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2006.02.25 (Sat)

【世界の香ばしき国々】第5回:ハイチ(Part2) - 相変わらず貧困とクーデター

前回の記事の続きです。

◆デュバリエ王朝の崩壊
ベビードックことジャン・クロード・デュバリエ大統領パパ・ドックの死後、「ベビー・ドック」こと息子のジャン・クロード・デュバリエが大統領に就任する。ハイチの憲法では大統領の被選挙権は40歳からとなっているが、当時ベビー・ドックは19歳。それじゃ憲法を改正しちゃえ、ということで国民投票をやったのだが、ここでも「賛成239万票、反対0票」という有り得ない結果になっている。

1980年、28歳になったベビー・ドックはムラートの財閥出身の娘ミシェルと結婚する。これを契機に、今まで黒人が独占していた政権に、ムラート出身のテクノクラートが入り込むようになる。元々裕福だったムラートが政権に入り込んだこと、そして丁度この頃からアメリカ企業が安い労働力を求めてハイチに進出し始めたことなどにより、貧富の差は一層拡大した。
運良く外国資本で働くことができれば、それなりに良い給料を得られるわけで生活水準は上がるが、民度が低く、まともに読み書きもできない一般民衆が雇用されるわけがないので、中間層と貧困層の差は拡大する。この頃のハイチは労働人口の80%が失業者、一人当たりGDPは380$、平均寿命は55歳、文盲率は85%、という凄まじい数値を記録している。

また、ミシェルも独裁者の妻に相応しい香ばしい女で、結婚式に300万$を費やしたとか、ニューヨークでお買い物をしたら1日で1億円を使ったとか、凄まじい逸話が残っている。一方、ベビー・ドックも'81年にIMFから借りた2,200万$をそっくりそのままネコババするという、信じられない芸当を披露している。


我が世の春を謳歌していたベビー・ドックだったが、その放蕩生活にも徐々に影が忍び寄っていた。
きっかけはハイチ・カソリック教会の方針変更だった。パパ・ドックの代に政権に逆らった結果大司教を国外に追放され、それ以降はデュバリエ政権の提灯持ちと化していたのだが、'80年代に入ると後に大統領となるジャン・ベルトラン・アリスティド神父などの教会有力者が政府批判を行うようになる。すかさず、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が'83年にハイチを訪問し、「この国では何かが変わらなければならない」と援護射撃。
もちろん、法王に叱られた程度でベビー・ドックが反省するはずもなく、'85年には国民投票で99.98%という支持を得て終身大統領に就任している。

が、流れは止まらない。やがてデモや暴動が頻発するようになり、'86年にはアメリカも「もはやこのような圧政は通用しない」とベビー・ドックを見限り、退陣を迫る。しかし、そこは独裁者。引導を渡された後もベビー・ドックはあの手この手を使って政権に居座ろうとするのだが、怒ったアメリカはハイチへの援助を凍結すると発表。
アメリカにしてみれば、反共を掲げるデュバリエ政権は援助して支えるべき対象なのだが、あまりに横暴過ぎたのだ。民衆から不要な恨みを買い、それが元で共産ゲリラが支持を得て大暴れしようものなら、ニカラグアのようなことになりかねない。何せ隣国はキューバなのだ。

アメリカが援助凍結を発表した直後にポルトー・プランスで大暴動が発生した。本来なら鎮圧に動くべき国軍も既にCIAの息がかかっており、またベビー・ドック夫妻の浪費癖のせいで待遇改善や装備更新で酷い目にあっていたことから、これを無視。
哀れベビー・ドック夫妻はアメリカが用意した飛行機で国外退去する羽目となり、親子2代30年近く続いたデュバリエ王朝はあっけなく崩壊した。ちみなに、ベビー・ドックはアメリカから亡命受け入れを拒否された他、スイスに持っていた銀行口座も凍結されて無一文になり、泣きっ面に蜂の状態でパリへ逃げている。


