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2006.04.28 (Fri)

【世界の香ばしき国々】第13回:ニカラグア(Part5) - 内戦は終わっても、迷走は続く

前回の記事の続きです。
今回でニカラグア編は終了です。あ~、長かった。

◆ビオレータ・チャモロ政権の誕生と内戦の終結
アメリカにいじめ倒されて崩壊寸前のニカラグアと、そのニカラグアいじめの資金に関するスキャンダルでレーガン政権が吹っ飛びかねないピンチに陥ったアメリカ。周辺国が和平調停に乗り出す絶好のチャンスが訪れ、1987年の中米首脳会談においてコスタリカのアリアス大統領による提案を元に「エスキプラス2」と呼ばれる和平合意が成立した。
これを受けてサンディニスタ政権はコントラとの交渉を開始。同時期にアメリカでも議会の穏健派が巻き返してコントラ援助の予算案を否決し、アメリカからコントラへの援助はストップした。アメリカからの援助なしで1万人もの勢力を養えるはずもなく、コントラは和平交渉に応じざるを得なくなった。

しかし、金づるを失ったコントラ内部では内紛が起き、強硬派が実権を握る。1989年にアメリカ大統領に就任したジョージ・ブッシュはこれを利用して再びコントラ支援を企むが、するとソ連のゴルバチョフ書記長が中米からの撤退を示唆。ゴルバチョフが書記長に就任してからの東西冷戦の緩和を考えると、ここでソ連が手を引くと言っている以上、アメリカだけが一方的にニカラグアいじめを続けることもできない。
八方塞となったコントラは1989年11月に3,500人を投入してホンジュラスから最後の攻勢を仕掛けるが、90%以上の兵力を失い壊滅した。


ビオレータ・チャモロ元大統領翌1990年2月には国連の監視下でソモサ政権崩壊後2度目の大統領選挙が実施された。酷いインフレに苦しめられたものの、アメリカやコントラと戦い抜いてニカラグアの主権を守ったオルテガは集会に10万人を集めるなど、このときの選挙でも圧勝するものと思われていた。ところが蓋を開けてびっくり。反サンディニスタの野党統一勢力「国民野党連合(UNO)」が擁立した候補ビオレータ・チャモロが得票率51%で当選してしまったのだ。
アメリカが露骨にビオレータに肩入れしたとはいえ、この敗戦は予想外でさすがのオルテガもすっかり気落ちしてしまった。ソモサ政権打倒から10年、ついにサンディニスタ政権は野党へ転落した。

サンディニスタ政権の敗因は、ベルリンの壁崩壊や東欧諸国の民主化などによる共産主義の敗北にもあるが、それ以上にニカラグア国民は戦いに疲れていたことにある。サンディニスタ政権の掲げた理想は正しくとも、アメリカに睨まれては援助どころかコントラのような反体制派を使った嫌がらせを受け、挙句の果てに経済封鎖を食らってハイパー・インフレが発生する羽目になるのだ。この地域でアメリカを敵に回して生きていくのはほぼ不可能だ。キューバという例外はあるが・・・。

それでも、ビオレータが「この選挙には勝者も敗者もない。サンディニスタに投じられた4割の投票も大事にしたい」と挙国一致を呼びかけ、右派の反対とブッシュ政権がちらつかせる援助凍結にも怯まず、ダニエル・オルテガの弟ウンベルト・オルテガを人民軍司令官に留任させた。親米派のビオレータが当選するとアメリカはさっさとニカラグアから手を引き、コントラの武装解除も順調に進み、ニカラグア内戦はあっさりと終結した。しかし、ビオレータ政権にはコントラとの内戦で肥大化したサンディニスタ人民軍の縮小という問題があった。国内経済は破綻同然なうえに内戦も終わったことから、8万人規模にまで肥大化した兵員の削減は至上命題だった。
ソモサ政権の国家警備隊が崩壊した後、FSLNのゲリラ兵たちがそのままサンディニスタ人民軍という名の国軍となり、これまでニカラグアを守ってきた。当然それを掌握しているのはオルテガ兄弟。ここでオルテガ兄弟から軍を取り上げ強引に削減を進めては、今度はFSLNが反政府ゲリラとなりかねない。だからこそビオレータはウンベルトを留任させ、人民軍の規模縮小を託したわけだが、ウンベルトもこれによく応えて1万5千人まで削減した。


◆ビオレータの苦悩
人民軍の削減は成功したものの、それだけで破綻した経済を立て直せるほど甘くはない。ビオレータはIMFの指導に従い財政再建を進めるが、IMFのやり方は対象がどこの国であろうと変わらない。経済活動の自由化を推進し、その一方で政府は徹底した緊縮財政を組んで歳出をギリギリまで切り詰める。これによって民間主導で経済活性化を促すという手法なのだが、多くの例を見るにこれが必ずしも上手くいくとは限らない。ニカラグアでも、貿易自由化を促進したことによって外国から安くて質の良い製品が大量に流れ込み、多くの労働者が失業し、零細農家が破産した。
また緊縮財政を敷くことからビオレータは公務員の大幅削減にも迫られるのだが、FSLNは革命の立役者であり与党であったことから、当然政府内にはそのメンバーが多数いる。軍に続いて政府と自分たちの既得権を次々と崩されてはFSLNも黙ってはいない。役所の労働組合はゼネストを行い、激しく抵抗した。

しかも、ビオレータ政権の難題はこれだけではない。
元コントラなどの右派勢力はサンディニスタ革命後の農地改革によって取り上げられた土地の返還を要求するが、これには農民が猛反発。長年搾取され続けた末に革命によってやっと手に入れた大事な財産である。そう易々と譲り渡すことはできない。
元々コントラの一員であり右派を支持層とするビオレータは基本的には旧地主への土地返還に積極的なのだが、再び内戦を招く原因ともなりかねないデリケートな課題だけに次第にこの問題に腰が引けてしまい、今度は支持基盤であるUNOから吊るし上げられるようになった。
元々、UNOは反サンディニスタという共通点だけで繋がっていた烏合の衆のような側面があった。選挙に勝利して大統領を輩出したものの、ビオレータが自分たちの思い通りに動かないと見るや否や対立は激化し、それによって政権の求心力が低下すると、今度は失業者となった元コントラ兵士や元FSLN兵士たちが再武装し、それぞれ「レコントラ」「レコンパ」を結成して暴れはじめる事態となった。


窮地に陥ったビオレータはFSLNとの連立を決断しUNOは崩壊した。FSLNが再び与党となったことにアメリカは激怒。約束した援助の履行をすっぽかすという嫌がらせで報復した。
議会多数派のUNOとビオレータ政権の対立は激しくなる一方で、ついにはUNOが大統領権限を削減する憲法改正案を可決させ対立は決定的となった。以後、議会は重要案件をことごとく否決してビオレータを追い込み、まともに国家運営が行われなくなったニカラグアでは怒った労働者がストライキやデモを繰り返し、政情不安は進む一方となった。1992年には右派議員の一部が国会を占拠するという騒動も起きている。

当然、ビオレータはFSLNとの連携を強めていくのだが、一方のFSLNも政権の運営方針を巡ってオルテガと対立した一部の連中が離脱している。
しかし1993年、ビオレータは突如ウンベルトの更迭を宣言し、FSLNを敵に回すという大失態をやらかした。怒ったFSLNが党員を動員してデモを行わせると、ビオレータは警官隊を送ってこれを弾圧した。デモ隊と警官隊は激しく衝突し、死者が出る惨事となった。これを期にニカラグア全土が麻痺状態に陥り、ビオレータはグアテマラに一時的にではあるが逃亡する羽目となっている。
これ以降、ビオレータ政権は完全にレームダックと化し、政治に嫌気が差したビオレータは大統領の任期を終えると政界から引退してしまった。


