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2009.08.19 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第53回:ローデシア(Part7)

前回の記事の続きです。ローデシア編は今回で終了となります。


◆落日のローデシア

ポルトガルでカーネーション革命が発生し、モザンビークとアンゴラが共産主義国として独立する見通しとなると、これに衝撃を受けた南アフリカ政府は方針を転換した。隣国(※8)がソ連の支援を受けた共産主義国となれば、自国に対してもゲリラ戦を仕掛けられる危険性があるからだ。
南アフリカ首相B.J.フォルスターはスミス政権を説得し、周辺国やゲリラも交えた会談の場(「ルサカ会談」)をセットする。スミスはルサカ会談において制憲会議の招集、拘禁中の黒人指導者の釈放などを約束するが、間もなく交渉は暗礁に乗り上げたうえに、ローデシア政府がZANUの指導者ンダバニンギ・シトレを逮捕したため、ルサカ会談による協議体制はすぐにパーになってしまった。

1975年4月、スミス政権のわがままぶりに怒った「アフリカ統一機構(OAU)」と南アフリカを除く周辺諸国は、「外交交渉による解決が不可能となった際には、武力闘争の準備をする」と宣言し、悪党をやっつけるためには手段を選ばない姿勢を打ち出した。(ダルエスサラーム宣言)

※8:南西アフリカ
南アフリカはアンゴラとは直接国境を接していないが、その間にある南西アフリカはドイツの植民地だったことから、第一次世界大戦後は国際連盟により南アフリカの委任統治領となっていた。しかし、第二次世界大戦によって国際連盟が消滅すると、南アフリカはどさくさにまぎれて併合して自国領にしてしまった。
結局、冷戦が終結すると特別扱いしてもらえなくなった南アフリカは南西アフリカを手放す羽目となり、南西アフリカは1990年に『ナミビア共和国』として独立した。



1975年8月、フォルスターのセッティングによりスミスと黒人勢力が再び交渉に臨むが、やはり決裂。スミス政権は黒人にも参政権を与えることについては同意していたが、具体的な実施方法や実施時期の話になるとゴネ倒したりすっとぼける姿勢を変えなかったからだ。
要するに「交渉します」というポーズを取るだけで、アパルトヘイトを止めるつもりなんかこれっぽっちも無かったということ。

1976年になるとモザンビークが国境の完全封鎖に踏み切り、輸出入の80%がモザンビーク経由だったローデシアの物流に深刻な打撃を与えた。ローデシアも越境空爆などで報復したものの、そんなことで問題が解決するはずもなく、ローデシアは全ての輸出入を南アフリカ経由で行うことになった。
しかし、こうなると黒人勢力との交渉を望む南アフリカ政府に頭が上がらなくなるうえに、輸送コストが増大して経済にも悪影響が生じる。さらに悪いことに、ローデシアに関する物資を全て取り扱うことになった南アフリカの港湾機能がパンクしてしまい、スミス政権が従来の強硬姿勢を貫くことはもはや不可能となった。

ローデシアが傾き始めるとアメリカが調停に乗り出してきた。共産ゲリラのZAPUやZANUがこのままローデシアを制圧したら困るからだ。モザンビーク、アンゴラに加えてローデシアまで赤化すれば、豊富な天然資源を有する南アフリカやザイールはアカに包囲されることになる。
一方、ローデシアを支援してきた南アフリカもモザンビークとアンゴラが独立したことに加え、国内で激化する反アパルトヘイト運動に対して武力で応酬したため国際社会から袋叩きに遭い、従来のような支援を続けることが困難になりつつあった。

アメリカからはフォード政権で国務長官として外交交渉を一手に引き受けていたヘンリー・キッシンジャーが派遣され、フォルスター首相と共にスミス政権との交渉に当たるが、キッシンジャーの提案は「2年以内にアパルトヘイトを止めろ」という衝撃的なものだった。スミス政権は、助けてくれると思っていたアメリカと南アフリカから「お前はもうおしまいだ」と引導を渡されたのだ。
1976年10月には長年いがみ合っていたZANUとZAPUが和解して統一戦線を結成したため、ゲリラ活動が余計に激化した。ローデシアの白人至上主義体制はもはや風前の灯火となっていた。

フォード大統領とキッシンジャー国務長官
左がジェラルド・フォード大統領、右がヘンリー・キッシンジャー国務長官
キッシンジャーはニクソン&フォードの両政権で外交政策立案・交渉を担い、デタントやベトナムからの米軍撤退を実現させた外交の達人。ともすればハト派と誤解されがちなキッシンジャーだが、チリのアジェンデ政権を叩き潰したり、ローデシアに引導を渡したりと冷徹な一面もある。
ハト派というより、大国間のパワーバランスを重視する現実主義者と言うべきか。




◆ローデシアの終焉

ローデシアの赤化を防ぎたいアメリカと、少しでも自分たちの既得権を保護したいスミス政権は「穏健派の黒人政治家を担いで、白人の既得権を保護しつつも黒人に一定の権利を与えて共産化を防ごう」という戦略を取った。
スミス政権は穏健派黒人指導者アベル・ムゾレワを交渉相手に選び、1978年に3月に「ソールズベリー協定」を結んで白人至上主義体制に終止符を打つことを宣言する。しかし、ここまで往生際の悪い連中があっさりと支配を諦めるわけがない。