◆混迷のハイチ
ベビー・ドックが去ったハイチは、19世紀に戻ってしまった。そう、選挙をやってはクーデターが起こり政権がひっくり返る、の繰り返しである。この国では、米軍統治とデュバリエ親子の時代を除くと、毎年のように政変やクーデターが起こっている。
教会や市民団体が民主化運動を行うようになると、軍事政権はトントン・マクートの残党を使ってこれを弾圧。有力な団体のリーダーは次々と暗殺され、民主化のリーダー的存在であったアリスティドにいたっては15回近く暗殺されそうになっている。このような圧政に怒った民衆はデモ、ゼネスト、暴動で対抗し、ハイチは殆ど無政府状態と化してしまった。
怖い独裁者が消え、誰もが何でもやり放題の状況になったハイチでは、軍事政権の幹部がマフィアから金を貰うどころか自ら進んで麻薬ビジネスを始め、軍の庇護を得て増長したマフィアが商売の邪魔をする教会を襲撃したり、幹部がTVに出演してアリスティド殺害を宣言するいった有様。しまいには軍事政権内部で内部抗争が始まって、1年近くに渡って内乱が続くなど、どこまでも馬鹿っぷりを晒し続けた。

カリブ海はアメリカの喉元。貧乏国の愚民が起こしている内輪もめといえども、いつまでも放置しておけないのがアメリカの辛さ。
'90年、アメリカは自国への亡命というご褒美で軍事政権幹部から政権返上の約束を取り付けると、すかさず国連を動かし、次の大統領選に備えて選挙監視団を送り込んだ。と、同時にクエール副大統領が直々にハイチへ乗り込み、軍の幹部に対して「いいか、クーデターは絶対許さん。今度やったらアメリカ海兵隊がお前らをぶっ殺す」とがっちり脅しをかける。


ジャン・ベルトラン・アリスティド大統領トントン・マクートが選挙妨害のため爆弾テロを繰り返すが、それでも選挙は行われ、米国の傀儡候補マール・バザンとの争いの末にアリスティドが当選する。ここに37歳の若き聖人大統領が誕生した。
が、その7ヵ月後にはまたもやクーデター。反米左派のアリスティドが政権を取ったことを快く思わなかったCIAがラウル・セドラ軍司令官を炊きつけてやらせたものだった。哀れなアリスティドは逃げ損ねて軍に捕まるのだが、フランスの尽力によって解放され、後にアメリカに亡命政権を作って、セドラ率いる軍事政権に対抗することになる。

国際社会が監視する中で選挙により選ばれた大統領を放逐したわけで、当然国連は制裁を発動し、援助は全て停止。アメリカが軍事介入するかと思われたが、アリスティドは決して親米的ではなく・・・というかむしろ反米左派なので、当時の大統領パパ・ブッシュはアリスティドの政権復帰には消極的な態度を取る。
アメリカがサジを投げてしまったので、変わって米州機構(OAS)が調停に乗り出すが、セドラ政権はOAS代表団の入国を拒否。セドラのこのような強硬的な態度には世界各国も怒り、1993年には国連安保理が石油と武器の禁輸、海外資産の凍結を決議、'94年にはさらに全面禁輸を決議して経済制裁で報復した。


◆堕ちた聖人大統領
すると、食い詰めたハイチ国民が大量のボートピープルとなってアメリカに押し寄せてきた。クレオール語しか解さない文盲のハイチ難民など受け入れたところでちまちスラムの住民と化すのは確実なため、難民には寛大なアメリカといえどもこれは受け入れがたく、海上封鎖と徹底的な強制送還で対抗した。
が、一向に止まない難民の漂着に音を上げたアメリカは、大統領がクリントンに変わったこともあって再びハイチに積極的に介入するようになる。セドラはアメリカの仲介によってアリスティドと交渉を行い、一度はガバナーズ・アイランド協定と呼ばれる和解案に合意し、民生復帰を確約するのだが、数ヵ月後にはこれをあっさりと反故にしてしまった。
自ら仲介してまとめた和解案を潰されたアメリカはカンカンに怒り、国連の支持を得て多国籍軍を編成し、'94年9月にハイチへ侵攻した。本格的な戦闘になる前にセドラは降伏し、パナマへ亡命。翌月、アリスティドが帰国して大統領に復帰した。