◆元ソモサの部下が大統領に
アルノルド・アレマン前大統領1996年の大統領選は、ダニエル・オルテガと前マナグア市長のアルノルド・アレマンの対決となった。アレマンはタチートの元部下で元UNO右派から支持を受けていた。マナグア市長時代にはビオレータ=FSLN連立政権への反対を明確に打ち出し、「マナグア市は独自の警察組織を作る」と発言してオルテガを激怒させた過去を持つ。
FSLNは分裂を経て内訌の末にビオレータ政権を崩壊させていることから選挙で苦戦し、得票率51%でアレマンが当選してしまった。また同じく行われた国会議員選挙でもアレマン率いる中道右派連合「自由連合(AL)」が93議席中42議席を獲得し、第一党となった。

磐石の政権基盤を手に入れたアレマンは自分の支持層である保守派富裕層に対して露骨に利益誘導を行う政治を繰り返し、ニカラグア国民の貧富の差はますます拡大してしまった。ニカラグアは中南米諸国ではハイチに次ぐ貧乏国となり、失業率は60%に達する一方で10%の富裕層が全収入の35%を独占するという社会が生まれた。ちなみに、アレマン本人の資産もマナグア市長就任から1999年までの7年間のあいだに9倍に増加している。さすがタチートの元部下である。

本来なら野党としてこれを追求するはずのFSLNも利権を餌にアレマンに取り込まれ、挙句の果てにオルテガが長年にわたって義理の娘に性的虐待を加えていたというスキャンダルが発生し、アレマン政権の腐敗追及どころではなかった。FSLNはたびたびデモを行い、国会では乱闘騒ぎを起こすなどアレマン政権と激しく対立したが、実は裏ではグルとなっていたのだ。


◆腐敗と戦い、敗れ去ったボラーニョス政権
エンリケ・ボラーニョス大統領2001年の大統領選ではアレマン政権で副大統領を務めたエンリケ・ボラーニョスとオルテガの対決となった。憲法で大統領の再選が禁じられているため、アレマンはボラーニョスを傀儡として裏から政治を牛耳ることを企んだ。アメリカとアレマンの支援によってボラーニョスは得票率56%で当選したが、ところが大統領に就任した途端にアレマン政権の腐敗を追及しはじめた。

思わぬ裏切りよってアレマンは禁固20年の刑を食らって刑務所にぶちこまれたが、議会のアレマン派は選挙時にはボラーニョスを支援していただけに腹の虫が収まらない。野党はもちろん与党も敵に回してしまったアレマンは厳しい政権運営を強いられ、2005年にはマナグアの市バス料金の値上げをきっかけにボラーニョス退陣を要求する大規模なデモが起こり、ピンチを迎える。

この危機は交渉の末に何とか乗り切ったが、とにかく議会の80%がALとFSLNという政権と敵対する勢力によって占められているため、大胆な政策を打ち出すことが殆どままならない状況が続いている。いや、それどころか議会によって大統領権限を制限する法案を次々と通され、大統領の中央政府各省庁に対する影響力は著しく低下してしまった。ボラーニョスはアメリカやOASに助けを求め、FSLNの台頭を嫌うアメリカも議会に対して圧力を掛けているが、状況は殆ど変わっていない。
2006年11月には次期大統領選が予定されており、二大政党のALとFSLNは当然それぞれ候補を立てることが予想され、勝ち目の無いボラーニョスは有力な後継候補を立てることすらできず、このまま任期切れで退任して消え去ると思われる。


仮に次の選挙でFSLNが政権を取ったとしても、今さら共産主義社会の実現を掲げておかしなことをすることはあり得ないが、反米を掲げるキューバやベネズエラ、ボリビアなどと徒党を組まれるとアメリカにとっても厄介なことになる。何せ背後には中国がいる・・・といっても、中国が地下資源に乏しく何も無い最貧国ニカラグアに強烈に肩入れするとも思えないが。
アメリカに逆らえば経済的に締め上げられ、親米を掲げれば既得権益層の力が増して貧富の差が拡大する。ニカラグアの庶民はどこまでいっても救われない。

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2006.04.26 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第12回:ニカラグア(Part4) - コントラとの戦い

前回の記事の続きです。
ソモサ政権が崩壊したニカラグアですが、それでも平和は訪れません。今度はアメリカに敵視され、FSLNに不満を持つ右派との内戦となります。

◆現実主義路線を打ち出すも、挙国一致体制はすぐに崩壊
ソモサ一族の圧政に加え革命によってニカラグアはすっかり荒れ果ててしまった。反ソモサ大連合は臨時政権を作り早速国家再建に乗り出したが、タチートが金を持ち逃げしていたため国庫は空っぽだった。いや、空っぽどころかタチートはゲリラを倒すためにメチャクチャな借金をしており、新政府はいきなり16億ドル対外債務を抱えてスタートする羽目になった。
主要メンバーは援助要請のため各国を訪問し、日本にもペドロ・ホアキン・チャモロの未亡人ビオレータ・チャモロがやって来た。アメリカとも交渉を行い7,500万ドルの援助を得たが、アメリカが共産主義者FSLNのいる新政府に喜んで援助するわけがなく、同時にエルサルバドルのドゥアルテ政権への援助を開始してニカラグアを牽制している。当時のエルサルバドルはニカラグア革命が飛び火して、親米右派政権と左翼ゲリラ「ファラブント・マルティ民族解放戦線(FMLN)」による内戦に陥っていた。
また、新政府はタチートに対しても持ち逃げした金の返還を迫るが、タチートがそんなものに応じるわけがない。FSLNは報復として刺客を放ち、アメリカ経由でパラグアイへ亡命していたタチートを1980年に暗殺している。

さて、ソモサ打倒を果たした新政権のメンバー達はどのような国を目指すか協議に入った。
FSLNはキューバ革命の影響を受けて誕生した組織であり、当然キューバ型の共産主義国を目指している。しかし、ニカラグア革命はFSLNが単独で成し遂げたものではなく、民主解放同盟などの資本家や中産階級、さらには教会関係者も大きな役割を果たしており、当然新政府には様々な組織や階層の人間が参加している。
普通に考えれば、国家警備隊亡き後最大の武装勢力であるFSLNがプロレタリアート独裁を掲げて血の粛清を行ってもおかしくないのだが、彼らはそのようなことはしなかった。フォンセカ亡き後FSLNのリーダーとなったダニエル・オルテガは「第二のキューバを目指すのではなく、新しいニカラグアを作る」と宣言し、露骨に親ソ親キューバを掲げるようなことはせず、多くの人が受け入れられる現実的な路線を採ることとした。そのため、新政府の基本方針はかなり穏やかなものになった。
政治体制はマルクス主義にこだわらず複数政党制による多様性を認め、経済政策は市場経済を導入しつつも国有企業・国営化農場を中心とする社会主義的要素を織り込み、貧富の格差が拡大しないように配慮した。さらに外交方針は非同盟を基本とし、東西両陣営とも等しく付き合うこととした。当時のニカラグアが置かれていた状況を考えると妥当なものであり、現実に即した点であることは評価に値する。


新政府はこの方針を元にあらゆる分野でニカラグアの再建に取り組んだ。
金融機関やソモサ一族が保有していた企業を接収し国営企業とした。大規模な国営農場を建設するのみならず、農地改革を行い小作農たちに土地を分け与えた。その際にも有効利用されていない土地だけを国有化して配分するなど、大地主に対する配慮も欠かさなかった。医療費を無料にして貧しい人への医療を確保し、国民への教育も充実させて識字率を50%から90%以上まで向上させた。このように、資本主義と共産主義の長所を組み合わせることによって一定の実績を残した。
しかし、どの集団にも配慮するということは政策が中庸なものになりがちであり、誰もが妥協できる可能性がある一方で、同時に誰もが満足できず反発する可能性がある。ニカラグアでもそれが現実となり、農地改革を巡って地主層と小作農層で激しい対立が起こった。前述のとおり政府は地主にも配慮した温和な政策を打ち出したが対立は収まらず、これがきっかけとなって資本家を支持基盤とするビオレータやアルフォンソ・ロベロなどが政府を去った。

