2007.02.04 (Sun)
【黒猫ポンセの野望】「HEARTS OF IRON II」リプレイ(その13)
これまでの経過はこちら。
ポーランドを鎧袖一触 、さらにはフランスも即死させるドイツ軍。
マンシュタインの憂鬱 - 1939年9月21日
ポーランドでドイツ軍が快進撃を見せていた頃、西部戦線でも当初の予想に反して大きな動きがあった。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いの要塞ジークフリート線に『お利口ハンス』ことギュンター・フォン・クルーゲ大将率いる西部方面軍36個師団を配置していたことから、やる気の無いフランスはマジノ要塞に引きこもり、自ら仕掛けてくる様子は全く見られなかった。そこで、フランスと戦争状態に突入したことにより緩衝地帯としての役割が消滅したルクセンブルクへ宣戦布告、速やかに攻略して9月1日に同国を併合した。さらに、その先のメスが何故かガラ開きとなっていたことから、すかさず進軍して9月5日に無血占領に成功。早くもマジノ線の一角を崩した。
これで優位に立った西部方面軍は全軍による一斉攻撃を仕掛けて9月16日にはストラスブールを、22日にはミュールーズを落とし、フランスが心血を注いで作り上げた『難攻不落の要塞群』マジノ線はあっけなく崩壊した。もはや、フランスに雪崩れ込むドイツ軍を阻むものは何もなくなった。
ポーランドを見殺しにしたフランスは、ドイツに宣戦布告しているにも関わらず「ヒトラーはポーランドを手に入れれば満足して戦争を止めるだろう」などと暢気なことを考えていた。しかし、ヴェルサイユ体制によって追い詰められたドイツ人の覚悟は、そんな快楽主義的なフランス人の考えを木っ端微塵に打ち砕いた。 かつて、賠償金の支払いが滞った報復にドイツのルール地方を占領したフランスは、そのたった16年後にドイツ軍によって一国丸ごと占領されかねない事態に陥ったのだ。
9月21日、ヒトラー総統とポテンテ補佐官はワルシャワへ向かい、ポーランド侵攻作戦に参加した将兵をねぎらった。
その日の夜、ささやかながらも祝勝会が開かれた。彼らの大半はこれからすぐに西部戦線へ向かうことになる。せめて今日くらいはハメをはずしてもいいだろう。
その席上、ポテンテはグデーリアン少将と『ドイツ陸軍最強の戦略家』エーリッヒ・フォン・マンシュタイン少将を見つけたので、二人に声を掛けた。ポテンテは、この二人やルントシュテット将軍のことを「高潔なプロイセン軍人の魂と最高の頭脳を併せ持つ男達」と大変尊敬していた。そんなポテンテの想いが伝わったのか、彼らもまた国防軍の良き理解者であるポテンテに好意を持っていた。
西方電撃戦 - 1939年9月22日~10月20日
翌日、ブロンベルク軍団(北部方面軍)は船による輸送となるためダンツィヒへと向かい、ルントシュテット軍団(南部方面軍)は陸路で西部戦線への移動を開始した。ルントシュテット軍団が最前線に到着する10月初旬までに西部方面軍はパリの東方約200kmの地点にあるショモン、ディジョンまで進み、トロア、ランス、パリに陣取るフランス軍主力部隊とにらみ合っていた。
そしてルントシュテット軍団が最前線に到着した10月7日、我が軍はトロアに陣取る敵主力部隊を包囲殲滅すべく、右翼のクルーゲ軍団(西部方面軍)がランスを、左翼のルントシュテット軍団がオセール攻略を開始した。
10月12日には左翼ルントシュッテット軍団が14個師団を蹴散らしてパリへ入城。華の都パリはドイツの手に落ちた。フランス政府はマルセイユに遷都して抵抗を続ける声明を出したが、翌13日にはトロア包囲網が完成し、四方から一斉攻撃を食らったフランス軍主力部隊18個師団は殲滅された。
トロアの部隊は全滅し、ランスの部隊も英仏海峡に追い詰められて殆どが壊滅した。残るパリの部隊もノルマンディ地方に向かって敗走を繰り返し、ドイツ軍を遮るものは皆無となった。疾風ハインツは部下に向かって叫んだ。
「進め!ガソリンが尽きるまで突進するんだ!」