アリスティドは大統領に復帰すると、クーデターばかり起こす国軍の解体をはじめ、着々と国家の再建に取り組む。が、相変わらずデモや暴動が散発し、ギャングや民兵が暴れるなど、政情は中々安定しなかった。
'96年の大統領選では、憲法上連続して任期を努めることはできないので、アリスティドはかつて自分の政権で首相を務めていたルネ・ガルシア・プレヴァルを後任として指名し、選挙の結果プレヴァルが当選した。プレヴァルはIMFの指導の下で経済再建に取り組み、国営企業の民営化など経済面ではある程度の成功を収めるが、相変わらずデモや暴動が多発し、民兵やギャングの武装解除が全く進まないなど、既存の問題を解決できずにいた。
この国は200年の歴史のうち150年は内部抗争に明け暮れていた筋金入りの馬鹿国である。それが、たった数年で劇的に改善されるはずもない。

2001年、アリスティドは再び大統領選に出馬し、92%の得票を得て圧勝した。が、アメリカ大統領ジョージ・ブッシュは「選挙に不正がある」として、反米左派のアリスティド政権を敵視する姿勢を明確に打ち出し、経済制裁を発動。さらにIMFやEU各国にも融資を中止するよう圧力をかけた。
一向に国内の情勢が改善されないハイチを見たOAS諸国は2002年9月、国家議員選挙のやり直し、治安の改善、国際金融機関との関係正常化などを要求する「OAS決議822号」を決議した。要するにアメリカに逆らうのを止めて頭を下げろ、ということである。
経済が好転しないことや選挙の不正疑惑があることからアリスティドは幅広い支持を得ることができず、支持派と反対派の対立は日増しに酷くなり、これに不安を感じたアリスティドは反対派とそのメディアに対抗する手段として、「シメール」と呼ばれるギャングを使って反対派を弾圧しはじめた。
翌2003年になると反政府デモや暴動はなお一層酷くなり、機動隊との衝突を繰り返し、デモ隊や警官に多数の死傷者が出た他、放送局などが焼き討ちに遭っている。


◆今 度 は 内 戦 か よ
2004年2月、旧軍事政権の残党による反政府ゲリラ「ハイチ解放再建革命戦線」が各地で一斉に蜂起した。アリスティドの復帰後に国軍の解体が進められていたため、政府の治安維持部隊は重火器などで武装したゲリラ(ドミニカ経由でアメリカから支援されていた)に歯が立たず、主要都市は反政府ゲリラによって制圧され、ハイチは内戦状態に突入した。
アリスティドはOASへ治安維持部隊の派遣を要請するが、アメリカが武力介入に消極的な姿勢を示したため、OASは代わりに両者に和解案を提示した。が、反政府勢力にあっさりと拒否され、彼は事態収拾の糸口を失った。
反政府ゲリラが首都の目前まで迫ると、警官達は皆逃げ出してしまった。進退極まったアリスティドは自分を支持する民兵に武器を供与するが、この民兵どもが略奪行為や殺人に走り、首都は無法地帯と化した。