ソールズベリー協定の内容は、下院議会100議席のうち72議席を黒人に与えるというものだったが、その一方で各省庁は白人・黒人それぞれ1名ずつの大臣を持ち、しかも国家機関の人事権は白人主体の別組織が握るというシロモノ。おまけに白人が持つ大農場は憲法で所有権を保証して今までどおりのまま。
黒人が大統領や首相になったところで、白人が政府を牛耳って今までどおり甘い汁を吸う、という意図が丸見えである。

1979年4月に総選挙が行われ、第一党となった「統一アフリカ民族会議(UANC)」の党首ムゾレワが首相になった。しかし、反政府ゲリラが投票をボイコットしたため投票率は64.5%と低迷した。国名も黒人に配慮して『ジンバブエ・ローデシア』と改名されたが、白人の小ざかしいやり方は黒人のさらなる怒りを招き、国連やアフリカ諸国はムゾレワ政権を承認せず、アフリカ諸国に突き上げられたアメリカとイギリスも結局ローデシアに対する経済封鎖を解除しなかった。

アベル・ムゾレワとイアン・スミス
左がアベル・ムゾレワ、右がイアン・スミス、真ん中の人は不明。
ランカスター・ハウス協定についてイギリス政府と交渉した際の写真。


国内経済は疲弊し、一方でゲリラの闘争は激化し、どこの国も承認してくれない。この結果に落胆した白人はついにアパルトヘイトによる支配を諦め、イギリスが示した「向こう7年間は土地の所有権を保証し、その後は政府が市場価格で買い取る」「国会議員の20%を白人優先枠とする」という調停案(ランカスター・ハウス協定)に同意した。
ちなみに、この際にスミスは「こんな協定を結ぶなど正気の沙汰ではない」と激怒し、調印を拒否している。しかし、議会はUANCが多数派を占めており、スミスはムゾレワ内閣の閣僚の一人に過ぎない。彼ができることは、交渉場所(イギリス)から立ち去り一人帰国することだけだった。

これまでまるで役立たずだったイギリスだが、1979年にマーガレット・サッチャーが首相になると一転して積極的に動き出し、ランカスター・ハウス協定を成立させると、ローデシア政府と黒人ゲリラの停戦協定、新憲法の制定、それに基づく総選挙の実施、それまでの暫定統治体制等の整備をテキパキと進めた。
イギリスに主導権を握られたことが面白くないZANUとZAPUが文句を言っても、「黙れ!」と一喝している。さすが鉄の女。


こうして、イギリスに反逆して独立したローデシアという国は「存在しなかったこと」になり、一旦イギリス領に復帰してから独立をやり直すこととなった。
1979年12月12日、ローデシア政府はイギリス政府から派遣された提督クリストファー・ソームズ卿に全ての権限を委譲し、14年間の短い歴史を終えた。余談だが、ソームズ卿は「ヒトラーと戦った偉大なデブ」ことウィンストン・チャーチル元首相の娘婿である。

イギリスによる暫定統治を経て、1980年2月に総選挙が行われた。国会の定数は100。そのうち20議席が白人枠なので、残り80議席を巡って選挙戦が繰り広げられた。
結果は社会主義路線を掲げたZANUが57議席を獲得し、リーダーのロバート・ムガベが政府首班(首相)となった。民族主義を掲げたZAPUは20議席、ムゾレワ前首相率いるUANCは3議席と惨敗した。

そして1980年4月18日、南ローデシアは『ジンバブエ共和国』として独立を果たした。世界中がこの独立を歓迎し、その前途を祝福した。それが30年後には国民が「たとえ差別されてもローデシア時代のほうがマシだった」と嘆くほど最低のバカ国に成り下がるとは、このとき誰が予想したであろうか。

ジンバブエ独立式典の様子
1980年4月18日にハラレのルファロ競技場で行われたジンバブエ独立式典の様子。中央のポールからイギリス国旗が下ろされ、ジンバブエ国旗が掲揚されるというシーン。
なお、この式典にはボブ・マーリーが国賓として招待され、コンサートを行っている。音源も残っているので、興味のある人は探してみるといい。



≪ローデシア編終了≫


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20:11  |  ジンバブエ/ローデシア  |  TB(0)  |  CM(9)  |  EDIT  |  Top↑

2009.08.16 (Sun)

【世界の香ばしき国々】第52回:ローデシア(Part6)

前回の記事の続きです。

◆ミステリアス・ローデシア

ローデシアはタバコやトウモロコシなど農産物の輸出で十分な収入を得ていたが、どういう訳か政府は観光産業にも力を入れていた。アパルトヘイトを掲げる極悪国家に観光に行く人などあまりいないと思うのだが・・・。
その際に使用されていたキャッチフレーズが凄い。

「ミステリアス・ローデシア」

冒頭に書いたとおり、ローデシアの白人は黒人がグレート・ジンバブエ遺跡を作ったことを認めていなかった。誰が作ったか分からない謎の遺跡だから「ミステリアス」なのだそうだ。笑わせる。

「痛いローデシア(ノ∀`)」のほうが似合うと思う。


ローデシアは国際社会からどれほど批難されようとも、同じ穴のムジナである悪党(南アフリカとポルトガル)の助けがあるので、過酷な制裁措置を受けてもビクともしない。「差別反対?そそそそ・・・それって旨いのけ?」というナメくさった態度を貫き、各国の足元を見た巧みな外交を繰り広げた。
1968年10月、イギリス政府は再びローデシアの説得に取り掛かる。

イギリス:国際社会も怒ってるし、こんなことはもう終わりにしようぜ?

