないが出て行ってくれ」と言い出したのだ。

ルワンダは以前からカビラに対して不満を感じていた。武器や資金を援助してカビラが大統領になるのを手伝ってやったのに、カビラは大統領に就任するとルワンダの敵であるフツ族ゲリラに融和的な態度を取るようになったからだ。そのうえ、「もうお前らの協力は必要ないから出て行け」と言い出したのだ。これではルワンダも怒るに決まっている。
この裏切りに怒ったルワンダ軍は撤退すると見せかけてカビラの油断を誘い、そのあいだにADFL内のバニャムレンゲ人をはじめとするツチ族を味方につけて「コンゴ民主連合(RCD)」というゲリラを作り、1998年8月に彼らと共にコンゴ東部の都市ゴマを襲撃して占領した。それから1ヶ月も経たないうちに彼らはキンシャサを包囲し、カビラの天下は1年ちょっとで終わるかに見えた。


またカビラはルワンダのみならずアンゴラとウガンダとの関係も悪化させてしまった。
ウガンダとルワンダはこの件に関しては同じツチ族政権として共闘する場合が多く、ルワンダを敵に廻すと同時にウガンダも敵になってしまう。ルワンダが傀儡ゲリラRCDを作ったように、ウガンダも「コンゴ解放運動(MLC)」を作り、彼らを使ってコンゴ北東部を占領した。ちみなに、中央アフリカ政府もこのMLCに加担し、地下資源のお裾分けを貰おうと企んでいる。

アンゴラについては、ウガンダ&ルワンダとは少し事情が異なる。
アンゴラの共産ゲリラMPLAは1975年から始まった内戦に勝利し、1979年にジョゼ・エドゥアルド・ドスサントスを大統領とする共産主義政権を打ち立てた。しかし、敵対する親米派ゲリラUNITAにトドメを刺すまでには至らず、長年彼らの攻撃に悩まされてきた。モブツ政権は冷戦終結後もUNITAを援助し続けたためアンゴラ政府はモブツを激しく恨み、ADFLが結成されるとアンゴラはこれを支援した。ところが、カビラはフツ族ゲリラのみならず、UNITAに対しても融和的な態度を取った。これでは今まで支援してきた意味が無く、アンゴラが怒るのは当然のことだった。

カビラにしてみれば政権を取った以上、国内を安定させるためには今まで敵対してきた勢力との和解も必要だろう。ならばUDPSと組むべきだったのだ。こんなガタガタな状態で民主政治などしたら国が崩壊する、というのであれば独裁も仕方ないのかもしれないが、カビラにはそんなコンゴを引っ張っていけるだけの政治や外交に関するセンスは無かった。
こうして、「取れない資源は無い」というくらい豊富な地下資源を持ち、広大な領土と約6,000万近い人口を持つアフリカ有数の大国は、モプツというキチガイとカビラというアホのでたらめな政治によって世界最低クラスのダメ国家となり、ウガンダやルワンダのような貧乏小国の食い物にされることになった。
真面目に政治をしていればサウジアラビアのようになれたかもしれないのに・・・。(サウジはイスラム万歳野郎でまともな憲法も持たず、内閣も国会も存在しない独裁国家だが、オイルマネーできちんと国民を養っているし、あの地域では大きな影響力を持つ)



◆周辺諸国の食い物にされるコンゴ

周辺国から総スカンを食らったうえに、ルワンダ軍(とその手下ゲリラ)に首都を包囲されて絶体絶命のカビラ。ルワンダを裏切ったせいで寄り合い所帯のADFLなどとっくに崩壊しており、カビラの手元には包囲に耐えられるだけの戦力は無い。
すると、カビラはアンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、チャドに対し、「うちの鉱山の採掘権をあげるから助けてくれ」と援軍を頼んだ。すると、ダイヤモンド鉱山の採掘権という餌につられたチャドとナミビアが参戦を表明した。さらにアンゴラとジンバブエもカビラの要請を受諾した。この2ヶ国も石油やダイヤの採掘権を貰っているが、金に目がくらんだだけのチャド、ナミビアとは少し事情が異なる。