アメリカは「混乱の責任は大統領にある」として大使を大統領宮殿に向かわせ、アリスティドに引導を渡した。もはやこれまで、と観念したアリスティドは大統領を辞任し、隣国ドミニカを経由して中央アフリカ共和国へ亡命した。
憤懣やるかたないアリスティドはマスコミを通じて「私は大統領を辞任したわけではない。アメリカによって拉致されて、強制的に亡命させられたのだ」と、アメリカとの対決姿勢を強める。ハイチへの影響力を確保したい思惑があるジャマイカなど近隣諸国の支援を得て大統領復帰を狙っていたが、ラムズフェルド国防長官から「お前はハイチどころか西半球に出入り禁止」と言われ、まともに相手にしてもらえない有様。一方、余計なことをしたジャマイカはライス国務長官からメチャクチャに叱られてすっかり震え上がってしまった。


それにしても、自分達が選挙で選んだ大統領を、いくら選挙に疑惑があったとはいえ、かつて自分達を弾圧した軍事政権やトントン・マクートの残党どもに加担して大統領の座から引きずり下ろすのだから、ハイチ国民の馬鹿もここに極まれりである。もう、お前らキューバにでも併合されて、カストロ議長にその腐った根性を叩き直してもらえ。

翌月には、憲法の規定に基づきボスファニ・アレクサンドル最高裁長官が臨時大統領に就任。その後のハイチでは国連軍が治安維持活動を行う中で次の選挙に向けた準備が進められ、2006年2月の選挙ではプレヴァルが当選し、5年ぶりに大統領に返り咲いた。
選挙で選ばれた大統領の中では、プレヴァルはハイチ200年の歴史の中で唯一任期をまっとうした大統領だが、2期目となる今回はどうなることやら。

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2006.02.24 (Fri)

【世界の香ばしき国々】第4回:ハイチ(Part1) - ブードゥーと貧困とクーデター

◆ゾンビ発祥の地
ハイチといえばブードゥー教とゾンビ、さらには独裁者パパ・ドックことフランソワ・デュバリエ元大統領とその手下である秘密警察トントン・マクートによる凄まじい圧政、あるいはアフリカ諸国
ハイチ国旗よりも貧しく世界でも最下層クラスの貧乏国であることなどで有名だ。
「ロクなものがひとつも無いじゃないか」と言われそうだが、そのとおりなんです。人口の1%弱が総収入の50%を独占し、失業率は70%、平均寿命49歳、幼児死亡率は10%近く、歴史を見ても軍事クーデターと民衆弾圧の繰り返し、と良いところなどひとつもありゃしない。どこか良いところがあったら教えてください。

ハイチ位置図「またどこにあるのか分からない国を持ち出して」と言われそうなので、場所の説明をば。
ハイチはカリブ海、キューバとプエルトリコの間にあるイスパニョーラ島の西半分を領有する国。ちなみに東半分はドミニカ共和国。別に宗教や民族的に違いがあったりするわけではなく、ハイチはフランス領、ドミニカはスペイン領だったという植民地時代の名残り。

面積は約27,000k㎡(ベルギーより少し小さい程度)、人口は約859万人(2004年)、一人当たりGDPは510$(2005年)。
先に述べたように1%の金持ちが総収入の50%を独占しているので、それ以外の一般市民の一人当たりGDPは単純計算で290$程度。アフリカ諸国の最下位集団とほぼ同等の数値になる。


◆実は世界初の黒人国家
ハイチがあるイスパニョーラ島は15世紀末にコロンブスによって発見されている。どこが似ているのか皆目見当がつかないが、コロンブスは「この島はスペインに似ている」ということでイスパニョーラ島と名付け、そのままスペイン領にしてしまった。この島に銀があることを発見したスペイン人は原住民アラワク族を奴隷にして酷使するのだが、50年も経たないうちに銀は掘りつくされ、そしてアラワク族は絶滅してしまった。すると、スペイン人は悪びれることもなく、今度はアフリカから黒人奴隷を連れて来て、サトウキビの栽培を始めた。
しかし、17世紀になるとこのあたりを通るスペイン船はイギリスやフランスの海賊に襲われるようになり、また入植が進んでおらず土地が空いていたイスパニョーラ島西部にフランス人が住み着くようになった。かつては無敵艦隊を擁して植民地ビジネスで栄華を誇ったスペインもこの頃になるとかなり没落しており、17世紀末には島の西側3分の1(現在のハイチの領土に該当する部分)をフランスに脅し取られてしまった。