ローデシア:我が国は全く困っていないので、アパルトヘイトを止める理由は何も無い。

イギリス:こ、こいつ・・・いい加減にしろ!お前のせいで俺まで批難されるのだ!

ローデシア:やーい!ばーか、ばーか!

これっぽちも態度を改める気の無いローデシアはイギリスとの交渉が決裂すると、1970年3月に永続的な白人支配を謳った新憲法を採択し、国名を『ローデシア共和国』と改めた。共和制を採用したということは、イギリス国王(女王)を国家元首として仰ぐ意思は無いということ。つまり、英連邦との決別を意味する。
慌てたイギリス政府は三度ローデシアとの交渉に臨むが、「ローデシアの一方的な独立と白人支配を謳った憲法を既成事実として認める代わり、アパルトヘイトを緩和する」という軟弱な案が黒人やアフリカ諸国の怒りを招き、またしても開き直ったスミスに一蹴される結果となった。

アフリカ諸国が烈火のごとく怒ろうとも、西側諸国は「アカに乗っ取られるよりはマシ」と肝心なところで手を緩めてしまう。中でも「たとえキチガイや悪党でも、アカよりはマシ」と徹底した反共を国是に掲げるアメリカは、ザイール、ニカラグア、カンボジアなどで悪党の政権を援助するのみならず、ローデシアに対しても米国製の兵器等を融通していた。
国連総会でローデシアに対する全面禁輸措置が決議されているにも関らず、各国はそれぞれの思惑でそれを無視したため、ローデシアはどこまでも国際社会をナメくさった態度を貫いた。

ちなみに、黒人をホームランドに押し込んで参政権を一切与えなかった南アフリカと異なり、ローデシアは下院議会66議席のうち16議席を黒人に与えていた。また、黒人の納税額が増加すれば最大50議席まで黒人枠を増加させるとしていた。
しかし、黒人を徹底的に差別するローデシアにおいて、黒人の納税額が劇的に増える要素などあるはずもなく、この規定は白人の言い訳として用意されていたに過ぎなかった。



◆ローデシア紛争(第2次チムレンガ)

ローデシアが独立した1965年の時点では、ZAPUやZANUのゲリラ活動は細々としたものでローデシアの政情は安定していたのに対し、隣のモザンビークは既に香ばしい状態に陥っていた。反政府ゲリラの独立闘争は1962年から始まっていたが、1964年になると3派に分かれていたゲリラが『モザンビーク解放戦線(FRELIMO)』として統合され、1万人近い兵力を有する武装組織となったからだ。ダメ宗主国ポルトガルに、ソ連や中国から援助を受けたFRELIMOを抑える力は無く、反政府ゲリラは着々と支配地域を広げていった。
これを受けてローデシアでも1967年頃から、ZAPUがザンビア領内から、ZANUはモザンビーク領内からゲリラ戦を仕掛けるようになった。(ローデシア紛争)

しかし、ローデシア軍は二正面作戦をものともせず、侵入してきたゲリラをことごとく殲滅するという戦果を挙げている。ローデシア軍は重火器こそ不足していたもののアメリカ製や南アフリカ製の小火器を多数有し、イギリス軍仕込みの厳しい訓練と経験豊富な傭兵の存在によって世界でも有数の戦闘力を誇っていた。
また、彼らは「コンバット・トラッキング」や「ファイヤー・フォース攻撃」という自ら開発した新しい戦術によって大きな戦果を挙げていた。コンバット・トラッキングとはゲリラ部隊の残した痕跡を辿って追撃する戦術で、ファイヤー・フォース攻撃はコンバット・トラッキングにヘリや輸送機を組み合わせて撤退するゲリラ部隊の退路を断つ戦術である。
これらの装備・戦術を駆使したローデシア軍は一般部隊で黒人ゲリラの8倍、ローデシアSASやセルース・スカウツといった特殊部隊に至っては35~50倍の殺傷率を記録していたという。まるでサイヤ人の軍隊である。

1970年には南部の都市フォート・ビクトリア(現マスヴィンゴ)において、ローデシア軍はZAPUを壊滅寸前にまで追い込む戦果を挙げている。しかし、ゲリラを根絶やしにするのは容易ではなく、叩いても叩いても涌いて出てくるゲリラに業を煮やしたローデシア政府は1973年1月にザンビア国境を完全封鎖し、ザンビアもろともZAPUを干上がらせる戦術に打って出た。
だが、老若男女全て合わせてもわずか22万人の白人入植者が動員できる兵力は限られており、ローデシア軍は戦況を優位に進めながらも兵員不足に苦しみ出すことになる。