アンゴラは一度はカビラに見切りをつけ、「お前なんかルワンダ軍に殺されてしまえ!」と憤慨していたのだが、宿敵UNITAがルワンダ軍と合流する動きを見せたため再びカビラ支持に回った。UNITAがカビラ打倒に協力し、その後の新政権に参画することになれば厄介なことになる。
一方のジンバブエはコンゴとは国境を接していないし、特に目ぼしい利権や対立要因も無い。ジンバブエ大統領ロバート・ムガベは「カビラは私の古くからの盟友である」と言っているが、ムガベとカビラがどう繋がっているのかさっぱり見えない。ジンバブエも経済がズタズタなので金に目がくらんだのかもしれないし、アフリカ南部の盟主の座を巡ってライバル関係にある南アフリカがルワンダに武器を輸出していることから、コンゴを支援することで南アフリカを牽制しようとしたのかもしれない。ジンバブエのようなゴミ国家がアフリカ南部の盟主?と不思議に思う人もいるかもしれないが、かつてローデシアと名乗っていた頃、この国はアフリカ有数の農業大国でかなり裕福だったのだ。


とにかく、これら4ヶ国から援軍を得たカビラは反攻に転じ、首都陥落寸前の状態から西部と南部を奪い返すまで盛り返した。コンゴは政府軍・アンゴラ・ジンバブエ・ナミビア・チャド vs ルワンダ・ウガンダ・その手下のゲリラという内戦状態に陥り、激しい戦闘の舞台となった東部を中心にたった1年間で150万人が死亡した。
首都キンシャサですら電気や水道が止まり、日常の経済活動は完全に麻痺して一般市民は物々交換と自給自足の生活を強いられた。電気が止まっているのでテレビ・ラジオによる情報伝達も行われず、風評が飛び交って混乱が続いた。

コンゴに介入し続けたルワンダとウガンダは国際社会から猛烈な批判を浴びたが、それでも両国には撤退できない大きな事情があった。この両国はコンゴ領内の鉱山を不法占拠して大金を稼いでおり、ルワンダに至っては軍事費の50%をここから調達しているといわれている。余りに依存しすぎて退くに退けない状況となっていたのだ。また、カビラ政権を快く思わないアメリカがこの2ヶ国に資金などの援助を行っているという噂もある。

《Part12につづく》

21:46  |  コンゴ民主共和国/ザイール  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2007.03.21 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第37回:コンゴ民主共和国(Part10) - カビラとADFLの登場

前回の続きです。
ルワンダ内戦の影響を受けてモブツ政権が傾きだします。今まで真面目に政治してりゃ、こんなことにはならなかったのにねぇ・・・。


◆コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)の誕生

ここから話はザイールへ戻る。
ツチ族反政府ゲリラ「ルワンダ愛国戦線(RPF)」とウガンダ政府軍の侵攻によって国を追われたフツ族はザイール領へ逃げ込み、ザイール東部キヴ州の難民キャンプを拠点にしてルワンダへの反攻を開始した。当然、ルワンダ国軍(ツチ族政権)はそれを迎え撃ち蹴散らすが、トドメを刺そうと追いかけるとフツ族ゲリラはザイール領内に逃げ込んでしまう。ついこの間までは自分達がウガンダ領内からルワンダのフツ族政権に対して同じことをしていたわけだが、立場が逆転して今度は自分達がゲリラに悩まされるようになった。

そこで、ルワンダのカガメ副大統領は「おめーんとこの難民キャンプに隠れてるフツ族ゲリラが、オラんちの畑を荒らして困ってるべ。お願いだからあのバカどもを始末してけれ」とモブツに要求した。
ところが、モブツはこの要求を無視した。自分の権力基盤の維持に忙しいうえに前立腺癌を抱えていることが発覚し、それどころではなかったのだ。 しかも、モブツは同じ独裁者同士でウマが合ったのかハビャリマナとは親しかったので、そのハビャリマナ政権を倒したRPFを助けてやる義理など全く無かったのだ。


フツ族難民が逃げ込んだザイール東部は、バニャルワンダ人やバニャムレンゲ人というツチ族系の原住民が暮らす土地だった。彼らは市民権すら与えられず長年にわたってモブツ政権から迫害されていたうえに、雪崩れ込んできたフツ族難民に土地を奪われて憤慨していた。
そこでルワンダは彼らツチ族系先住民に武器を与え、ザイール領内に潜むフツ族ゲリラを一掃してもらおうと画策した。しかし、彼らが武装蜂起しただけではすぐにザイール国軍に始末されてしまううえに、ザイールに対する内政干渉として自分達が批判されかねないので、カガメは自分の知り合いであるローラン・カビラというゲリラの頭目を彼らに紹介し、反モブツで利害が一致する両者を組ませた。

