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2006.02.13 (Mon)

【世界の香ばしき国々】第3回:カンボジア(Part2) - 泥沼の内戦の果て

前回の記事の続きです。

◆ベトナム軍侵攻
1978年、ポル・ポトは何を思ったのか、ベトナム領であるメコン・デルタ(ベトナム南部、メコン川河口にあるデルタ地帯)への侵入を繰り返してベトナムを激怒させ、両国の国交は断絶した。
クメール・ルージュはリーダーであるポル・ポトが毛沢東を信奉しているだけあって中国と仲がよく、一方、ベトナムはホー・チ・ミン以来のソ連びいきで、ベトナム戦争でもソ連から武器や資金の供与を受けている。そして中国とソ連は同じ共産主義陣営にも関わらず、スターリン批判や領土問題などで対立していた。当然、その両者の子分であるカンボジアとベトナムも仲が悪い。特にクメール・ルージュはベトナムと関係が深かったシアヌークを幽閉して政権から追放しているだけになおさらである。

1978年、度重なるポル・ポトの悪さに耐えかねたベトナムは、クーデターに失敗してベトナムに亡命していた元クメール・ルージュの軍人ヘン・サムリンを担ぎ上げてカンボジアに侵攻した。カンボジアの民衆は、クメール・ルージュ政権のあまりの酷さに「ベトナム人に支配されることになっても、クメール・ルージュよりはマシだ」と、各地でベトナム軍を支援したという。
アメリカやフランスを敗退させるほど屈強なベトナム軍と、無力な一般市民相手には無敵でも外国との戦争には勝ったことがないうえに、民衆まで敵にまわしたカンボジア軍とではまともな戦争にならず、クメール・ルージュ政権はあっという間に崩壊。
翌79年にはヘン・サムリンによるベトナムの傀儡政権「カンボジア人民共和国」が樹立。しかし、ベトナム軍はカンボジア西部のタイ国境に近いジャングルに逃げ込んだポル・ポトを捉えられず、以後ゲリラ化したポル・ポト派との内戦の泥沼に陥った。また、ベトナムの仕打ちに怒った中国が「よくも俺様の子分に手を出したな」とベトナムに侵攻するが、戦争慣れしたベトナム軍に歯が立たずわずか1ヶ月で撤退している。何やってんだ、中国。

ちなみに、幽閉されていたシアヌークは、クメール・ルージュ政権崩壊直前にポル・ポトから「国連に行ってベトナムの非道さを国際社会に訴えてこい」という指令を受け、中国への出国に成功している。


◆内戦は続く
ベトナムの属国となったカンボジアだが、戦火は止まない。こともあろうに、アメリカがベトナム憎しのあまりポル・ポト派に援助を始めたのだ。「たとえ毛沢東の出来損ないみたいなキチガイでも、ベトナムやソ連の支援を受けるヘン・サムリンよりはマシ」ということなのか。
中国・アメリカ・タイからの支援とジャングルでのダイヤモンドや材木の密輸で金を得たポル・ポト派は息を吹き返し、1982年になるとこれにシアヌーク国王派や、ソン・サン(シアヌーク政権時代の首相)率いる共和派が加わり、反ベトナム3派の連合政府「民主カンボジア」を樹立して、ヘン・サムリン政権に対抗した。
ここまで来ると、理念も主義もあったものではない。ただの足の引っ張り合いである。

周辺国やASEANの度重なる調停も実を結ばず、ベトナムはカンボジアに介入し続け、1985年には反ベトナム3派に大攻勢をかけ、殆ど壊滅にまで追い込んでいる。
ところが、1986年になるとベトナムでレ・ドゥアン書記長が死去し、新たにチュオン・チンが書記長となった。チュオン・チンはソ連のペレストロイカに倣い、それまでの硬直した社会主義体制からの脱皮を目差して「ドイモイ(刷新)政策」を打ち出し、改革開放と国際協調路線へと舵を切った。このような政策を打ち出すからには諸外国と良好な関係の構築は必須であることから、ベトナムはカンボジアからの撤退を決め、1989年には撤退を完了した。
結果、ベトナムからの軍事的支援を失ったヘン・サムリン政権(当時は既にフン・センが首相になっていた)は急激に弱体化し、勝者が誰もいなくなったカンボジアは国際社会によって和平へ導かれることとなる。