その後、FSLNは左派の諸政党とタッグを組んで多数派となり、自らがイニシアチブを取って政権運営を行うようになった。こうなると資本家や富農を支持基盤とする保守派は不満が溜まる一方で、次々と政府を去って行った。
また、東部のモスキート海岸に住む少数民族がFSLN支持派と反対派に分かれ、反対派はホンジュラスを拠点にゲリラ活動を行うようになった。この地域はかつてイギリスの保護領だったことから、住民はスペイン語ではなく英語を話すなど他のニカラグア人とはかなり異なっている。サンディニスタ政権もそれを踏まえて一定の自治権などを与えていたのだが、それは反対派にとって満足できるものではなかった。サンディニスタ政権は反対派の浸透を恐れ、少数民族を丸ごと移住させようとしたのだがかえって猛反発を生み、ゲリラに加わる者が後を絶たなくなった。


◆レーガン政権とコントラとの戦い
第40代アメリカ大統領ロナルド・レーガン1981年にアメリカ大統領に就任したロナルド・レーガンは前任者カーターの弱腰外交を批難し、「強いアメリカ」をスローガンに強気の外交政策を掲げた。カーターの人権外交はCIAを弱体化させ、結果としてイラン革命やテヘランのアメリカ大使館占拠事件などを許してしまったのだから、その反動から強硬派が台頭するのは当然だった。
当時は東西冷戦の真っ只中。アメリカは、高々と親ソ反米を掲げる「真っ赤」な共産主義国キューバはもちろん、穏やかな社会主義を指向する「赤風味」程度のニカラグアの存在すら許さない。宿敵FSLNはキューバとつながりのある共産主義者のうえに、その親分のオルテガはホモでロリコンなのだ。キリスト教右派のレーガンがこんな男を許すわけがない。

レーガン政権はエルサルバドルの内戦が簡単には収まりそうもないと知ると、「ソ連やキューバがニカラグアを通じてFMLNを支援している」という内容の報告書(エルサルバドル白書)をまとめ上げて援助を停止し、さらに1982年になると露骨にニカラグアを潰しをかかってきた。
しかし、アメリカはベトナム戦争で酷い目に遭っていることから正規軍の投入には消極的だった。そこで、ニカラグア国内で反政府活動を行っていたソモサ政権の残党や地主層などをかき集めて「コントラ(コントラ・レボルシオン=反革命軍)」を結成させ、彼らに豊富に武器を与えてゲリラ活動を行わせた。コントラにはチャモロ一族やロベロなど、かつてFSLNと共にソモサ政権と戦った人達も多く加わった。

再び内戦状態に突入したニカラグアでは、サンディニスタ政権が戦時下政策を次々と打ち出す。1982年には非常事態宣言を発動してマスコミへの統制を強め、翌年には徴兵制を導入した。コントラとの戦闘により軍事費は増大し、教育費や社会保障費は削減された。
コントラはアメリカから軍事援助を受けているだけあってゲリラにしては圧倒的な火力を有しており、これに対抗するためサンディニスタ政権は非同盟を原則とする外交方針をかなぐり捨ててソ連やキューバに接近していった。その甲斐あってコントラの猛攻を撃退したが、するとコントラは各地で破壊工作や要人の拉致・暗殺などを行うようになり、内戦は泥沼の様相を呈してきた。


しかし、これを見かねた周辺国(メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ)の首脳がパナマの保養地コンタドーラ島に集まり、ニカラグアを含む中央アメリカ諸国の紛争解決について話し合った。ちなみに、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラは内戦真っ最中であり、ホンジュラスはアメリカと共にコントラを支援する立場、コスタリカは中立の姿勢をとっていたことからこれ出席していない。また、ベリーズは当時グアテマラが領有権と独立の無効を主張していたため、出席というか招待されていない。
この4ヶ国は「コンタドーラ・グループ」と呼ばれ、「ラテンアメリカの問題はラテンアメリカで解決する」との方針を掲げてニカラグアに調停案を提示してきた。

当初、ニカラグア政府はこの提案に猛反発した。サンディニスタ政権にしてみれば、これは既得権を取り上げられたソモサ政権の残党と自らの意思で政権を去った保守派が吹っ掛けてきた喧嘩であり、キューバのように赤い旗を振ってアメリカを挑発したわけでもないのに、周辺国に「喧嘩両成敗である」などと言われて納得できるわけがない。
しかしコントラは最盛期には1万人を超えた大規模な武装組織であり、人口500万人程度の小国でこれを壊滅させるのは不可能であり自殺行為であった。サンディニスタ政権はやむなくこれを受け入れる声明を発表した。慌てたのはアメリカである。サンディニスタ政権とコントラが手打ちしてしまえば、アメリカが介入する余地が無くなるだけでなく、中央アメリカの覇権をコンタドーラ・グループなどに奪われかねない。アメリカはコントラに圧力を掛けて調停案を拒否させると、一層激しくニカラグアを締め上げにかかった。


◆絶対絶命のサンディニスタ政権
1983年、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がニカラグアを訪問したが、サンディニスタ政権に多数の教会関係者がいることに対して「聖職者は革命に参加してはいけない」と批判的な説教を行い、戦死者へ祈りを捧げることを拒否した。聖職者は政治はもちろん戦争への参加はご法度なのに、ニカラグアの教会関係者達は自ら銃を取ってソモサ政権と戦ったのだから、破門されたり叱られるのは当然である。しかもバチカンの宿敵である共産主義者FSLNと共に戦ったのだから。この後、ニカラグア大司教はアメリカとバチカンの圧力に負け、サンディニスタ政権に加わっている教会関係者を破門している。

こんな状況ではあったが、ニカラグアでは1984年にソモサ政権打倒後初の大統領選挙と議会選挙が行なわれた。国内が安定するまで選挙は無理という理由で延期されていたが、もはや革命から5年が経過し、民意を問う必要があった。コントラとの戦争で国内経済は疲弊し徴兵制の施行など国民の負担は増していたが、それでも貧困層はFSLNを支持し、得票数67%の圧勝でオルテガが大統領に当選、議会でも議席の2/3を獲得した。
オルテガ政権は革命直後に掲げた3つの基本方針を明記した新憲法を公布し、対立していた東部の少数民族とも和解を果たした。


名実共に民主政権が樹立されたニカラグアだが、それでもアメリカの嫌がらせ止まらない。経済援助の凍結はもちろん原油の供給停止など外交的圧力を掛け続けたうえに、CIAがコントラを使って高速道路や石油備蓄施設などを破壊している。さらに1985年には全面禁輸措置を行い、大混乱に陥ったニカラグアでは年300%を超えるインフレが発生した。1988年にはインフレは20,000%にも達し、通貨コルドバは紙クズと化した。
サンディニスタ政権は徹底した緊縮財政で対応するが、街には失業者が溢れ国民の不満は高まる一方。進退極まったオルテガはソ連を訪問してゴルバチョフ書記長から2億ドルの援助を引き出すことに成功するが、これによってアメリカ議会の穏健派まで敵に廻してしまった。
サンディニスタ政権は国連やハーグの国際司法裁判所にアメリカの暴挙を訴えたが全て無視され、しまいには国境付近での小競り合いが原因で中立だったコスタリカも反ニカラグアに転じてしまい、コントラは北のホンジュラスからのみならず南のコスタリカからも侵攻するようになった。

絶対絶命に陥ったサンディニスタ政権だったが、1986年にコスタリカでオスカル・アリアスが、グアテマラでビニシオ・セレソが大統領に就任すると風向きが変わってきた。一度はポシャったコンタドーラ・グループによる和平交渉だったが、アリアスやセレソの働きかけによって交渉が再開されることになった。セレソは国内では私服を肥やすことばかりしたなどと評判が悪いが中南米の和平には尽力したほか、アリアスも厳正中立と善隣外交を掲げてコスタリカ領内からコントラを追い出し始めた。


さらに、アメリカで「イラン・コントラゲート事件」と呼ばれる大スキャンダルが発生した。
その中身というのが、「アメリカはイランに武器を密輸して、その代金をコントラへの援助に充てている」というもの。当時はイラン・イラク戦争の真っ只中で、アメリカは親米だったパーレビ国王を追放してイスラム原理主義国と化したイランを倒すため、サダム・フセインのイラクに援助を行っていた。ところが、アメリカ議会でコントラ向けの援助予算が否決されたことにより金の工面に困った国家安全保障会議(NSC)が、よりによって敵国イランに武器を横流ししてその資金を稼いでいたというのだ。これが事実とあってはレーガンの首が飛んでもおかしくはない大スキャンダルだが、NSCの担当者が沈黙を保ったため真相は闇に葬られた。
しかし、これによってレーガン政権はアメリカ国内はもちろん国連総会でも散々突き上げられ、さらに国際司法裁判所でもアメリカの介入が国際法違反との判決が出てしまい、これまでのようなニカラグア潰しを続けることが不可能となった。