ローデシア軍の兵士募集ポスター   ローデシア軍の兵士募集ポスター
ローデシア軍の兵士募集ポスター。かっこいいっすね。


そして1974年、ポルトガルの首都リスボンでローデシアの命運を決定づける衝撃的な事件が起きた。『カーネーション革命』だ。

ポルトガルでは、1933年以来アントニオ・サラザール大統領による独裁体制(エスタド・ノヴォ)が続き、1968年にサラザールが病に倒れた後もマルセロ・カエターノ首相による強権政治が続いた。そして、第二次世界大戦後に植民地が次々と独立していく中でも、ポルトガルは「モザンビークやアンゴラは植民地ではなく、ポルトガルの海外県である」と屁理屈を言って手放そうとしなかった。
やがて1960年代になってモザンビークやアンゴラでソ連の支援を受けた共産ゲリラが暴れ出すようになると、ポルトガル政府は国家予算の半分近くを軍事費に費やす羽目となり、気がつけば欧州最貧国に転落していた。しかし、植民地からの撤退を進言した軍幹部は次々と更迭され、戦争反対を訴えた国民は秘密警察によって弾圧された。

1974年4月、このような状況に危機感を覚えた軍内部の左派将校が、ソ連からの支援を受けてクーデターを決行。戦闘行為は全く起きず、無血革命によって約40年続いたエスタド・ノヴォ体制はあっけなく崩壊した。(※7)

※7:カーネーション革命
クーデターが成功したことを知った国民はカーネーションを手に反乱軍兵士達を出迎えたことから、「カーネーション革命」と名付けられた。


カーネーション革命の兵士
カーネーション革命に加わった兵士


左派政権は植民地の放棄を宣言したため、モザンビークは1975年6月に『モザンビーク人民共和国』として独立を達成した。アカの反政府ゲリラFRELIMO主導による独立なので、マルクス=レーニン主義を指向する共産主義国家である。
一方、ローデシアは大規模農場を経営する白人入植者が中心の国。農業まで集団化するマルクス=レーニン主義など彼らにとって危険極まりない思想であり、当然ローデシアはバリバリの反共国家だった。

それまでの共闘関係から一転、相容れない仲となった両者。ローデシアは重要な貿易拠点を失ったのみならず、モザンビーク領内に兵站拠点を確保したZANUの攻撃に悩まされるようになった。
ローデシア政府は南アフリカからの支援や兵役強化などで対抗するが、毎年のように3~6ヶ月の追加召集を掛けられる市民はたまったものではない。繰り返される兵役によってローデシア経済は衰退し、その一方で反政府ゲリラはソ連や近隣諸国からの援助によって力を増していった。
ついには農村部のみならず首都ソールズベリーでも暴動が起きるようになり、ローデシアの白人は苦境に追い込まれる。

しかし、ローデシア政府も手をこまぬいていたわけではない。ローデシア軍は国境を越えてモザンビーク領内にあるZANUの基地を破壊しまくり、モザンビーク政府が国境を閉鎖して経済封鎖を行うと、その報復として越境空爆を繰り返した。
また、ローデシア政府はモザンビークで共産主義に反対していた部族や旧ポルトガル政府の秘密警察「国防国際警察(PIDE)」の元兵士に声を掛けて『モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)』の結成を手助けした。ローデシアや南アフリカから支援を受けたRENAMOはソ連崩壊後の1992年まで暴れ続け、内戦によって90万人の死者を出したモザンビークは壊滅寸前の飢餓国家に転落することになる。ローデシアは1980年に消滅するが、彼らはモザンビークにとんでもない置き土産を残して逝った。

モザンビーク解放運動(FRELIMO)の旗   モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)の旗
左:FRELIMOの党旗。いかにも、という感じでつまらんです。
右:RANAMOの党旗。エスニックな雰囲気があって良いです。


01:27  |  ジンバブエ/ローデシア  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2009.08.12 (Wed)

【世界の香ばしき国々】第51回:ローデシア(Part5)

前回の記事の続きです。

◆白人至上主義極悪国家『ローデシア』誕生

1962年、ニヤサランドが独立を前提に連邦から離脱、北ローデシアもそれに続くのが避けられない状況となり、ローデシア・ニヤサランド連邦は事実上崩壊した。アフリカ諸国が次々と独立していく中で、南ローデシアだけをいつまでも植民地にしておくわけにもいかない。だが、かといって人種隔離政策を認めたまま独立させるわけにもいかず、扱いに困ったイギリス政府は南ローデシアをひとまず自治領へ戻すことにした。
しかし、南ローデシアは白人の比率が高く、しかもその殆どは農場経営者としてローデシアに土着化している。白人入植者の生活は黒人を搾取することで成り立っているため、黒人が政治に参加するような事態は絶対に回避する必要があった。彼らの危機感は1962年に『ローデシア戦線(RF)』という右派政党を生み、RFはその年の選挙で大勝して与党となった。

南ローデシア自治政府首相となったウィンストン・フィールドは南ローデシア独立の承認を引き出すべく本国イギリスとの交渉を繰り返すが、イギリス政府からの回答は「人種差別はもうダメよ。黒人にも参政権を与えて(※4)、両者が共存する国として独立したら?」というもの。しかし、RFやその支持者である白人入植者にとって、これは断じて受け入れられる話ではない。
両者の交渉が暗礁に乗り上げるとフィールド政権の対英協調外交は弱腰と批難され、フィールドは1963年に首相を辞任する羽目となった。