各派とも長年続く内戦でヘロヘロ、国民もうんざり、という状況だっただけに、こうなると動き出すのは早い。旧宗主国のフランスと日本が主導となって和平工作を行い、'90年に「カンボジア和平東京会議」を、翌'91年には「カンボジア和平パリ国際会議」を開催。各派は和平に合意し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
国連による暫定統治を経て、93年に実施された総選挙では王党派であるフンシンペック党が僅差で勝利した。国名は「カンボジア王国」となり、新憲法には立憲君主制を採ることが明記され、シアヌークが再び王位に就いた。また、ラナリット第一首相(シアヌークの息子で当然ながら王党派)、フン・セン第二首相(人民党:旧ヘン・サムリン政権の首相)の2人首相制連立政権ということで注目された。
しかし、一度は和平に合意していたポル・ポト派は、選挙で勝てないと見るやいなや投票をボイコットし、戦闘を再開する。


◆ラナリットvsフン・セン
国際社会が見ている中で一度結んだ和平協定を反故にすることが許されるはずもない。東西冷戦は終結し、米ソはもちろん中国にとってもポル・ポトなどもはや用無しの存在である。改革開放路線で外国からの投資が必要となった中国が、国際社会からヒンシュクを買ってまでカンボジアのチンピラ相手に援助する理由は何も無い。世界を敵にまわしたポル・ポト派は孤立し、'94年には非合法組織に認定され、さらに'96年にはNo.2のイエン・サリが政府に寝返ってしまい、ついに崩壊する。

一方、政権内部のほうも一枚岩ではなく、キナ臭い事件が続く。
総選挙で負けたフン・セン派は、ラナリット派を脅したり持ち上げたりとあの手この手を使って政権内に引き入れ、連立政権を組んだ。その結果が第一首相ラナリット、第二首相フン・セン、という2人首相制である。

ところが、'98年の総選挙が近くなると、ラナリット派はクメール・ルージュに接近し、自派に取り込もうとした。当然フン・セン派も同じことをする。両者の緊張は日増しに高まり、'97年にプノンペン市内でラナリット支持派とフン・セン支持派の民兵による武力衝突が発生。戦車なども出た大規模な衝突で100人以上が死傷した。今まで軍を掌握していたフン・センが、ゲリラ上がりのラナリットに負けるはずもなく、敗れたラナリットはパリに亡命する羽目に。
当然ながら、国連や欧米諸国は強く反発して援助が停止になった他、目前に迫っていたASEAN加入がこれで一旦パーになった。(それでも'99年に無事加入)諸外国からの援助無しでは生きていけないカンボジアだけに、シアヌークの仲裁もあって、フン・センはしぶしぶラナリットの復帰を認めた。

'98年には首相フン・セン、議長ラナリットという体制になり、2003年の総選挙を経て、現在までこの体制が続いている。経済成長率も5~7%と安定しており、カンボジアは復興への道を着々と進めている。また、2004年にはシアヌーク国王が引退し、息子のシハモニが新国王に即位している。


◆ポル・ポトを殺したのは誰だ
'98年の軍事衝突後ラナリットがパリに逃げていた間、フン・センは次の選挙に備えてクメール・ルージュ幹部を激しく切り崩し、ついには内部から「政府と交渉して生き残りを図ろう」と主張し始める者まで現われるようになった。こうした動きにポル・ポトは危機感を覚え、政府との交渉を主張する一派を全員処刑してしまった。しかし、さすがにこれは組織内からの激しい反発を招き、古参の幹部タ・モクが起こしたクーデターでポル・ポトは失脚し、軟禁状態に置かれた。 そして'98年、ついにポル・ポトは死ぬ。表向きには心臓発作と報じられているが、爪の色が変色していたことから毒殺か服毒自殺したもの見られている。
その後のクメール・ルージュは政府へ寝返る者が後を絶たず、最後には'99年にタ・モクが逮捕されて完全消滅した。

近年、大量虐殺やひどい人権侵害などを犯した元権力者達が国際法廷で裁かれるケース(ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領やカンバンダ元ルワンダ首相など)が増えている。当然、ポル・ポトも生きていればこの対象となっただろう。そうなれば、かつて彼と共闘していたシアヌークを始めとする王党派はもちろん、幹部の多くが元クメール・ルージュ党員という経歴を持つフン・セン派にとって何を暴露されるか分かったものではない。ポル・ポトの突然死には何が隠されているのか。
ちなみに、イエン・サリやキュー・サムファンといった古参の幹部は今でも生きており、穏やかな余生を過ごしている。何故、貴様らのような鬼畜が裁かれぬだ。