イスパニョーラ島西部はフランス領サン・ドマングとなり、黒人奴隷を使った林業とサトウキビ栽培で巨万の富を生んだこの地は、「フランス領で最も豊かな植民地」と言われるまでに発展した。もっとも、その豊かさを享受しているのはフランス人だけなのだが。
ところが、1789年にフランス本国で革命が勃発し、ハイチの黒人奴隷とムラート(白人と黒人の混血で奴隷ではない)達はその混乱に乗じて反乱を起こした。一度はナポレオンが本国から派遣した軍によって鎮圧されたのだが、アメリカ大陸からフランスを締め出したいイギリスやアメリカが黒人達を支援したこともあって、黒人達はついに領内のフランス人を叩き出し、1804年に世界初の黒人国家「ハイチ共和国」として独立を達成した。
現在のハイチに黒人が多く、彼らがクレオール語(フランス語とアフリカ系の言語が入り混じった言葉)と呼ばれる変わった言語を話すのはこのような歴史的経緯による。


◆「お前は落第」と言われたハイチ人
せっかく独立したのだから自国の経営に専念すれば良いものを、調子に乗ったハイチ人達は東部(当時はスペインとフランスが奪い合いをしていた)に攻め込んだりするものだから、宗主国のフランスやスペインはもちろんイギリスやアメリカまで怒ってしまい、経済封鎖を食らっている。白人から見れば、ハイチは奴隷として搾取していた黒人達が反乱を起こして作った好ましからぬ国であり、現に建国直後はどこの国も承認していない。にもかかわらず、北部と南部に別れて内乱を起こしてみたり、黒人とムラートが権力闘争を繰り返してるのだから、何をかいわんやである。
一方、東部の黒人達も相当なマヌケで、1820年に起きたスペインの立憲革命による混乱に乗じて「ハイチ・スペイン人共和国」として独立を果たしたものの、独立した途端に内輪もめを始めて、懲りずに再び侵攻してきたハイチによって占領されている。

こうして、イスパニョーラ島はハイチによって統一されるのだが、それも長くは続かない。
1825年になると、フランス革命以降の国内の混乱を収束させたフランスが大艦隊を率いてハイチの首都ポルトー・プランスを包囲し、「独立を承認して欲しければ、フランス人から奪った農園の代金や、独立の際に殺したフランス人ヘの賠償金として1億5千万フラン払え」と脅しをかけてきたのだ。これは当時のハイチの国家予算の10倍に相当し、元利償還に100年もかかる途方も無い額である。交渉の末に9000万フランまでまけてもらったものの、それでも払えるはずもなく、この当時ハイチの政治権力を握っていたムラート達は困り果てて、奴隷制を復活させるという暴挙に出る。当然のことながら黒人は激昂し、東部では独立闘争が始まった。(その後、東部は一度スペインの庇護を受けるなどして、結局1865年にドミニカ共和国として独立している)

東部では独立闘争が始まっているというのに、ハイチ国内ではムラートと黒人の争いが絶えず、毎年のようにクーデターや大統領暗殺などが続く。結局、あまりの酷さに見かねたアメリカが、1915年に債務不履行を理由に軍事介入してハイチ全土を占領する始末。
アメリカだって貸した金が焦げ付いたり、自分の庭であるカリブ海でキチガイ同士が何十年も殺し合いを続けた末に敵対している国に乗っ取られたりしては困るのである。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、この時点では中立だったアメリカとはいえ、ドイツが移民等を通じてハイチへの影響力を強めていたことは不快だったにちがいない。
これ以降、自力で国家を運営できない馬鹿の烙印を押されたハイチ人は、何をするにもアメリカ様にお伺いを立てて、そのご指導の下で国家再建に取り組む。