※4:黒人の参政権
南アフリカが黒人の参政権をまったく認めなかったの対し、ローデシアは一定の学歴や資産を持つごく一部の黒人には参政権を与えていた。



イアン・スミス首相新たに首相となったのはフィールド内閣で蔵相を務めていたイアン・スミス。1919年に白人入植者の息子として南ローデシアで生まれたスミスは、第二次世界大戦にイギリス空軍のパイロットとして従軍した後、1948年に政界に進出してローデシア・ニヤサランド連邦の議員となり、RF旗揚げの際には主要メンバーのひとりとなっている。
スミス政権は、外交面においてはイギリスからの一方的な独立も辞さない強行姿勢を貫き、内政面では黒人活動家を片っ端から刑務所にぶち込んで彼らの政治運動を徹底的に弾圧した。また、彼は相手が白人であろうと自分達に逆らう連中は容赦なく取り締まり、イギリスの保守派でさえ顔をしかめるほどの強権政治を行った。

しかし、黒人もやられっぱしだった訳ではない。彼らは政党を作り政治活動に乗り出すが、南ローデシア政府がこれを弾圧すると暴動やサボタージュで報復し、ついにはゲリラ組織を作って武力闘争を始めるに至った。1961年にジョシュア・ヌコモがソ連の支援を受けて『ジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)』を結成、1963年にはZAPUを飛び出した連中が中国から支援を受けて『ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)』を結成している。しかし、彼らが本格的に暴れ出すのはもっと後の話。

スミス政権もイギリスとの交渉に繰り返すが、アフリカ諸国が次々と独立していたこの時期にRFの主張など絶対に認められるわけがない。イギリス政府はスミス政権に対し「勝手に独立宣言したら経済制裁を加える」と脅しをかけるが、そんなものに怯まない白人入植者達はスミス内閣を支持し、1965年の総選挙でもRFが圧勝した。


ローデシア国旗国民から圧倒的な支持を得たスミスは後述する「密約」のメドが立つと腹を決め、イギリス本国との交渉を打ち切る。そして1965年11月、イギリスから派遣されていた総督を追放し、新国家『ローデシア』として独立を宣言した。22万人の白人が360万人の黒人を支配する白人至上主義の極悪国家の誕生である。
総督とは国王(女王)の名代として各植民地を統治する存在。南ローデシアには自治政府や議会があるので、実際には形式的な存在に過ぎなかったとはいえ、国王の名代を追放するのだからイギリスとの絶縁を宣言したに等しい。海外植民地の白人入植者がイギリス本国に反逆するのは、18世紀のアメリカ独立以来のことであった。

総督を追放されたイギリスは激怒し、国内にあるローデシア関連の資産を凍結して報復した。さらに国際社会に働きかけて、国連安保理からローデシアに対する石油・自動車・武器等の禁輸措置を、国連総会ではローデシアの独立不承認と外交断絶の決議を引き出した。これを受けて各国は首都ソールズベリー(現在のハラレ)にある領事館を閉鎖し、ローデシアは見事なまでに国際社会からハブられた。
これを見たイギリス政府は、「ここまで厳重に包囲してやれば、内陸国のローデシアは貿易ができなくなって1~2年で干上がるだろう」と予測した。

独立宣言書にサインするスミス首相
1965年11月11日、ローデシア独立宣言の書類にサインするイアン・スミス首相


ところが予想は大ハズレ。

アパルトヘイト仲間の南アフリカ(※5)と、植民地放棄を頑なに拒否して世界中からヒンシュクを買っていたポルトガル(※6)が通商条約を結んでローデシアを助けたからだ。スミスがイギリスに喧嘩を売ってまで独立を決意した理由は、この両国との「密約」の存在にあった。
ローデシアは南アフリカやモザンビーク経由で必要物資の調達や農産物の輸出を行った(ローデシア産であることを誤魔化して売りさばいた)ため、経済制裁はまるで効果無し。外国企業が引き上げても国内企業が穴埋めしてしまったので、国内経済はむしろ活性化した。

この辺りは、白人を追い出したはいいがその穴埋めができず飢餓地獄に陥った、後のモザンビークやジンバブエとは全く異なる。できる奴(白人)は何をやらせても上手く、ダメな奴(黒人)は何をやらせてもダメ・・・ということなのだろうか?
ちなみに、このときの制裁のせいで軽工業が発達したジンバブエは、今でも質は悪いながらも国産製品の普及率が高い。

※5:アパルトヘイト仲間の南アフリカ
南アフリカはローデシア以上に極悪なアパルトヘイトを推進していた。普通ならローデシアのように袋叩きに遭ってすぐに潰れてしまいそうなものだが、この国は金やダイヤモンドの他各種レアメタルの宝庫だった。南アフリカ以外でこれほど豊富な種類の鉱物資源を大量に産出できる国はソ連くらいしかなかったため、西側諸国は南アフリカに対してあまり強気な態度を取れなかった。


※6:植民地放棄を拒否するポルトガル
英仏は植民地が独立してもそれらの国を政治的・経済的に牛耳る自信があった。しかし、弱小国ポルトガルにはそのような体力は無く、下手に独立させようものなら他国に権益を奪われる危険性があった。ポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールはそれによって国内経済が破綻すれば共産革命が起こると考えていたので、国際社会からどれほど批難されても植民地の放棄を拒否し続けた。
しかも、モザンビークは内陸国のローデシアやザンビアの貿易拠点となることで全収入の40%を稼いでいたため、ローデシアと絶縁することはできなかった。