《Part5につづく》

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2006.04.24 (Mon)

【世界の香ばしき国々】第11回:ニカラグア(Part3) - サンディニスタ革命

前回の記事の続きです。
今回はソモサの息子たちの時代の話。香ばしさに拍車がかかります。

◆「名を捨てて実を取る」ルイスの処世術
パパ・ソモサの死後、長男で国会議長を務めていたルイス・ソモサが臨時大統領に就任した。翌年の大統領選挙では保守党が選挙をボイコットしたことから、ルイスは悠々と当選。ルイスは弟のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(愛称タチート)を国家警備隊長官に任命し、父が築いた独裁体制の維持に成功した。
パパ・ソモサが死んだ直後に、エミリアーノ・チャモロ亡き後その跡を継いだペドロ・ホアキン・チャモロやサンディーノ軍の生き残り達が挙兵するが、ソモサ政権が揺らぐことはなかった。

※パパ・ソモサも次男ソモサも「アナスタシオ・ソモサ」という名前で区別が付かないので、次男ソモサについては愛称の「タチート」という名前で標記します。

しかし、ニカラグア国民も政府の横暴にひたすら耐えていたわけではない。
1959年のキューバ革命は貧困に苦しむ中南米諸国の庶民に希望を与えた。フィデル・カストロやチェ・ゲバラ率いる反政府ゲリラが独裁政権を倒して共産主義政権を樹立したのだ。しかも、アメリカの喉元カリブ海で。

早速、ニカラグアでもこれに触発された10人の若者が第二のキューバ革命を目指して、1961年に打倒ソモサと共産主義国家建設を目標としたゲリラ組織を立ち上げた。その名も「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」。パパ・ソモサに殺されたかつて英雄サンディーノの名前が由来となっている。後にソモサ政権と死闘を繰り広げたFSLNも最初の頃は弱小で、しかも素人の集団。サンディーノ軍の生き残りを軍事教官に招いて戦闘のイロハから学ばなければならない有様だった。
リーダーのカルロス・フォンセカは1936年生まれでこのとき25歳。年は若いものの、10代の頃から反政府運動に加わって逮捕されたり、ソ連を訪問して各国の青年共産主義者が集まる大会に参加した経験を持つ。


1963年、ルイスは2期目の大統領選には出馬せず、長年パパ・ソモサの秘書を勤めたレネ・シックを支援して彼を当選させた。といっても、ルイスが権力欲の無い清廉潔白な人間なんてことは絶対無い。原因はアメリカの圧力である。
当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは「進歩のための同盟」という中南米諸国向けの援助プランを打ち出した。中南米諸国はどこも貧富の差が激しく、多数の貧民の中には共産主義を支持する人も多かった。そこでアメリカが莫大な経済・軍事援助を行うかわりに中南米諸国に政治・経済改革を迫り、その国の経済を安定させて共産化を防ぐというものだ。
アメリカは、これに従う国には多額の援助を与えるが、逆らう国にはCIAが容赦なくクーデターを仕掛けるという姿勢を徹底した。グアテマラのイディゴラス政権などは親米だったにも関わらず、これを無視したためクーデターに遭って1963年に崩壊している。

ニカラグアも形だけのインチキ選挙でソモサ親子が長年権力の座に居座って暴利を貪っているだけに、アメリカに睨まれる危険性があった。ルイスにしてみれば、大統領の座にこだわってアメリカに嫌がらせされるくらいなら、院政をひいて裏から政治を牛耳ればそれで済む話。大統領は盟友シックだし、国家警備隊長官は弟のタチートだ。「ニカラグアは独裁国家でありませんよ。ちきんとした選挙が行われている民主主義国家ですよ」とアピールしてアメリカから援助をがっぽり貰ったら、あとは身内で山分けすればいいのだ。


◆パパ以上の暴君タチート・ソモサ
ところが、タチートがこれに異を唱えた。こいつはパパ・ソモサの横暴に残虐性が加わったとんでもない男なので、ルイスの「名を捨てて実を取る」ようなやり方は生ぬるいと感じていた。
ルイスがアメリカの意向を受けて国民に少しだけ自由を与えると、国民はたちまち政府の、特に国家警備隊の横暴を糾弾し不正を暴き立てた。しかしその後の状況は一転した。口うるさいケネディが1963年に凶弾に倒れると、新大統領のリンドン・ジョンソンはベトナムに正規軍を投入しドミニカ共和国にも侵攻するなど、ケネディ時代とは一転して強行策を打ち出してきた。しかも、この年の夏からFSLNが武力闘争を開始している。

タチートにしてみれば「兄貴がケネディに遠慮して貧乏人どもに甘い顔をするからこんなことになるんだ!もうケネディはいないんだから、逆らう奴は締め上げたらいいじゃないか!」といったところで、憤懣やるかたない。さらに追い討ちを掛けるように今度はシックがタチートの反対を押し切り、反ソモサ運動の活動家を殺した国家警備隊の士官を逮捕して軍法会議に掛けてしまった。

これで完全にブチ切れたタチートは、1966年8月にシックが心臓麻痺で急死すると間髪置かずにクーデターを起こし、実権を掌握した。その後の大統領選ではルイスが病気で体調を崩していたことから、タチートが出馬して当選した。野党は統一候補を立てて対抗したものの、例によって不正のオンパレードのインチキ選挙なのでタチートが圧勝するのは当然だった。
タチートが当選すると6万人の市民が選挙不正に対する抗議デモを起こしたが、兄ルイスと違って逆らう者には容赦無いタチートは国家警備隊を差し向けてデモを鎮圧した。また、この数ヵ月後にルイスが病死しているが、タチートが毒殺したという説がある。詳しいことは謎だが、タチートならやりかねない。


1967年に入るとFSLNはそれなりにゲリラとしての体裁を整えられるになっていた。また、ソモサ政権と戦う組織が他に無かったことから、徐々に民衆からの支持を集めつつあった。しかし容赦無い男タチートがFSLNの存在など許すわけがない。重火器とヘリで武装した国家警備隊がFSLNの本拠地を襲撃し、散々に打ち破って壊滅させた。この戦いでFSLNは戦闘要員の半数を失い、生き残ったメンバーもフォンセカと共にキューバに落ち延びた者、グアテマラやコスタリカなどの周辺国へ逃げた者、国内に潜伏する者とバラバラになってしまった。

1971年には、憲法に再選禁止条項があることから自分の大統領再選は難しい判断したタチートは任期の1年延長を提案するが、国会はこれを拒否。すると、タチートは国会を解散させたうえに、憲法まで停止するという暴挙に出た。そして、かつてパパ・ソモサがやったように保守党に取引を持ちかけ、「クピア・クミ協定」と呼ばれる密約を結んで保守党と軍部とソモサ一族による集団指導体制を作り上げた。
翌1972年には首都マナグアでM6.3の大地震が発生し、2万人の死者が出た。本来なら復興支援に当たるべき国家警備隊が略奪行為に走り、各国から集まった約1,000万ドルの義援金は全てタチートが着服して、マナグアの街を瓦礫の山のまま野ざらしにした。
散々蓄財したのだから海外に逃げて遊んで暮らせばいいものを、権力欲に憑かれたタチートは地震の際に発した非常事態宣言を悪用し、どさくさにまぎれて大統領に復帰している。また、1974年には再選禁止条項の廃止に成功し、夢の終身大統領への道を作った。