しかし、1933年になるとアメリカ大統領ハーバート・フーバーはハイチからの撤退を宣言する。その理由が泣ける。

「20年近く面倒を見てやったのに、ハイチは占領前に比べ少しも改善されていない」

要するに、「お前らはいくら言っても分からん馬鹿だから、ワシはもう知らん」とサジを投げたのである。第一次世界大戦はとっくに終わっていたし、共産主義の脅威がアメリカ大陸まで波及するのはもっと後の時代なので、アメリカとしても世界恐慌の真っ只中にカリブ海の餓島に駐留し続ける理由に乏しい状況にあった。
'34年に海兵隊の撤退が完了し、アメリカに見捨てられたハイチは相変わらず黒人とムラートの対立が酷く、いつまで経っても政情が安定しない。その後15年ほどは選挙によって大統領が選ばれるものの、軍部が反乱を起こして政権が崩壊する、という繰り返しが続く。


◆パパ・ドックとトントン・マクートの時代
そして1957年の大統領選の結果、エスティメ政権で閣僚を務めた経験を持つフランソワ・デュバリエが「黒人主義」を掲げ、反米・反ムラート感情の強い黒人から圧倒的な支持を得て大統領に就任する。そう、悪名高いデュバリエであるが、軍部から手厚い支援を受けていたとはいえ、実はクーデターではなく選挙によって選ばれた大統領なのである。
医師の資格を持つことから国民から「パパ・ドック」の愛称で呼ばれたデュバリエは、最初は福祉政策の充実を打ち出すなどして国民から歓迎されるが、1年も経たないうちに暴君と化す。野党を徹底的に弾圧し、非常事態宣言を行い議会を停止した。さらにクーデターの計画をいち早く察知したデュバリエは逆に軍や政府の要人を全て粛清し、その後任に自分の腹心を据えて全権を掌握した。

パパドックことフランソワ・デュバリエ大統領独裁者と化したデュバリエの暴挙はとどまることを知らず、「俺様のビルを作るから寄付しなさい」と英国大使に金をタカり、大使がこれを拒否すると国外追放したり、反政府活動をした国会議員を銃殺したり、新聞社を全て閉鎖したり、ブードゥー教を国教にしたりとやりたい放題であった。
また、反政府ストライキを支援したという理由でハイチ・カソリック教会の大司教を国外追放し、これに激怒したバチカンから破門されたりしているのだが、ブードゥー教徒のデュバリエにとっては痛くも痒くも無かったりする。


トドメは都市のごろつき貧民や地方地主に雇われていた傭兵を集めて「トントン・マクート」という秘密警察を作り、民衆を徹底的に弾圧した。トントン・マクートは国軍の2倍の兵力を有し、約3万人の市民を殆ど言いがかりに近い理由で連行し、殺害したと言われている。どこまで本当か分からないが、トントン・マクートの中にはブードゥー教の司祭がいて、政府に逆らう奴をゾンビにして強制収用所でコキ使った、などという話もある。
また、パパ・ドックは独裁者のくせに一応選挙なんぞやっていたりするのだが、開票結果を見ると「132万票対0票」という有り得ない結果だったりする。

キューバ革命により赤化した隣国キューバが、ハイチの共産ゲリラを支援して蜂起させたりしていることから、普通に考えれば反共を掲げるデュバリエ政権はアメリカから手厚い支援を受けられそうなものなのだが、あまりの香ばしさに呆れたJ.F.ケネディはハイチへの全ての援助を停止している。反共なのにアメリカから支援を止められる国も珍しい。もっとも、アメリカといえども共産主義の脅威には逆らえず、2年後にリンドン・ジョンソンが援助を再開している。
パパ・ドックは1964年には終身大統領に就任し、'71年に死去するまで、逆らう者を容赦なく弾圧し続けた。

《Part2につづく》

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