カビラはバニャルワンダ人・バニャムレンゲ人の武装組織といくつかの反モブツ組織をまとめ上げ、1994年10月に「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)」という反政府武装組織を結成した。これによって、ADFLはツチ族やルワンダの手先ではなく、反モブツを掲げるコンゴ人全体のための組織という位置づけが可能となった。
ツチ族政権のウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、さらに反モブツを掲げるアンゴラから資金と武器を得たADFLは、装備は貧弱で士気も低いザイール国軍をあっという間に蹴散らし、1994年の末にはキヴ州を制圧してしまった。キヴ州で暴れていたフツ族難民は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、作戦が見事成功したルワンダ政府は大喜び。

この際、ルワンダ軍はADFL支援という名目でザイール領内に侵攻し、ADFLへの武器援助や資金供与の報酬として東部のダイヤモンド鉱山などを占拠した。すると、カガメの兄貴分であるウガンダ大統領ヨウェリ・ムセベニもそれを見て、俺にも金儲けさせろとばかりに「ザイール北東部を拠点とする反政府ゲリラが越境して我が国を攻撃している」という名目でザイールに侵攻し、ADFL内の親ウガンダ派を使ってザイール北東部の鉱山を占拠した。
鉱山占拠の見返りとしてウガンダ、ルワンダの両政府はカビラにガンガン武器を売りつけ、ADFLの戦力は一気に強化された。



◆反逆者ローラン・カビラ

カビラは自身はルワンダ人ではなく生粋のコンゴ人。バルバ族出身で1939年にカタンガ州で生まれている。若い頃にタンザニア(当時イギリスの委任統治領)のダルエスサラーム大学へ留学しているが、タンザニアといえば後にアフリカの共産主義者の先駆者的存在ジュリウス・ニエレレが大統領となった国。多分、カビラはこの頃に共産主義と出会い、感化されたのだろう。
コンゴへ戻ったカビラはルムンバの支持者となった。コンゴ動乱の際にモブツのクーデターに対抗してルムンバ派がスタンレーヴィルに立てた政権にも加わり、その後はピエール・ムレレ率いるシンバの一員となっている。ルムンバ派政権やシンバには共産主義者が多く、彼らは中国や北朝鮮から支援を受けていた。

シンバではそれなりの地位にいたようで、チェ・ゲバラがシンバの応援に行った際に書いた手記にも登場する。しかし、筋金入りの革命家ゲバラから見るとカビラなど偽者野郎にしか見えなかったようで、「タンザニアの高級ホテルでウイスキーをあおりながら声明を起草するだけ」とか「飲み食いばかりしていて戦う気が全くない。それでも、ソ連と中国が送ってくるから武器だけは持っている」とか「お山の大将になりたがる割に指導力がなく、すぐタンザニアへ帰ってしまう」とボロクソにこき下ろされている。

シンバ崩壊後は中国の支援を受けて「人民革命党」なるゲリラを作り東部のキヴ州などで細々と活動していたが、1988年にはザイール国軍の攻撃を受けて壊滅している。
カビラは金や象牙などを周辺諸国へ密輸して活動資金を調達していたといわれており、密輸ビジネスの過程で当時反政府ゲリラだったウガンダの現大統領ムセベニや、そのウガンダに潜伏中だったカガメなどと親交を深めたらしい。反政府ゲリラを率いているとはいえ前線に現われることは殆ど無く、ゲバラの証言どおりタンザニアやウガンダなどから指揮を執っていることが多かったようだ。多分、ゲリラ活動よりも密輸ビジネスやスポーツカーを乗り回すのに忙しかったのだろう。

ローラン・カビラ ポール・カガメ ヨウェリ・ムセベニ
モブツ政権を打倒し、コンゴを乗っ取ろうと企む三人
左からローラン・カビラ(ADFL議長)、ポール・カガメ(現ルワンダ大統領)、ヨウェリ・ムセベニ(ウガンダ大統領)



◆往生際の悪いモブツ vs 挑発するカビラ

ADFLが次の戦いに向けて準備をしている頃、モブツは何をしていたかというと、国連創立50周年記念式典で赤っ恥をかいていた。
式典は1995年10月に開催されたのだが、ザイール政府に招待状が届いたのはその10日前。明らかな嫌がらせである。しかも、アメリカ政府がビザ発給を許可した同行者の人数はたったの4人。某時代劇で有名な「越後のちりめん問屋の隠居じじい」の旅行よりもお供が少ないのだ。南太平洋やカリブ海のバナナ共和国の大統領じゃあるまいし、あまりに屈辱的な待遇だ。
それでも、モブツは対米関係を改善したい一心で式典に出席し、アメリカ政府や各国の要人に会談を申し込むが、フランス大統領ジャック・シラクを除きすべて断られるという惨憺たる結果となった。