◆内訌に悩むFSLN、アメリカに睨まれるソモサ政権
一方のFSLNは国内に潜伏するメンバーが次々と逮捕・殺害され、苦しい状況が続く。FSLNは活動の建て直しを迫られるが、その際の方向性を巡って内紛が起こり、GPP派・プロレタリア派・蜂起派の三派に分裂してしまった。分裂を回避すべく各派を説得していたリーダーのフォンセカが1976年に国家警備隊に暗殺されると、GPP派がプロレタリア派をFSLNから除名してしまい、これを期に三派は完全に決裂した。
こうなるとタチートは笑いが止まらない。あまりに激しく笑いすぎたせいか、1977年には心筋梗塞で死にそうになるが、「憎まれっ子世にはばかる」でしぶとく生き返った。

しかしこの年、ジミー・カーターはアメリカ大統領に就任すると、「人権外交」と呼ばれる政策を推進することに。長年ソモサ一族による暴虐の嵐が吹き荒れるニカラグアなどは「人権」という言葉から最も縁遠いだけに真っ先に目をつけられ、人権を尊重しないと援助を凍結するという警告を受けた。
ニカラグアはソモサ一族による圧政が続き、グアテマラやエルサルバドルではまるでオリンピックのように数年に一度の割合でクーデターが起きるなど、中央アメリカ諸国では何十年も酷い政治が続いて庶民の生活は一向に改善されなかった。こんなことがこのまま続けば、第二・第三のキューバ革命が中央アメリカで続発するかもしれない。そんなアメリカの危機感の現れだった。
しかし、馬鹿国にそんなアメリカの気持ちなど分かるはずもなく、同様の警告を受けたグアテマラやエルサルバドルなどは啖呵を切って自ら援助を拒否する始末。しかし、タチートにそこまでやる度胸はなく、大地震以来続いていた非常事態宣言を解除して野党の活動を許可するなど、若干の自由を国民に与えてアメリカに配慮した。

すると、やっぱり途端にあちこちからソモサ政権に対する怨嗟が吹き出してきた。
真っ先に動いたのがダニエル・オルテガ率いるFSLN蜂起派。オルテガは教会活動家と強いパイプを持っていたことから、カソリック教会とその信者の農民の支援を得て闘争を開始した。
一方、FSLNとはスタンスが異なるものの同じく反ソモサを掲げるペドロ・ホアキン・チャモロも「ニカラグア民主解放同盟」を結成し、自分が社主を務める新聞紙で反ソモサ・キャンペーンを張り国家警備隊の不正を連日取り上げた。その不正というのが、兵士から募った献血で集めた血液をアメリカに密売するというビジネス。この当時、国家警備隊はタチートの息子アナスタシオ・ソモサ・ポルトカレーリョ(愛称チグイン)に任されており、こいつが金儲けのためにこの商売を先導していた。ソモサ一族のキチガイぶりは代を重ねるごとに酷くなる一方で、3代目となるこのチグインはタチート以上に凶暴かつ残虐な男だった。趣味が赤ん坊殺しだというのだから、おおよそ人間とは思えない。

※孫ソモサも「アナスタシオ・ソモサ」という名前で区別が付かないので、孫ソモサについては愛称の「チグイン」という名前で標記します。


◆悪の帝国ソモサ政権崩壊
秘密を暴露されたチグインは怒り狂い、1978年1月にチャモロを暗殺した。しかし、これが国民の怒りに火をつけてしまった。
堪忍袋の緒が切れた国民はニカラグア各都市でストライキやデモを立て続けに起こし、ソモサ一族が経営する企業を焼き討ちにするなど、FSLNが期待していた市民蜂起がついに始まった。さらに、マナグア南方の街マサヤのモニンボ地区に至っては住民が国家警備隊を追い出すとバリケードを作って立てこもり、政府への反抗を開始した。FSLNも幹部を送って住民を支援するが、国家警備隊は重火器による砲撃と無差別空爆を行った末に市内へ突入し、住民約200人が死亡した。

リーダーのチャモロを殺された民主解放同盟は職業団体や教会組織とも連携して反政府拡大戦線(FAO)を結成し、2ヵ月後には殆ど全ての労働者と学生が企業や教会・学校を占拠してストライキやデモを繰り返した。
タチートは自分の任期が切れる1981年まで大統領を続けることを明言したが、ニカラグアはもはや内乱状態に陥っていた。普段は政治的発言を控えるはずのカソリックの大司教が「もう我慢ならん。ソモサは退陣せよ」と勧告し、神父が銃を取ってFSLNと共に戦い始めたのだから、ただごとではない。


1978年8月にはFSLNが警備の一瞬の隙を突いて国会宮殿(国会議事堂)の占拠に成功し、国家警備隊参謀長を殺害して国会議員と職員など2,000人を人質に立てこもった。
ソモサ一族の悪行三昧には周辺国も眉をひそめていただけに、こうなると見限るのも早い。FSLNを叩くためとはいえ、以前から国家警備隊に幾度も国境侵犯をされていたコスタリカはソモサ政権の承認を取り消した。パナマやコロンビアは反ソモサ勢力を支援する義勇軍を募り、パナマにいたっては現役の閣僚がその隊長を務めるほどの肩入れようだった。国連もOASもソモサ政権を批難する決議を行うに至っては、ついにアメリカはソモサを見限り、「ソモサ無きソモサ体制の維持」を模索するようになった。アメリカにしてみれば、共産主義者のFSLNに政権を取られるのは最悪のシナリオである。国家の体制はこのまま維持し、大統領の首を挿げ替えるだけで済ませたい。

1979年初頭にはようやくFSLN三派が統一された。FSLNはさらにFAOやその他諸勢力と大同団結し、ニカラグア国内の反ソモサ勢力の大連合が完成した。アメリカはFSLNが革命の主導権を握り始めたことに危機感を抱き、OASを通じて和平調停に乗り出すが、大統領のイスにしがみつくタチートはこれを一蹴してしまった。
そして5月、反ソモサ勢力は最終攻勢を仕掛けた。殆どの市民もゼネストでこれに同調し、ニカラグア全土で一斉蜂起した。ソモサの悪あがきは最後まで続き、国家警備隊による無差別爆撃などで4万人(当時のニカラグアの人口の約6%)が死亡した。しかしFSLNが首都マナグアを包囲した7月、孤立無援となったタチートはついにアメリカへ逃亡した。逃亡者が相次ぎ最後には1万人以下まで減った国家警備隊も無条件降伏し、約40年に及んだソモサ政権は崩壊した。
結局、ニカラグアはキューバの二の舞となり、アメリカが一番恐れていた事態が現実となった。せめて国家警備隊が残っていれば、気に入らない左翼政権ができても後でクーデターで引っくり返すことも可能だったが、もうそれすら不可能となった。

《Part4につづく》

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2006.04.22 (Sat)

【世界の香ばしき国々】第10回:ニカラグア(Part2) - ラテンアメリカの英雄と中央アメリカ最悪の独裁者

前回の記事の続きです。Part2は、サンディーノの登場からソモサ政権誕生まで。
このサンディーノっておっさん、写真を見るとメスチソの小男なんですが、カウボーイハットやガンベルトが似合っていて格好良いです。

◆ラテンアメリカの英雄サンディーノ
案の定、海兵隊が撤退した2ヵ月後には保守党のエミリアーノ・チャモロによるクーデターが発生。ニカラグアに親米で民主的な政権を作ろうとしたアメリカの努力は台無しになった。アメリカはすぐさまチャモロに強烈な圧力を掛けて辞任させ、両党が話し合いを行う場をお膳立てした。
ところが、メキシコ革命の影響を受けて民族意識に燃える自由党は「メキシコの支援を受けて、これを期にアメリカの傀儡という立場から脱却する」と気勢を上げ、アメリカの調停を拒否したうえに臨時政府(チャモロのクーデターに反発して作られたものであることから「護憲政府」と呼ばれる)を立ち上げた。
ニカラグアが内戦に突入することを恐れたアメリカは、メキシコに圧力を掛けて自由党への援助を止めさせると、1927年には再度ニカラグアに海兵隊を送り込み調停に応じるよう自由党を恫喝した。震え上がった自由党民兵組織の各指揮官はすぐさま武装解除を受け入れた。