ローデシアはイギリスを敵に廻したものの、タバコの葉を大量にアメリカへ輸出していたし、国内に存在する反政府ゲリラ(ZAPUとZANU)がソ連や中国から支援を受けていたので、反共の姿勢を明確にすればアメリカが助けてくれるだろうと考えていた。
経済制裁がローデシアにはまるで効いていないことに気づいた東側諸国とアフリカ諸国は、イギリスに対して「我々は反対しないから、あのような極悪国家は武力で叩き潰しなさい!」と要請するが、下手にスミス政権を潰してローデシアが共産国家になれば厄介なことになる。という訳で1968年に国連安保理はローデシアに対して全面禁輸措置を行うことを決定したが、西側諸国が二の足を踏んだためそれ以上のことはできなかった。

ちなみに、この経済封鎖で酷い目に遭ったのはローデシアではなく、ローデシア経由で貿易を行っていた内陸国ザンビア。黒人国家ザンビアがローデシアのような悪党の存在を容認できる訳がない。なので、国連の制裁に加わるだけに留まらず、ZAPUに基地を提供するなど反政府ゲリラの活動を支援していた。するとローデシアは自国領を経由してザンビアへ向かう物流ルート(鉄道)を遮断したため、銅の輸出や石油の輸入がストップしたザンビア経済は大混乱に陥った。
そして、そのザンビアの困窮ぶりに同情した中国の援助で作られたのが、ザンビアとタンザニアを結ぶ「タンザン鉄道(タザラ鉄道)」(※7)。

※7:タンザン鉄道(タザラ鉄道)
ザンビアは世界で一番最初に中国(中華人民共和国)を承認したことから、中国ととても仲が良かった。タンザン鉄道の建設は、いつもロクなことをしない中国が他国の役に立つことをした珍しい事例といえる。


アフリカの植民地(1914年) ←各国位置確認用の地図 ※クリックすると拡大します

「SOUTHERN RHODESIA」がローデシア、「NORTHERN RHODEDIA」がザンビア、
「NYSALAND」がマラウイ、「GERMAN EAST AFRICA」がタンザニア、「BELGIAN CONGO」がコンゴ(ザイール)として独立。
1965年当時、モザンビークとアンゴラはまだポルトガルの植民地。
なので、ザンビアはローデシアとポルトガルから意地悪されると干上がります。
ザイールとも国境を接していますが、ザイール国内の鉄道網が未発達で大西洋沿岸まで繋がっていません。



21:09  |  ジンバブエ/ローデシア  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2009.08.09 (Sun)

【世界の香ばしき国々】第50回:ローデシア(Part4)

前回の記事の続きです。

◆ローデシア・ニヤサランド連邦

1938年に第二次世界大戦が勃発するとローデシアからも多くの国民がイギリス軍に加わって戦場(主に東アフリカ戦線)へ向かい、残った国民は物資の生産に尽力してイギリスを支えた。当時のイギリスは兵員や物資の多くをインドやアフリカに依存しており、植民地がイギリスの戦争遂行を支えたと言っても過言ではなかった。
戦争継続には植民地の協力が不可欠なことから、当時の首相ウィンストン・チャーチルは1941年に『大西洋憲章』の中で「国民が政治体制を選択する権利の尊重と、強奪された主権の回復」について宣言を行った。これは別にドイツや日本に占領された地域の解放のみを意味している訳でなく、イギリスが持つ植民地も含まれている。要するに「戦争に勝ったら独立させてやるから協力しろ」ということである。

イギリスやフランスは第一次世界大戦が終わった時点でボロボロに疲弊しており、アメリカやソ連が参戦したおかげで第二次世界大戦に勝利したようなもの。かつて七つの海を支配し植民地帝国として世界に君臨した英仏の栄華は、1945年のベルリン陥落と広島・長崎への原爆投下によって終わりを告げた。第一次世界大戦まで欧州列強を中心に動いていた世界秩序は、これ以降アメリカとソ連によって牛耳られることになる。
帝国主義の時代が終わったことを悟った英仏は各植民地に独立を許し、1943年にレバノン、1946年にシリア、1947年にはインドやパキスタンが次々と独立した。そして仏領インドシナや蘭領東インドでは独立戦争が始まっていた。もちろんアフリカでも「戦争に協力したんだから独立させろや、ゴルァ!」という声が高まり、各植民地で独立運動が盛んになりつつあった。


戦後のローデシアでは復員軍人などの入植者が進んで白人人口が増加し、それにしたがって外国からの投資も増えて農業のみならず製造業も盛んになった。すると白人入植者達は「南ローデシアの農業と製造業、北ローデシアの鉱業、ニヤサランドの安い労働力、この3つを組み合わせたら自前の経済圏を構築できるのでは?」と考え、これら3つの地域を統合した自治領の創設を主張するようになった。
ニヤサランドはローデシアの東側にあり、インド洋方面から入り込んで来たアラブ商人が奴隷狩りなどを行っていたが、イギリス人宣教師が現地人を味方につけてアラブ商人を叩き出し、1851年にイギリスの保護領となっていた。しかし、農業も鉱業も未発達な貧しい地域だったため、ローデシアへの労働力供給元となっていた。ニヤサランドの黒人もローデシアと同様バントゥー語群系だが、アラブ人の影響下にあった歴史からイスラム教徒が多い。