1996年に入るとモブツがフランスで療養生活に入ったため、代わってケンゴ・ワ・ドンド首相が政治を主導した。
ケンゴ・ワ・ドンドはADFLやウガンダ、ルワンダに奪われたザイール東部を取り戻すべく、国連やアフリカ連合(AU:かつてのアフリカ統一機構)に「ウガンダ、ルワンダ、ブルンジがADFLを使って我が国の主権を侵害した」と訴えた。しかし、AUは「ADFLと話し合いをしてください」と言うばかりで問題を解決する力など無いし、国連でもアメリカが「モブツが居座る限りお前らのことは助けてやらん」という姿勢を貫いたため、話がさっぱりすすまない。

そんなザイールに唯一理解を示したのがフランス。フランスは冷戦終結後も暴動鎮圧に協力したり、モブツの癌の治療のために医者を紹介したりと何かとザイールの面倒を見てきた。そんなフランスが親仏だったハビャリマナ政権を倒したRPFやその子分のADFLを支持するわけがない。
フランスはモブツ独裁政権の延命は無理だとしても、ADFLによって崩壊させられるのだけは避けようと様々な外交努力を行い、カビラとの会談をセッティングした。しかし、モブツが「どうしてワシがあんな山賊野郎と会わねばならんのだ!」と拒否してパーになった。


1997年に入ると戦う準備が整ったADFLは侵攻を開始し、3月には東部最大の都市キサンガニ(かつてのスタンレーヴィル)が陥落した。キサンガニから首都キンシャサまでは相当距離があるとはいえ、当初から政府は「キサンガニが最終防衛ライン。絶対にここを死守する」と考えていただけに、そのショックは相当なものだった。この敗戦の責任を問われたケンゴ・ワ・ドンド首相が辞任する羽目となっている。
もはやADFLの勢いは止められず、モブツが大統領の座を退くのは時間の問題となった。ケンゴ・ワ・ドンドに八つ当たりしても状況は何も変わらない。これ以降はモブツか勝つかADFLが勝つかではなく、ポスト・モブツ体制の構築が争点となる。
4月には南アフリカ共和国大統領ネルソン・マンデラがカビラとの会談を準備するが、モブツはこれも拒否してしまった。カビラのほうは何も困らないので、「モブツが我々との会談を拒否する以上、ADFLはキンシャサ陥落まで戦闘を続ける」と気勢を上げた。

国連・AU・欧米諸国のいずれも、キンシャサが火の海となりカビラがモブツに代わって新たな独裁者となる、という状況だけは避けたかった。話し合いによって解決し、幅広い層からなる挙国一致体制を構築することを目指していた。アメリカなどはモブツにさっさと消えて欲しいと思っているので、クリントン政権は特使を送り、「財産と身の安全を保障してやるから、お前は引退しろ」とモブツに迫った。
アメリカにここまで言われてさすがに少し堪えたのか、モブツはカビラとの会談に応じることになった。モブツの意向を受けたマンデラがすかさず動き、再び会談をセッティングした。両者は5月に初の直接会談を果たしたが、強気なカビラはモブツに対して無条件降伏に等しい条件を突きつけたため、すぐに交渉は決裂してしまった。

そんなことをしてるあいだにADFLはキンシャサの200km手前まで迫っていた。冷戦終結によって既にアメリカからの援助を失い、これでモブツ政権まで倒れれば本当に孤立無援となってしまうアンゴラの反政府ゲリラUNITAが助っ人参戦したが、それでもADFLの勢いは止められず国軍は敗走した。

《Part11につづく》

13:01  |  コンゴ民主共和国/ザイール  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2007.03.18 (Sun)

【世界の香ばしき国々】第36回:コンゴ民主共和国(Part9) - ルワンダ内戦

前回の続きです。
もう、疲れました・・・。


◆やっぱり暴れだす馬鹿ども

やっと国民会議が開催されたというのに、それでもザイールでは騒動が続く。
1991年になると首都キンシャサを中心にネズミ講が流行り、酷いインフレに苦しんでいた多数の市民がこれに飛びついた。案の定、このネズミ講は半年後には破綻してしまい、突っ込んだ金が戻ってこないという悲劇が始まった。
1991年9月、怒り心頭の被害者はデモを行って抗議したが、これがやがて暴動に発展。最初はネズミ講を主宰していた連中の事務所や自宅を襲撃していただけだったが、やがてエスカレートして公共施設や病院まで襲いはじめた。当局は憲兵隊を送って暴徒の鎮圧を試みるが、憲兵隊の中にも多数のネズミ講被害者がおり、こいつらまで暴徒に加わって略奪を始める始末。