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テーマ : カンボジア - ジャンル : 海外情報

18:23  |  カンボジア  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006.02.11 (Sat)

【世界の香ばしき国々】第2回:カンボジア(Part1) - 狂気の原始共産主義国

前回書いたジンバブエ編、友達に見てもらったところ「よくまとまっている」とお褒めの言葉をいただきまして。気をよくしたオイラは調子に乗ってすぐに次作に取り掛かりました。というわけで、第2回はカンボジア。
別に最近カンボジア人と話をしたわけじゃないですよ。またアフリカの訳の分からん国を取り上げるのもナニだと思いまして、アジアの香ばしい国を取り上げてみました。

◆カンボジアといえば?
カンボジアといえば、かぼちゃの語源となっていることや世界遺産にも登録されたアンコールワ
カンボジア国旗ットなどで有名だが、ここ40年ほどのこの国の歴史はまさに血塗られたものであった。東南アジア随一の親米国タイとソ連の支援を受けた共産主義国家ベトナムに挟まれたこの国は米ソの代理戦争の戦場と化し、さらにこれに中国も加わり、ロン・ノル派(親米)、ヘン・サムリン派(親ベトナム、ソ連)、シアヌーク国王及びポル・ポト派(親中国)の三派が約20年に及ぶ内戦を繰り広げた。

カンボジア位置図1991年に和平調停が行われ内戦が終了するまでに国民の半分近い延べ300万人近くが死亡し、国内のインフラはズタズタになった。メコン川によって作られた肥沃な土地を有する国にも関わらず、アフガニスタン以下のアジアの最貧国に転落した。
侵略者であるソ連軍と戦ったアフガニスタンのゲリラ達と異なり、カンボジアは同族同士で20年間も殺し合いを続けたのだから、そのダメさ加減は近隣諸国の追随を許さない。本来であれば、周辺の大国に翻弄されないよう一致団結しなければならないのに、この国はソ連が崩壊する'91年まで凄惨な殺し合いを続けていたのである。民族も宗教もほぼ単一なのに、お前らは何をしていたんだ。

面積は18.1万k㎡(日本の約1/2)、人口は1,350万人(2003年)、一人当たりGDPは317$(2005年)。アジアでも最下位クラスの見事な最貧国である・・・。


◆カンボジア独立とシアヌーク国王
かの有名な遺跡アンコールワットが建設された12世紀頃のカンボジア(当時はアンコール王朝)は近隣諸国でも有数の強国であった。しかし、15世紀をピークに衰退の一途を辿り、次第に東隣のベトナムや西隣のシャム(現在のタイ)から侵略されるようになる。19世紀になるとフランスによるインドシナ半島の植民地化が始まり、1887年にはベトナムと共にフランス領インドシナに編入され、完全に植民地と化す。

ノドロム・シアヌーク国王フランス人に奴隷のように扱われること約50年、1940年に日本軍がインドシナに侵攻したことに乗じてノドロム・シアヌーク王(フランスの植民地ではあったが、一応王室は存在していた)はカンボジアの独立を宣言した。しかし、1945年に日本が敗戦すると再びフランスによって制圧され、独立は無効とされてしまった。

再び植民地にすべく戻ってきた白人と戦い独立を勝ち取ったインドネシアやベトナムと比べると、なんてヘタレなのだろうかと嘆きたくなるところだが、カンボジアにはスカルノもホー・チ・ミンもいなかったのだから仕方ない。シアヌーク国王は彼らのような武力闘争を行うかわりにアメリカを始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの独立を国際世論に訴える戦法に出た。これに同調して国内でも独立運動が盛り上がり、'53年に「カンボジア王国」として独立を達成した。


巧みな外交手腕によりカンボジアを独立に導いたシアヌークは「独立の父」として国民の尊敬を集めるのだが、すぐに実父スラマリットに国王の座を譲って、あっさり退位してしまった。国王であることよりも政治家であることを選んだ彼は、立憲君主国であるがゆえに行動が制限される国王の座を捨て、国民からの圧倒的な支持を得て首相に就任した。
多少独裁の色は濃かったものの、隣国ベトナムやラオスが戦火に巻き込まれる中でもカンボジアは中立を守り続け、東西両陣営から援助を引き出すなど、以後10年ほどは安定した国家運営が続けられる。