ローデシア・ニヤサランド連邦旗本音では「できるものなら植民地を手放したくない」と考えていたイギリス本国は、これらの地域が黒人国家としてバラバラに独立してしまうよりはマシと考え、白人入植者の提案に乗ることにした。
そして1953年、これらの地域は『ローデシア・ニヤサランド連邦(中央アフリカ連邦)』としてイギリス領内の自治領となった。南ローデシア同様、独自の行政組織や議会、通貨を持ち通商協定などは自由に結べるが、外交権は無い。
ローデシア・ニヤサランド連邦はローデシア南部の白人入植者の思惑によって作られたものであることから、連邦の政治は何事においても南ローデシア主導で進んだ。北ローデシアの銅とニヤサランドの安い労働力を手に入れた南ローデシアは急成長する。

北ローデシアの都市ルアンシャにある鉱山
北ローデシアの都市ルアンシャにある鉱山


1950年代後半になると独立運動の波はアフリカにも押し寄せ、イギリス領ではガーナが、フランス領ではギニアが1958年に独立を達成した。
比較的諦めが早かったイギリスは「分かったよ、独立させてやる。だけどこれからも仲良くしようぜ」と訴え、独立した国の殆どを英連邦内に引き止めることに成功した。一方、往生際の悪いフランスは各植民地を「フランス共同体内の自治共和国」という形で独立させ、自治権を持つ準独立国とすることで手を打とうとした。
イギリス方式は各植民地が完全な主権国家として独立するのに対し、フランス方式は自治共和国レベルなのだから当然外交権は無いし、教育や公安など重要な部分は本国の管轄となる。結局、独立に燃える黒人は自治共和国レベルでは満足せず、これらの国は1960年前後に次々と独立することになった。

ローデシア・ニヤサランド連邦にもこの動きが飛び火した。この国はイギリス領内の自治領レベルであるうえに、30万人の白人が900万人の黒人を支配する国。政治は南ローデシア優先で、おまけにアパルトヘイト政策まで採っている。
南ローデシアの白人ばかりが肥え太り、黒人の生活水準は一向に向上しなかったことから、1959年にはニヤサランドで大規模な暴動が起こった。イギリス軍はすぐにこの暴動を鎮圧したものの、ニヤサランドは未開なうえに白人が殆どいない地域なので、他地域に反乱が飛び火するのを防ぐため連邦から切り離して独立させることにした。
こうしてニヤサランドは1962年に自治領となり、さらに1964年に『マラウイ共和国』として独立した。

白人が少ないのはローデシア北部も同じ。北部の主力産業は鉱業なので、黒人労働者は鉱山周辺にまとまって住んでいることが多く団結しやすい。1956年には大規模なストライキが発生して非常事態宣言が発令されたこともあった。しかし、北ローデシアでは黒人の政治団体のいがみ合いが続いたうえに、大規模な銅鉱山があることからニヤサランドのようにあっさり独立が認められることは無かった。
前述のとおり各植民地は1960年前後に次々と独立していくのだが、イギリス領でも1961年にタンザニアが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが独立を達成した。元々白人の少ない北ローデシアで独立運動を押さえ込むのはもはや不可能となっていた。
結局、北ローデシアも1963年に自治権を獲得し、1964年に『ザンビア共和国』として独立した。ローデシア・ニヤサランド連邦はわずか10年で崩壊した。

マラウイ共和国大統領カムズ・バンダ   ザンビア共和国大統領ケネス・カウンダ
左:マラウイ共和国大統領カムズ・バンダ。初代大統領に就任すると独裁者と化し、暴政を敷いたあげく散々私服を肥やし、最後には終身大統領となった。
右:ザンビア共和国大統領ケネス・カウンダ。こちらも独裁体制を築いて30年近く大統領の座にしがみつくが、冷戦崩壊と銅価格の下落による経済悪化により民主化を迫られ、1992年の大統領選で敗れて下野した。

せっかく独立したのに、マラウイもザンビアもロクでもない国に・・・。



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2009.08.06 (Thu)

【世界の香ばしき国々】第49回:ローデシア(Part3)

前回の記事の続きです。

明日からまた出張で不在となるので、今のうちに更新しておきます。


◆南ローデシア自治政府

さて、セシル・ローズと南アフリカ会社はローデシアでどのような統治を行ったか。ローズは鉱業で成功した人物であり、そもそも鉱物資源を目当てにこの地に進出してきたわけで、ローデシアでも鉱山開発を進め、北部では金、銅、クロム、亜鉛、石炭などが掘り出されるようになった。
しかし、前述のとおりローデシアには彼が期待していたほどの鉱物は無く、その開発は細々としたものだった。

一方、ローデシア南部は広大な平地と温暖な気候を有していたことから、南アフリカ会社は農場建設を進めた。いち早く産業革命を成し遂げた工業立国イギリスだが、農業は外国との競争に負けて散々な状態だった。このため、イギリス本国で食いっぱぐれた農民が成功を夢見て次々とアフリカにやってきた。
イギリス人入植者は黒人に土地所有という概念がなかったことに付け込み、広大な土地を占拠していくつもの大規模農場を建設した。このため、土地を取り上げられた黒人は白人所有の農場で働くか、白人地主の下で小作農として生きる羽目になった。当然、白人との対立は激しくなり、耐えかねた黒人は1896年に大規模な反乱が起こすが、約8,000人の死者を出したあげく鎮圧されている。(第1次チムレンガ)