同時期に、給料をまともに貰えない国軍兵士がキンシャサで大規模な暴動を起こし、これがザイール全土に波及した。本来なら治安維持に当たる連中が暴れまわっているのだから誰も止められない。一般市民もこれに同調して略奪行為に加わると商店・倉庫・公共施設と手当たり次第に襲撃し、略奪と破壊を重ねたあげく、ついには外国人まで襲いはじめた。
国内各地で暴動が始まったのを見たモブツはDSPを送り込んで国軍の説得に当たるが、このDSPが説得どころか国軍と一緒になって略奪を始めてしまった。モブツに厚遇されて高い給料を貰っているDSPですらこのザマなのだ。この国の民度の低さには絶句する他ない。

結局、自力で事態を収拾できないモブツは再びフランスとベルギーに泣きついた。両国はただちに部隊を派遣し、治安回復と外国人救出作戦を行った。この暴動でザイールを脱出した外国人の数は約9,000人(うち日本人は100人程度)に及ぶと言われている。


フランス、ベルギーの働きによってひとまず暴動は治まったが、今度は反モブツを訴えるデモが頻発するようになった。するとモブツはDSPを差し向けてデモ隊を蹴散らしたうえに、この運動の中心にいたカソリック教会を襲撃し、神父達を殺害して教会を破壊するという暴挙に出た。
フランス、ベルギー、アメリカはカンカンに怒り、モブツ下ろし&新体制構築について共同歩調を取るようになる。1993年1月にはこの三国で「チセケディ首相がモブツ大統領から干渉されず、民主的で人権に配慮した政治ができるようになったら、援助を再開します」という声明を出している。要は、モブツに対して「お前はもう邪魔だから消えろ。お前が大統領に居座る限り援助はやらん」と宣言したということ。

同じ1993年1月、相変わらずまともに給料を貰えない国軍兵士が再び暴動を起こし、外国人達はまたもやフランス軍やベルギー軍の力を借りて外国に逃げ出す羽目となった。



◆モブツの反撃

モブツの独裁政治に陰りが見えると同時に民主化運動が始まり、それから10年近くが過ぎた。
1992年8月、国民会議は「移行期に関わる憲法規程条令」という、正式な新憲法が制定されるまでの暫定憲法をを採択し、チセケディを首相とする新体制について法的なお墨付きを与えた。新体制下では約450人の議員から成る「共和国高等評議会」が立法府(国会)として今後の民主化を担うこととなった。やっと、ザイールがまともな民主主義国となる兆しが見えてきた。

しかし、モブツがこのような動きを黙って見ているわけがない。モブツは自分の都合のよいように改訂した憲法規程条令を国民会議で採択させると、それに基づいてチセケディを罷免し、フォスタン・ビランドゥワを新首相に任命した。これによってザイールには「2つの議会、2つの政府」が存在するという事態が発生した。
法的に見れば、国民会議が暫定憲法を採択し、それに基づいて立法府とチセケディを首相とする内閣が組閣されている以上、国民会議はその役目を終えている。その国民会議で後から採択した改訂版の憲法規程条令を振りかざしてチセケディを罷免したところで、法律的な根拠は乏しい。当然、ビランドゥワ内閣を承認した国などひとつも無い。

レオン・ケンゴ・ワ・ドンド首相しかし、極悪モブツなら法的根拠など無視して力ずくでチセケディ内閣を叩き潰しかねない。そこで、事態を憂慮したベルギーが調停に乗り出す。
チセケディとUPDSは「我々には何ら落ち度が無いのに、どうしてモブツやその取り巻きに譲歩しなくてはならないのだ!」と調停案を拒否したが、モブツに切り崩された他の野党勢力が続々とこれに応じてしまい、1994年にレオン・ケンゴ・ワ・ドンドを首相とする新内閣が成立した。モブツにしてみれば、ベルギーの調停によって野党勢力が内部分裂を起こし、さらにそのいくつかを自陣営に取り込むことができたのだから、してやったりである。

ケンゴ・ワ・ドンドは過去にも首相や外相を務めたことがある大物で、財務に強い政治家だった。彼はIMFの指導の下で破綻同然の国家財政を立て直そうとするが、モブツに散々邪魔された末に議会から不信任を突きつけられ、1997年3月に辞任してしまった。