しかし、そんな中でひとりだけ武装解除を拒否した指揮官がいた。それがアウグスト・セサール・サンディーノである。彼は若い頃はメキシコの油田で働いていた一介の労働者で、軍歴など無い。初期のサンディーノの部隊は銃すら満足に持っておらず、鉱山から盗み出したダイナマイトを使って戦っていたような連中なので、米軍は彼らを「ゲリラ」ではなく「山賊」と呼んでいた。当初はその程度にしか思われていなかったのである。

反米の闘士アウグスト・セサール・サンディーノサンディーノは自由党を離脱すると、アメリカの傀儡からの脱却を掲げて「ニカラグア国家主権防衛軍」を結成し、北部の山岳地帯に立てこもってゲリラ戦を展開した。サンディーノ軍は軍事拠点を持たず、食料や兵士は通りかがった農村で提供してもらい、兵器は海兵隊や他の民兵から奪ったものを使った。また、装備の貧弱さを逆手にとって機動力を生かした神出鬼没な戦術で米軍を苦しめるなど、後のベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の手法に通じるものがあった。

1920年代はちょうど中南米に共産主義が広まった時期で、サンディーノが支援を求めてメキシコのコミンテルンに接近すると、中南米各国は共産主義者達はアメリカに立ち向かうサンディーノを称えて様々な支援を行った。後にエルサルバドルで活躍するファラブント・マルティも義勇兵としてサンディーノ軍に参加している。しかしサンディーノ本人はただの反米主義者で共産主義者ではないうえに、「アメリカが撤退したら、自分は政治活動も武力闘争も止める」と表明するほど無欲な人物だった。


米軍はサンディーノ軍の徹底したゲリラ戦法に手を焼き、戦死者は増える一方だった。やがて1929年に世界恐慌が始まると、大国アメリカといえども中南米の小国にかまけている余裕は無くなり、ハイチやドミニカ共和国に続いてニカラグアからの撤退も模索するようになる。
一方のサンディーノもスターリンが独裁者と化し恐怖政治を行うのを見て幻滅し、共産主義勢力と距離を置くようになった。それによって支援元を失った彼はメキシコへ向かい、政府に調停と支援を依頼。横暴な大国アメリカと戦うラテンアメリカの英雄として市民から熱烈な歓迎をうけたものの、当時のメキシコは革命後の経済再建に失敗したうえに、世界恐慌の影響を受けて国内経済が壊滅寸前。このような状況でアメリカを敵にまわしてまでサンディーノを支援する余裕などあるはずもなく、それどころかのらりくらりと回答をごまかし続けて1年間ほど彼をメキシコに足止めする始末だった。

このように両者とも戦争の継続が困難な状況に陥ったことから、1932年から休戦協定締結に向けた交渉が始まった。
そもそもアメリカがニカラグアに介入した理由は、馬鹿なニカラグア人が内輪もめばかりして政情不安を招いたことにある。招いた・・・というか独立以来殆どの時期がそのような状態だった。アメリカの要求は決してハードルの高いものではない。親米で民主的な政権が安定した国家運営をしてくれればそれで十分だったのだ。にもかかわらず、中南米諸国の大半は内輪もめを繰り返してアメリカの気を揉ませてばかりいた。
そこで、アメリカはひっきりなしに続く両党の反乱やクーデターを防ぐため、国家警備隊(軍隊)の機能強化を提案した。これには、仮に反米主義者のサンディーノが大統領になったとしてもゲリラあがりの彼には軍とのパイプは何も無いことから、軍部さえ押さえておけばいつでもサンディーノなど失脚させられるという意味合いもある。
共産主義者と手を切り、メキシコにも冷たくあしらわれたサンディーノにはもはやこれを拒絶する力は無く、「とりあえず米軍は出て行ってくれるから」ということで協定案に合意した。


協定締結後の大統領選ではかつて護憲政府の大統領も務めた自由党のファン・パウティスタ・サカサが勝利した。注目の国家警備隊の長官にはアメリカのゴリ押しによって親米右派のアナスタシオ・ソモサが任命され、米軍は1933年にニカラグアから撤退した。サンディーノは当初の宣言どおり米軍が撤退すると武装解除に応じ、大統領選にも出馬せず地元のニカラグア北部に帰って共に戦ったゲリラ兵達と農場建設を始めた。

米軍撤退後、サカサ政権内ではやはり強力な軍部を擁するソモサの発言力が増し、大統領はただの飾りと化してしまった。ソモサは在ニカラグア米国大使を通じてアメリカと今後の体制について協議を行い、まずはサンディーノを殺して後顧の憂いを絶つことで合意した。今は政治活動と無縁とはいえ彼を信奉する国民は多く、何かあれば政権の強力な敵となる可能性があるからだ。
1934年2月、協定締結時の合意が政権側に次々と反故にされていたことから、サンディーノは首都マナグアでサカサと会談を行い抗議した。しかし、その帰路の途中ソモサの命を受けた国家警備隊によって拉致され、側近とともに射殺されて空き地に埋められた。享年38歳。


◆中央アメリカ史上最凶最悪の政権誕生
中央アメリカ史上最悪の独裁者アナスタシオ・ソモサ・ガルシアソモサはサンディーノを暗殺すると、すぐに彼の農場を襲撃して元ゲリラ兵士たちのみならずその妻子までことごとく殺害した。さらに自分の手下のファシスト団体「青シャツ団」を使って暴動を頻発させると戒厳令を発して議会を停止し、サカサを辞任に追い込んだ。そして、候補者は自分とその傀儡候補だけという茶番選挙を行い、1937年に自らが大統領に就任した。クーデターで実権を掌握することも可能だったが、そんなことをすればアメリカが騒ぐので、体裁を整えるためにこのような手法を採った。
これらは全て事前にアメリカに伺いを立てたうえで行われており、アメリカはソモサの横暴を黙認した。それどころか大統領フランクリン・ルーズベルトは「ソモサは売女の息子だが、しかし売女たる我々の息子だ」と言って彼をかばう発言までしている。当時のアメリカは世界恐慌で受けたダメージから立ち直るのに必死で、他国に軍隊を送る余裕などなかった。後の冷戦時代にアメリカは「悪党でもアカよりはマシ」と世界各地で親米派キチガイ政権を野放しにするが、その傾向はこのとき既に始まっていた。

ソモサは自分の権力の源である国家警備隊を忠実な猟犬・番犬にすべく、給料を一般兵で50%、将校で30%も引き上げて特権階級扱いにした。図に乗った国家警備隊は組織ぐるみで賭博・売春業者と癒着し暴利を貪ったがソモサはこれを見て見ぬふりをし、国家警備隊と青シャツ団を使って暴虐の限りを尽くした。
まずは憲法を改正して再選禁止条項を廃止し、一期当たりの任期を4年から6年に延長した。反対を唱えた人達は青シャツ団によって抹殺された。続いて、第二次世界大戦が勃発すると1941年に枢軸国に宣戦布告してアメリカに取り入り援助をせしめたうえに、ドイツ人入植者の資産を没収してそれを捨て値で一族や側近に売却した。もちろんソモサ本人も蓄財には余念が無く、1945年までに1億2,000万ドルの資産を獲得しニカラグア最大のコーヒー農園主に成り上がった。


第二次世界大戦末期から世界中で高まった反ファシズムの風潮を受け、中央アメリカでもエルサルバドルやグアテマラで独裁政権が崩壊した。ニカラグアでも反ソモサ運動が盛り上がり、1946年には首都マナグアで10万人規模の市民デモが発生した。頼みの綱のアメリカもソモサ政権が続くことに反対する意向を示したことから、ソモサはやむなく次期大統領選への立候補を断念した。
しかし、そんなことでめげるソモサではない。ソモサは独立自由党のレオナルド・アルゲージョを自分の傀儡として当選させ、院政を敷こうとした。元々、独立自由党はソモサが自分の支持者を集めて作った国家自由党から反ソモサ派がスピンアウトして作った政党なのだが、当局の圧力に屈服して「野党のふりをしたソモサの家来」と化していた。1947年に行われた大統領選では野党保守党が擁立した対立候補に票が集まったが、ソモサが票を操作してアルゲージョを大差で当選させ、自分は引き続き国家警備隊長官の座に居座ることに成功した。ここまではソモサの思い通りに進んでいた。