1902年にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国がイギリスに併合されて消滅すると、ケープ植民地を中心とするアフリカ南部のイギリス領は1910年に『南アフリカ連邦』として独立した。独立といってもイギリス本国と喧嘩した訳ではなく、白人入植者が高度な自治権を要求したため、イギリス国王を盟主とする英連邦(※2)の一員として独立しただけのこと。
独立したとはいえ白人入植者の大半はイギリス人で、本国と政治的・経済的に深いつながりがある。利害が一致する両者は英連邦という緩やかな枠組みの中で協調して国益を追求する関係となった。(※3)

しかし、独立後の総選挙で勝利したのはボーア人の政党。貧乏白人が多いボーア人は労働市場で黒人と競合することから、彼らは民族主義的政策を掲げてアパルトヘイトを推進していく。イギリス系移民とは異なり、本国からの支援も無く棄民同然の扱いを受けてきた彼らは、南アフリカを追い出されれば他に行くところが無い。その悲壮感が彼らに強硬的な政治姿勢を取らせた。

※2:英連邦(コモンウェルズ)
英連邦加盟国の国家元首はイギリス国王(女王)。これは当時の南アフリカのみならず、現在のオーストラリアやカナダも同様。しかし、カナダやオーストラリアを見て「あれはイギリスの属国だ、保護領だ」と言う人がいないことから分かるよう、これらの国はイギリスを盟主とする連邦の一員だがれっきとした独立国。当時の南アフリカも同じ。


※3:南アフリカ連邦
第二次世界大戦後、アパルトヘイトで世界中から批難される南アフリカ連邦に対し、イギリスは「帝国主義の時代は終わったのだから、そういう政策はもう止めたら?」と注意するが、逆ギレした南アフリカは1961年に英連邦から脱退して『南アフリカ共和国』となった。



一方のローデシアは南アフリカ連邦に加わらず、南アフリカ会社による統治が継続された。期待していた鉱山開発は不発に終わったものの農業は順調に発展し、トウモロコシやタバコなどの農作物がローデシアから大量に輸出された。
しかし、白人入植者は「南アフリカ会社は自分たちの福祉のために予算をつけてくれない」と不満を募らせ、また行政組織に加えて軍隊まで保有する南アフリカ会社の運営コストは莫大で、鉱山や農業による儲けを食いつぶしていたことから、株主も不満を抱いていた。
両者は「南アフリカ会社は商業活動に専念し、ローデシアにきちんとした行政機関を設置すべし」という点で利害が一致したことから、1915年の特許期限満了に伴って南アフリカ会社の統治は終了することとなった。

当初、南アフリカ会社は南アフリカ連邦へ行政権を移譲する予定で、ローデシアは南アフリカ連邦の領土となるはずだった。ところが入植者がこれに猛反発したため住民投票を行い、その結果を受けてローデシア南部はイギリス領内の自治領として扱われることになり、1923年に『南ローデシア自治政府』が樹立された。
一方、北部は白人入植者が少ないうえに開発があまり進んでおらず貧しい地域だったことから、イギリス政府が引き受けて直轄植民地とした。

南アフリカ連邦国旗   南ローデシア自治政府旗
左:南アフリカ連邦国旗。真ん中にユニオンジャック、オレンジ自由国旗、トランスヴァール共和国旗が配置されている。
右:南ローデシア自治政府旗



ところが、1925年に北ローデシアで大規模な銅鉱脈が発見され、今まで放置されていたこの地域が一転して注目されることになる。欧州で自動車や電気が普及したことに伴って銅の需要が増大していたことから、ローデシア北部では銅鉱山の開発が一気に進んだ。
世界恐慌で銅価格が暴落した際には大損害を出したものの、その後ドイツでナチスが台頭して欧州に香ばしい雰囲気が漂い出すと各国は戦略物資としてローデシア産の銅を買い漁り、高品位の銅を大量に産出する北ローデシア経済はすぐに立ち直った。

これを見た南ローデシアの白人は、鉱山が生む利益のおこぼれを狙って南北ローデシアの合併を訴え出した。しかし、南部は大規模農場を経営する白人入植者が多数いて土着化しているのに対し、北部にいる白人は鉱山開発に携わる人間(短期滞在者)ばかり。イギリス政府は「南ローデシアに住む少数の白人だけでそんな広大な地域を統治するのは無理」として入植者の要求を拒否したが、彼らの不満を宥めるため南ローデシア自治政府で行われていた黒人隔離政策を黙認する態度をとった。
そう、南アフリカ同様この国でもアパルトヘイト政策が取られていたのである。

1920年代の南ローデシアは、南アフリカ会社が利益を上げることができなかったことから分かるとおり、行政コストが高すぎて経済的には停滞する状態が続いていた。そして、1929年に世界恐慌が起こると主力輸出品だったタバコの価格が暴落し、南ローデシア経済はさらに悪化した。
世界恐慌によって生活の危機に瀕した白人入植者達は自治政府の経済政策に対する不満をぶちまけ、黒人を安価な労働力として搾取する政策を掲げていた「改革党」が1933年の総選挙で勝利した。首相となったゴッドフリー・ハギンスは公約どおり南アフリカのアパルトヘイトに通じる人種隔離政策を推進し、それまでも白人入植者の所有する農場で散々コキ使われていた黒人は、土地の所有を制限されたあげく狭い居住区に押し込まれ、奴隷同然の扱いを受けるようになってしまった。

北ローデシアの鉱山労働者用住宅
北ローデシアの鉱山労働者用住宅。物置みたいな粗末な家がずらっと並ぶ。


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