◆ルワンダ内戦

さて、ケンゴ・ワ・ドンド内閣が成立した1994年といえば、ザイールの東隣ルワンダの内戦がピークだった頃だ。これ以降のザイールを語るにはルワンダ内戦を抜きにすることはできない。話は暫しルワンダに飛ぶ。

ルワンダはザイールの東隣にある小国。面積は約26,000平方kmとザイールの1/90程度で、旧宗主国のベルギーよりも小さい。人口は約800万人で、90%が農耕民族のフツ族、10%が遊牧民族のツチ族という構成。人口密度は高いがこれといった産業は無く、国民の90%が農民と漁師という世界有数の貧乏国だ。


ルワンダにはもともとフツ族(農耕民族)が住んでいたが、15世紀にツチ族(遊牧民族)がやってきて「ルワンダ王国」を建国してフツ族を支配した。しかし、両者は同じ言語を話し、同じ宗教を信じ、人種間結婚もしており、はっきりとした民族的な違いは無い。遊牧民族と農耕民族の違いが貧富の差を生み階層を作っていたに過ぎず、それほど深刻な民族対立は無かったらしい。
17世紀に入るとルワンダはドイツの植民地となり、第一次世界大戦以降はベルギーの信託統治領となるのだが、ドイツもベルギーも植民地時代にツチ族の王政を支持して露骨に肩入れした他、植民地支配に対する目くらましとして「アーリア人の流れを汲むツチ族はヨーロッパ人に近い高貴な民族であるのに対し、フツ族はただの野蛮な未開人である」というプロパガンダを盛んに流し、両者の対立を煽った。

1962年に「ルワンダ共和国」として独立を果たした後も両者の小競り合いは続くが、1963年にツチ族が大量虐殺に遭って周辺国に逃亡したことと、1973年になるとジュヴェナル・ハビャリマナ国防大臣(フツ族)が軍事クーデターを起こして強力な一党独裁体制を確立したことから、ルワンダではしばらく小康状態が続く。ハビャリマナはフランスから様々な支援を得て長年に渡り独裁者としてルワンダに君臨した。
虐殺されたうえに国外へ追放されたツチ族の多くは北隣のウガンダに逃亡し、1987年に「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を結成した。そして1990年代入るとツチ族政権であるウガンダ政府の支援を受けて、RPFはルワンダに猛攻を仕掛けるようになった。


東西冷戦終結後の1993年、ハビャリマナは民主化を要求する国際世論とRPFの軍事的圧力に耐えられなくなり、ツチ族との和解と民主化を宣言した。しかし、これまで一党支配で利権を独占してきたフツ族支配層が納得するわけがなく、ハビャリマナはその翌年に暗殺と思われる飛行機事故で死亡してしまった。
独裁者ハビャリマナが死ぬと彼らはそれをRPFの仕業にすりかえ、政府軍と暴徒化したフツ族民兵組織が「ハビャリマナ大統領暗殺に対する報復」として、たった3ヶ月で80~100万人のツチ族(と虐殺に反対したフツ族穏健派)を虐殺するという事件を起こした。
本来なら事態収拾に動くべき国連や欧米先進国は、この少し前にソマリアで酷い目に遭っていたことから国連軍の派遣に消極的で、見て見ぬふりをした。

ポール・カガメところが、フツ族が虐殺に明け暮れてルワンダが集団ヒステリー状態に陥っていた1994年10月、北隣のウガンダが「ツチ族保護」を名目にRPFを支援して侵攻し、あっさりと全土を制圧してしまった。こうしてルワンダにはツチ族の政権が立てられた。
国内融和を意識してフツ族のパステール・ビジムングが大統領に就任したが、RPFのリーダーであるポール・カガメが副大臣兼国防相となり、事実上政権を掌握した。今度はフツ族が殺される番となり、復讐を恐れる多数のフツ族が周辺諸国へ難民となって流出した。ルワンダと国境を接するザイール東部のキヴ州にも120~170万人の難民が流れ込み、多くの難民キャンプがつくられた。

《Part10につづく》

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2007.03.15 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第35回:コンゴ民主共和国(Part8) - モブツに立ち向かう民主化勢力

前回の続きです。
冷戦が終わり、モブツ体制に揺らぎが。果たしてどうなる、ザイール?