ところが、飼い犬だったはずのアルゲージョが大統領に就任した途端に突如噛み付いた。アルゲージョはソモサ派の閣僚や軍高官を次々と罷免し、反対派を登用しはじめた。当然ソモサはすぐにクーデターを起こしてアルゲージョを倒すのだが、そのときの理由が「アルゲージョ大統領は発狂したため」というのだから凄い。政敵を精神病扱いにして失脚させるという手法はソ連の得意技であり、反共のソモサがやるのはいかがなものか。
大統領を放逐したうえに、これに抗議した独立自由党の運動家を殺害したことから、周辺諸国もアメリカもことごとくクーデター後の新政権の承認を拒否。ソモサの計画は狂いはじめた。

しかし、ここで余計なことをする馬鹿のせいでソモサが息をふき返してしまった。保守党のチャモロが米軍撤退後の1925年に続き再びクーデターを企んで失敗したのだ。絶好の口実を得たソモサは反対派を一掃し、さらに権力を強化してしまった。
チャモロは国外に逃亡するが、1年半後に許されて帰国した。すると、ソモサはすかさずチャモロに「将軍の協定」と呼ばれる密約を持ちかけた。これは保守党に国会議席の1/3を自動的に与えるとともに、この当時飛躍的に発展していた綿花栽培に関する利権の一部をチャモロに与えるというものだ。本来なら帰国も叶わないのに、それどころかソモサはこんな良い条件を提示してきた。誘惑に負けたチャモロは国を売り飛ばし、保守党も「野党のふりをしたソモサの家来」へと転落した。
1951年にはソモサは大統領に復帰した。政治家も軍もソモサの犬と化し、もはや彼に逆らう者は誰もいなくなった。


一度は周辺国から総スカンを喰らったニカラグアだったが、東西冷戦が本格化してくるとアメリカも周辺国も反共を掲げるソモサ政権を承認せざるを得なくなった。ニカラグアはアメリカが音頭取りをした反共同盟「米州機構(OAS)」に加盟し、1954年にアメリカがグアテマラに軍事介入して左翼政権を転覆させた際にもこれに協力している。

数々の危機を乗り切り、国内でも体外的にも磐石の体制を築いたソモサだったが、1956年にあっけない最期を迎えた。遊説中に行われたパーティーで会場に忍び込んでいた共産主義者の青年に撃たれて死んでしまった。

《Part3につづく》

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2006.04.20 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第9回:ニカラグア(Part1) - 余計なことをしてアメリカから睨まれる

しばらく更新してませんでしたが、サボっていたわけではありません。
今回は結構な大作です。5回にわたって掲載します。

◆大国アメリカに翻弄される小国の悲哀
さて、今回取り上げるのはニカラグア。中央アメリカのほぼ真ん中に位置する小国だ。
にゃおんちゃんの場合、ニカラグアと聞いて思い浮かべるものといえば、1980年代後半に活躍したアメリカのスラッシュメタル・バンドSACRED RICHの名曲"Surf Nicaragua"やTHE CLASHが1980年にリリースした三枚組の大作「SANDINISTA!」といったところか。
SACRED RICHはともかく、「SANDINISTA!」のほうはタイトルどおりニカラグアの左翼ゲリラ「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」を応援するアルバムで、小学生のときは何も知らずに喜んで聞いていたが、中学生になってFSLNが共産ゲリラと知ったときの衝撃は尋常ではなかった。にゃおんちゃんは100%反共で「共産主義者は全て悪者」と思っていたので、愛するTHE CLASHが中南米の左翼バカゲリラを応援していると知って心穏やかでいられるわけがない。「いくら反体制を掲げるパンクといえども共産主義者に加担するとは何事だ!」と怒り、しばらくジョー・ストラマーを嫌いになったほどだった。

しかし、そんなにゃおんちゃんも今では大人になり、FSLNが生まれるきっかけとなったソモサ政権の悪逆非道ぶりを知ると、彼らが生まれた理由や目指していたものが少しは理解できるようになった。
FSLNは1961年にキューバ革命に影響された10人の若者によって結成されたが、その戦いは苦難の連続だった。ソモサ政権との戦いの中でその10人は次々と命を落としていき、しまいにはリーダーまで死んでしまい、その後は内紛を起こして分裂している。しかし、悪逆非道なソモサ政権に憤慨する多くの国民と団結し、ついにはこれを倒して新政府を樹立した。まるでFINAL FANTASYの世界である。w
「悪の帝国ソモサ政権と、それに立ち向かう10人の勇敢な若者」という設定で、誰かFSLNを主人公にしたRPGでも作ってくれないだろうか。まぁ、共産主義者なのが難点ですが・・・。


ニカラグア国旗革命を成就したFSLNだが、むやみに赤い旗を振り回してアメリカを刺激するようなことはしなかった。資本主義と社会主義の長所を組み合わせた穏やかな政策を打ち出し、挙国一致体制で国家再建や貧困撲滅に取り組む。しかし、キューバと深いつながりがあるFSLNの存在をアメリカが許すわけがない。

アメリカは様々な外交的圧力でニカラグアを締め上げ、さらにFSLNと敵対する勢力をかき集めて反FSLN連合「コントラ」の結成をお膳立てすると、これに湯水のごとく金や武器を与えてサンディニスタ政権を潰そうとした。
40年に及ぶソモサ一族の独裁政権を倒したのもつかの間、再び始まった内戦は長期に及んだが、1990年代初頭にソ連が崩壊し東西冷戦が終結。すると、アメリカからの援助が止まったコントラは武装解除に応じ、さらに同時期の総選挙で負けたFSLNが素直に政権を手放したことから、再びニカラグアに平和が訪れた。

ニカラグア位置図1990年に発足したチャモロ政権はアメリカをはじめとする西側諸国との関係を正常化し、年10,000%を超えるインフレが続いていたニカラグア経済の再建に成功したが、IMFが要求する緊縮財政と経済の自由化を推進した結果、貧富の差が拡大して議会との対立が激化した。

1997年に大統領に就任した右派のアルノルド・アレマンは元ソモサ一族の部下。アレマンは自由主義市場経済を一層推進し、さらに自分の支持層である保守派富裕層や身内に対する露骨な利益誘導政治を行った。そのため貧富の差はさらに拡大し、貧困層は教育も満足に受けられなくなるなど、サンディニスタ政権時代に行われた改革の成果は失われてしまった。というか、FSLN自身も利権をエサにアレマンに取り込まれる始末。

2002年に大統領に就任したエンリケ・ボラーニョスは、かつてサンディニスタ政権に逆らったため弾圧され、自身が経営していた会社を没収されたという可哀想な過去を持つ。ボラーニョスは汚職撲滅を掲げ、アレマン政権時代の腐敗を追及する姿勢を見せているが、議会では大統領支持派が少数であるため厳しい政権運営が続いている。
頻繁に大統領が変わっている印象を受けるが、それはこの国が「大統領任期は1期5年、連続再選禁止」という条項を憲法に定めているため。


面積は約13万k㎡(日本の1/3で北朝鮮やギリシャとほぼ同等)で、人口は約560万人。一人当たりのGDPは820$。もちろん中央アメリカ諸国ではぶっちぎりの最下位。メキシコは別格としても、コスタリカやパナマと比較しても1/5以下の所得水準なのだ。この地域でアメリカに逆らったときの代償は大きい。
工業化も進んでおらず、主な輸出産品はコーヒーや牛肉。ニカラグア産の農畜産物に対するブランドイメージなど聞いたこともないし、広大な国土を有する国が行う大規模経営の農畜産業にコストや生産量で勝てるわけがなく、これで稼げる外貨などたかが知れていると思われ。
ニカラグアの苦難は続く。


◆スペインからの独立と中央アメリカ連邦の崩壊
クリストファー・コロンブスによって発見される前のニカラグアの地にはアステカ、マヤ系のインディオが住み、ニカラオカリ(現在のリバス付近)を拠点にアステカ王国の南端基地として、南米のインカ帝国などとの交易を行っていた。
16世紀初頭にコロンブスがこの地を発見すると、スペインは周辺諸国と同様ニカラオカリを征服し、1525年にはニカラグア総督を設置した。スペイン人は奴隷貿易を始めたため原住民は40年後には絶滅寸前まで減少してしまったが、全く悪びれることもなく今度は大アンティル諸島(キューバやジャマイカなど)から奴隷を連れてきて金を掘りはじめた。といっても、ニカラグアで採れるのは砂金程度。資源に乏しく人口も少ない地域ということでグアテマラ総督領に編入されるなど、周辺地域のオマケのように扱われる時代がしばらく続いた。