しかし、'60年代半ばになると政界では左派と右派の対立が絶えず、シアヌークは左派を弾圧したためポル・ポトなど左派の指導者はジャングルに逃れ、武力闘争に走ることとなった。
また、'65年から始まったベトナム戦争に対してカンボジアは中立の態度を取っていたが、実際には南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)がカンボジア国内を通過して北から南の最前線へ兵士や物資を輸送するルート(通称:ホー・チ・ミン・ルート)を構築するのを黙認していた。アメリカはカンボジア政府を脅しつけて国境封鎖を迫り、さらにホー・チ・ミン・ルートへの爆撃を繰り返すが、それでもシアヌークはベトコンを国内から追い出そうとしなかったため、北ベトナムやベトコンから支援を受けている「容共主義者」と見なされ、ついにアメリカは実力行使に出る。


◆カンボジア内戦
1970年、CIAは親米右派のロン・ノル国防相を支援してクーデターを行わせ、ロン・ノル政権(クメール共和国)を発足させた。
国を追われたシアヌークは北京に亡命し、毛沢東や周恩来の仲介で、かつて自らが弾圧した共産主義勢力クメール・ルージュ(ポル・ポト派)との共闘を決断する。クメール・ルージュは中国から資金や武器の提供を受けていた他、民衆に人気の高いシアヌークの名を全面に押し出すことで多数の志願兵を得たという。
ここに5年間に渡って繰り広げられ、50万人の死者を出すカンボジア内戦が勃発した。

冷戦時代にはどこの国でもそうであったが、貧乏人はアメリカの掲げる資本主義社会など支持するはずもなく、むしろ貧富の格差が無い共産主義社会に憧れる傾向があった。カンボジアも同様で、ロン・ノル政権は腐敗が酷いうえに国民に重税を課したりしたので、ひどく嫌われていた。南ベトナムや韓国などと同様に、「たとえ悪党でもアカよりはマシ」という理由でアメリカが支援していた政権のひとつである。
そんなロン・ノル政権も1973年にアメリカがベトナムから撤退すると孤立無援となり、クメール・ルージュは1975年にプノンペンを陥落させ、カンボジア全土を掌握した。

カンボジアは新たに共産主義国家「民主カンプチア」として生まれ変わり、シアヌークは国家元首に就任する。しかし、王制を始めとする封建体制の徹底破壊と原始共産主義の実現を目指すポル・ポトと、仏教の保護と王制による指導のもとで穏やかな社会主義を目差すシアヌークが相容れるはずもなく、やがてシアヌークは国家元首から引きずりおろされ、プノンペンの王宮に幽閉されれることになる。


◆キリング・フィールド
逆らう者が誰もいなくなったクメール・ルージュの狂気の圧政が始まった。毛沢東主義にかぶれたポル・ポトは「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべき」という主張を打ち出し、カンボジア版の文化大革命を開始した。

サロット・サルことポル・ポト都市居住者、資本家、技術者、知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。学校や病院、工場も閉鎖し、銀行どころか貨幣も廃止し、宗教を禁止して寺院を破壊した。さらには、電話・郵便・ラジオなどの情報通信手段やバス・鉄道・飛行機などの移動手段を廃止し、全ての国民を「集団農場」という名前の強制収用所に押し込め、農業と土木作業に従事させた。
家族という概念は無益とされ5歳以上の子どもは親から隔離。自由恋愛は禁止され、結婚相手は国家が無作為に決めるという、人類史上稀に見るとんでもない社会が誕生した。プノンペンはゴーストタウンと化し、人間はもちろん犬猫やカラスの姿すら消えたという。

もちろん、逆らう奴は全員処刑。知識人階級は反乱を起こす可能性があるという理由で殺害され(「メガネをかけている」という理由だけで知識人認定され殺された人もいるらしい)、クメール・ルージュの呼び掛けに応えて、「国の発展のために」と海外から帰国した留学生や資本家も全て殺された。その他にも過酷な環境に耐え切れず餓死や衰弱死する人が続出した。
ちなみに、あまりに大量の市民を殺し過ぎて、クメール・ルージュの幹部連中ですら何人殺したか覚えていない。もちろん、まともな資料や書類など残っていない。世界各国の様々な機関の調査結果では10万人から300万人までとかなりバラつきがあるが、150万人から200万人程度が妥当な数値とされているようだ。クメール・ルージュ政権はたった4年で崩壊するのだが、その間にカンボジアは約1/3の国民を失ったことになる。

《Part2につづく》

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