◆民主化への圧力

戦争慣れした優秀な兵士が多かったFLNCが相手とはいえ、外国に助けてもらってやっと勝利したザイール。それによってザイールは欧米諸国の意見を無視できなくなり、民主化を要求する勧告に従わざるを得ない立場に追い込まれた。
そこでモブツは渋々ながらも自分の失政について認め、議会と裁判所に行政(大統領)を監査する権限を与えた。三権分立が徹底されているまともな国では当然の権限だが、当時のザイールはこの程度のことすら守られていなかった。案の定、国会議員たちは早速モブツ政権の不正を追及しはじめてしまい、怒ったモブツは「お前らなんかいつでも殺せる」と脅迫した末に再び権限を取り上げてしまった。

エツィエン・チセケディしかし、一旦始まった民主化の流れは止まらない。カサイ州出身で博士号を持つ法律学者エツィエン・チセケディを筆頭とする一部の国会議員はモブツに公開書簡を送りつけ、その政治をボロクソにこき下ろして独裁政治に立ち向かった。シャバ紛争以前にこんなことをすれば問答無用で処刑されているところだが、シャバ紛争によってモブツ政権の影響力が低下していたことに加え、チセケディは反モブツの筆頭格として欧米でも名を知られていたので、さすがのモブツも手荒なことはできなかった。
チセケディ達は1982年に「民主主義と社会進歩のための連合(UDPS)」という政党を作って民主化運動を開始した。しかし、憲法ではMPR以外の政党は認められていないので、当然UDPSは非合法団体として扱われ厳しく弾圧された。それでも、カソリック教会やまともに給料を貰えない下級公務員、失業者などがUDPSの活動に賛同し、モブツの独裁体制は徐々に揺らいでいく。


モブツは憲法の三選禁止規定を無視して1984年に大統領再選を果たしたが、1989年にベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終結してしまうと、これまでのように反共を掲げることで西側諸国(特にアメリカ)から手厚い援助を引き出して独裁体制を維持することは、もはや不可能となった。
さらにその数ヵ月後、個人的にも親交があったルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領がルーマニア革命によって失脚し、国外逃亡しようとしていたところを捕らえられた末に公開処刑されてしまった。親米と親ソという違いはあれど、モブツもチャウシェスクも冷戦構造の中で独裁を維持してきた男。チャウシェスクが処刑された様子をテレビで見たモブツは、自分の未来が垣間見えてショックを受けたのか、担当大臣を呼びつけて「こんなものを報道するとは何事か!」と激しく叱りつけたという。

このままでは自分もチャウシェスクと同じ運命を辿ることになると悟ったモブツは、1990年になると民主化を容認する姿勢を打ち出した。モブツは全国を行脚してタウン・ミーティングを開催し、国民の声を直接聞くキャンペーンを行った。しかし、そこで彼に寄せられたのは体制の否定や辞任要求ばかり。最初の頃は「よしよし、お前達が困っているのはよく分かった。ワシが何とかしよう」と寛大な大統領を演じていたモブツだったが、どこへ行っても自分の政治に対する批判ばかり聞かされてゲンナリしたのか、全国ツアーの最後に頃は冒頭に挨拶をするのみで、後は全て側近任せにしてしまったという。
しまいには手下であるはずの中央省庁の役人すらも、「自分の出身部族ばかりえこひいきするのは止めろ」とか「大統領(とその一族)は金遣いが荒すぎる」とか文句を言いはじめ、外務省にいたっては「あんた、このまま政権に居座ったらチャウシェスクみたいになるよ」という脅し文句入りの文書をモブツに叩きつけている。

さらに1990年3月にはアメリカ・ブッシュ(父)政権のジェイムズ・ベーカー国務長官と会談を行ったが、その席でベーカーから「冷戦も終わっちゃったし、議会が怒ってるから今までみたいな支援はもう無理ね。あ、それからいい加減に独裁政治は止めなさいよ」と三行半を叩きつけられてしまった。
パパ・ブッシュはCIA長官を務めたことがあり、モブツとはその頃から深い親交があった。そのパパ・ブッシュですらモブツを見捨てたのだ。モブツのショックはいかほどのものだったろうか。


◆ルブンバシ大学虐殺事件

しかし、モブツはこの程度でメゲるような可愛げのある男ではない。すぐに延命工作に取り掛かった。このまま恐怖政治を続けてはチャウシェスクの二の舞となってしまうので、モブツは政治的発言の自由を認め、MPR一党独裁を廃止して複数政党制を導入すること、そして三権分立を徹底することを確約した。
すると、社会が変わることを期待した国民は政治について活発に議論するようになり、新しい政党が次々と生まれた。