それから約300年後、中南米への入植者達は18世紀後半から19世紀初頭に起こったアメリカ独立やフランス革命などの影響を受け、スペイン本国の影響から逃れて自分達で国家を運営したいと考えるようになった。
かくして中央アメリカ各地で独立機運が高まり、19世紀に入るとメキシコで独立戦争が始まった。1821年にメキシコが独立を達成するとニカラグア総督管区も独立を宣言し、1823年には周辺の4ヶ国(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカ)と共に、アメリカをモデルにした連邦国家「中央アメリカ連邦」を結成した。

ところが、1938年に連邦政府が財政難を理由に各州に関税をかけることを決議すると、ニカラグアはこれに反発し連邦から離脱、翌年には内乱で連邦そのものが崩壊してしまった。元は同じスペインの植民地だというのに、上手くいかないものである。
中央アメリカ連邦議会は、共和制と自由主義を標榜する「自由党」と王党派の流れを汲む「保守党」の二大政党によって運営されていたが両党の対立が酷く、それも連邦崩壊の一因となった。両党は各州に支部を持っていたことから、自由党と保守党はの対立は連邦崩壊後もこの5ヶ国それぞれで続こととなった。


◆セラヤ大統領の野望
アメリカ西部で金が産出されるようになると、アメリカ政府はそれを東部やヨーロッパへ船で運ぶために太平洋と大西洋を結ぶ運河を建することを計画した。地図を見ると分かるが、ニカラグア地峡は幅も狭いうえに途中に川や湖などがあることから、運河建設に適した地形となっている。結局、アメリカは後にパナマに運河を作ることを選択するが、当初はニカラグア地峡への運河建設も有力な案だった。
中央アメリカ連邦が崩壊すると、アメリカに加えてカリブ海に利権を持っていたイギリスがこれに目をつけて、ニカラグアへの影響力を確保しようと様々な工作を行った。ただでさえ自由党と保守党の対立があるところに、英米や近隣諸国がそれぞれの思惑で介入するものだから、ニカラグアでは何年も政情不安な時期が続いた。統一国家とはいっても、実際は両党がそれぞれ民兵組織を持ち、覇権を争っている状態だった。
両党の対立は激しくなる一方で、少しでも優位に立とうとした自由党は傭兵を雇い入れたりしていたのだが、1855年にはその傭兵が率いる部隊に国を丸ごと乗っ取られるという事件が発生した。何ともマヌケな話だが、このときばかりは自由党と保守党はもちろんその背後にいる周辺諸国も団結し、約1年を費やしてやっとの思いで傭兵部隊をニカラグアから追い出した。

ホセ・サントス・セラヤ大統領それから30年間は保守党政権が続いた。そもそも自由党が傭兵を雇い入れたのが動乱の発端なのだから、評判がガタ落ちになるのは当然である。
その30年の間にニカラグア経済はコーヒーやバナナの栽培で順調に発展し、これらの農園を経営する資本家や地主が大きな力を持つようになった。既得権とは無縁のところで成長したこれら新興資本家達は、スペイン植民地時代の封建主義色が残っている保守党よりもアメリカ型の自由主義を掲げる自由党を好み、1893年になると自由党所属のコーヒー農園主ホセ・サントス・セラヤが彼らの支持を受けて大統領となった。
セラヤはかなりの野心家で、順調な経済発展を基にニカラグアの近代化を推し進めたほか、当時イギリスの保護領だったモスキート海岸(現在のニカラグア東部カリブ海沿岸地域)を巡るアメリカとイギリスの権益対立に付け込み、アメリカとグルになってモスキート海岸からイギリスを追い出して、まんまとニカラグアに併合している。


だが、セラヤは親米派といえどもアメリカの子分で満足するような男ではなかった。彼はニカラグアを含む中央アメリカ諸国がそれぞれ分裂した小国のままではアメリカの搾取が続くと考え、「中央アメリカ共和国構想」を打ち出して周辺諸国の再統一を訴えた。しかし、各国が既得権や政治的対立からこれを無視すると、憤慨したセラヤは武力による統一を企む。
1907年にはホンジュラスがグアテマラの支援を受けてニカラグアへ侵攻してきたが、セラヤはこれを返り討ちにして、逆にホンジュラスに侵攻し全土を制圧した。勢いに乗ったニカラグア軍はそのままエルサルバドルにも侵攻するが、大敗北を喫して撤退する羽目になった。
こうなると、逆に上記の反ニカラグア3ヶ国が一致団結して侵攻してくる恐れがあるため、セラヤはアメリカに調停を依頼した。アメリカは親米派のセラヤの頼みゆえ調停を引き受けたが、同時に野心を剥き出しにして余計な騒ぎを起こした彼に対して不信感を抱くようになる。

それでもセラヤは懲りない。今度は自前でニカラグアに運河を建設することを計画し、ドイツやイギリス、日本などに出資を求めた。しかしアメリカにしてみれば、もうすぐパナマ運河が開通(1914年に開通)するのにニカラグアに運河を作る必要性など無いし、しかもそれがもし敵対する国の管理下に置かれたりしたら自国の安全保障は重大な危機に直面することになる。恩を仇で返されたアメリカはカンカンに怒り、セラヤ政権を潰すことに決めた。
1909年、アメリカにそそのかされた軍の一部と保守党が反乱を起こすと、アメリカも正規軍を投入してこれを支援した。周辺国は全て敵、国内では反乱が起こり、アメリカからも三行半を叩きつけられ、進退極まったセラヤはメキシコに亡命する羽目になった。


◆アメリカ海兵隊駐留時代
中南米やカリブ海は、今も昔もアメリカの庭。当時のアメリカはモンロー主義を掲げ他の大陸での争いごとに一切関与しないかわりに、この地域に他の列強が影響力を及ぼそうとしたり、自分の言うことを聞かない国が存在することを絶対に許さなかった。当時、既にハイチやドミニカ共和国が米軍の侵攻・駐留を受けていたほか、この基本方針は第二次世界大戦後も一切変わらず、ハイチやグレナダなどがアメリカに逆らってお仕置きされている。
唯一の例外はキューバだろうか。1959年のキューバ革命以来、あの場所で反米を掲げて約半世紀。今まで生き残っているのは奇跡に等しい。

アメリカはニカラグアに親米傀儡政権を立て、さらに海兵隊を駐留させて厳重に監視した。また、1914年には300万ドルでニカラグアから運河掘削権を買い上げる協定(チャモロ=ブライアン協定)を結び、二度とニカラグアが勝手に運河を作ることができないようにした。「運河を作りたい」からではなく、「運河を勝手に作って欲しくない」から採掘権を買い上げたという、世にも珍しい協定だ。
こうしてニカラグアは事実上アメリカの管理下におかれることになったが、保守党と自由党の対立は一向に収まる気配が無い。両党とも選挙違反や不正は当たり前。そんな調子だから選挙結果を尊重する気など皆無で、負けたほうは必ず反乱の準備をするし、勝ったほうは必ずアメリカに泣きついて支援を求める有り様だった。

1918年に第一次世界大戦が終結すると、世界各地で反帝国主義の風潮が高まった。当然アメリカでも米軍が外国に駐留することに反対する声が高まり、さらに海兵隊の駐留自体も相当長期間に及んでいたことから、1924年の大統領選を見届けるとアメリカ政府はニカラグアからの撤退を決めた。
実際にはこの選挙でも政権側は投票日当日に戒厳令を敷いて野党候補者を外出禁止にしたり、選挙責任者を暗殺したりとロクでもないことをやらかしているのだが、アメリカはニカラグア国民の民度の低さに呆れ果てて早く撤退したい一心なので、選挙については何も言わず黙って撤退を進めた。

《Part2につづく》

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