とにかくこの頃のザイール経済は酷かった。まあ、この国の経済は独立当初から酷かったが、まるで底なし沼にはまったかのごとく悪化していく一方だった。モブツのデタラメな政治と腐敗しきった体制のせいで1980年代半ばから深刻化していたインフレは、アメリカからの援助が止まると急激に悪化し、1992年には年率4,200%を記録するという信じられない事態となっていた。
鉱山事業の低迷で収入が減少しているのに、モブツは緊縮財政を敷くどころか、後に国民会議が始まると、その多数派工作のために湯水のごとく金を使ったため、2年後の1994年にはついに年率10,000%を超えてしまい、国民の怒りは頂点に達した。


予想以上の勢いで民主化(≒モブツ政権打倒)運動が盛り上がったのを見たモブツは、「こりゃヤバい」とすぐに引き締めに掛かった。モブツは、「お前らは何を勘違いしているんだ?ワシは確かに民主化を約束したが、それは新しい憲法が公布され、総選挙を行ってからの話だ。だから現時点ではMPR以外のいかなる政治団体も政治活動も許さん!」と先走りした国民に釘を刺し、これに抗議した市民(特に民主化運動の中心だった学生達)を激しく弾圧した。

特にルブンバシ大学への弾圧は凄まじく、DSPを送り込んで少なくとも50名以上(300名という説もある)の学生を殺害し、キャンパスをメチャクチャに破壊した。モブツは予めDSP隊員に証拠を残さないよう指示しており、DSPは死体をすべて綺麗に回収して立ち去ったという。しかも、大学の周囲を警備していた国軍兵士がDSPが去った後に構内に押し入り、散々荒らしまわったうえに金目のものをすべて略奪してしまった。
世界各国はこの事件を一斉に批難し、アメリカに続いてベルギー、フランスまでもがモブツ政権への援助を凍結や白紙にした。モブツは「外国人学生は被害に遭ってないのに、どうして外国に文句を言われなくちゃいけないのだ!」と逆ギレした。



◆モブツと戦う民主化勢力

さて、モブツが提案した民主化のロードマップは次のとおり。
① まず国民会議を開催し、その場で新しい憲法を制定する
② その憲法に基づいて総選挙を行い、新しい政権を発足させる

ところが、モブツは国民会議の開催をのらりくらりと引き延ばし、一向に実現する気配が無い。シビレを切らしたUDPSをはじめとする野党勢力が団結してモブツに圧力を掛けると、モブツは「国民会議?開催してもいいけど、あくまで話し合いの場でしかないからね。行政や司法がそこで決まったことを執行する義務は無いから。それはまた別の話だね」とトボけたことを言い始めた。
もちろん、野党勢力がこんな戯言を受け入れるはずがなく、一斉に反発を食らったモブツは1991年8月に渋々ながらも国民会議を開催した。

国民会議は企業や職業別団体の代表、各政党の党首や地方政府の高官、そして知識人など約2,800人の多彩な顔ぶれによって構成されていた。国民会議はモブツ体制の総括を行うと新体制の基本方針を固め、それを踏まえて新憲法の草案を作成した。モブツ体制を総括する過程で彼が過去に行った数々の悪行が次々と表沙汰になり、モブツの権威は完全に失墜した。
それでもモブツが大統領の座に留まれたのはDSPという強力な親衛隊がいたから。国内には有力な反政府ゲリラはいなかったし、国軍は衰弱してクーデターを起こす元気も無いのだ。


さて、国民会議で議論が行われているあいだモブツは何をしていたかというと、ひたすら宮殿に引きこもっていた。たとえ国民会議に出席したところで、過去に行った数々の悪行を追求されて袋叩きにされるわけで、それはモブツ本人が一番よく分かっていたに違いない。
しかし、自分の政治的生命が断たれるのをオメオメと待っているモブツではない。モブツは自分は他の政治団体よりも一段高いところに位置し、各団体が対立して収拾がつかなくなった際の調停役であることを宣言していたので、様々な方法(主にチセケディと敵対する勢力に金をバラまいて懐柔する)を用いて国民会議で進められていた議論を妨害した。国民会議が混乱に陥って収拾つかなくなり、「やはりモブツ大統領がいないと国が治まらない」と言ってもらえる状況を作り出すべく、様々な工作を行っていたわけだ。

国民会議の改革派は様々な妨害に苦しめられながらも首相の選任まで漕ぎ着け、UDPS党首のチセケディを首相に選出することに成功した。国内の様々な勢力が集まって開催した国民会議で選出されたわけで、モブツはチセケディの首相就任を認めざるを得なかった。

《Part 9につづく》

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