南部を見れば、ジブラルタルからイギリスを追い出したスペイン軍は全軍をフランスへ差し向け、モンペリエ、ニースを攻略してマルセイユの目前まで迫っていた。もはやフランスの降伏は時間の問題となった。また、トルコは当初の打ち合わせどおり中東のフランス領、そしてイギリスの傀儡国であるイラク攻略を順調に進めていた。
フランスもまたポーランドと同じ過ちを犯した。いや、絶望的な状況で健気に戦ったポーランド兵よりも劣った。官僚主義がはびこるフランス軍の組織は硬直化し、陸軍と空軍の連携は皆無だった。しかも、モーリス・ガムラン参謀総長が陣取るパリ郊外の古城には、無線どころか電話線すら引かれていなかったのだ。前線からの報告も各部隊への作戦の伝達も全て伝令兵を用いており、一回の往復で最低48時間を要していた。これではドイツ軍が仕掛ける電撃戦に対抗できるわけがない。伝令兵が5往復する間に、ディジョンにいたルントシュテット軍団はパリまで到達していたのだ。
一方のドイツ軍は高度に機械化されていたうえに、グデーリアン少将の発案によって全車両に無線機が搭載されていた。各部隊の指揮官はいつでもどこからでも無線を用いて的確で迅速な指示を行い、グデーリアンや『砂漠の狐』ことエルヴィン・ロンメル少将などは自ら部隊の先頭に立って指揮を執ることで有名だった。
10月17日、イギリスで元海軍相ウィンストン・チャーチルを首相とする新内閣が発足したが、もはやフランスを救うことはできなかった。そもそも、史実とは異なりイギリスはフランスへ全く援軍を送っていないのだ。イギリスもまた、フランスを見殺しにした。
そして翌18日、フランスはドイツに休戦を申し入れ、フィリップ・ペタン元帥を首相とする親独的中立政権『ヴィシー・フランス(ヴィシー政権)』が成立した。要するに、このままではフランスという国自体が消滅しかねないため、「パリを含む北部を差し出すから、南部と植民地だけは勘弁してください。フランスという国の存続を許してください」というわけだ。
これで残る敵はイギリスのみとなった。ライン川のほとりに作られた大本営まで出向いていて戦況を見守っていたヒトラー総統は、この知らせを聞くと普段の彼からは想像もできないはしゃぎぶりを見せた。
「やった、やったぞ!信じられない。皆、よく戦ってくれた」
事実上の降伏に等しいこの休戦協定によってフランスは何とか欧州から追い出されずに済んだものの、北部をドイツに取られ、南部のモンペリエやニースをスペインに取られ、見るも無残な形となった。また、ヴィシー政権の掲げる放任主義によって中東でシリアとレバノンが独立した。
アフリカの植民地の多くはヴィシー政権に従ったものの、インドシナ植民地(現ベトナム、カンボジア、ラオス)は日本軍の進駐を許し、またシャルル・ド・ゴール将軍率いる一派は赤道アフリカ植民地へ逃亡し、ブラザヴィル(現コンゴ共和国)を暫定首都として徹底抗戦を宣言した。
※史実では、自由フランス政府はイギリスに亡命しますが、このゲームではブラザヴィルへ遷都します。また、仏印進駐も史実では北部(1940年)・南部(1941年)の二回に分けて行われますが、ゲームでは一発で仏印全土が日本領となります。
数日後に行われたフランスとの休戦協定締結の際、ヒトラー総統は第一次世界大戦で両国が休戦協定に調印したときに使われた、コンピエーヌの森にある古い客車を引っ張り出してきた。あれから22年後、今度はフランスが屈辱的な休戦協定を受け入れる立場となったのだ。
その後、ヒトラーはナチ党主任建築家アルベルト・シュペーア(後の軍需大臣)を引き連れてパリへと向かった。かつて画家や建築家になることを目指していた彼にとって、文化と芸術の都パリを訪れることは長年の夢だった。
ハーケンクロイツ(鉤十字)がはためくパリにやって来た総統は子どものように目を輝かせ、ベルリンをパリのような美しい都市にしたいという夢をシュペーアに語った。そして、オペラ座、ルーブル美術館、凱旋門などを観光し、エッフェル塔をバックに記念写真を取り、最後に廃兵院にあるナポレオンの墓を訪れてこう言った。
「ここに来ることが子供の頃からの夢だった。私は今、とても嬉しいよ」
≪つづく≫
ポーランドを鎧袖一触 、さらにはフランスも即死させるドイツ軍。
マンシュタインの憂鬱 - 1939年9月21日
ポーランドでドイツ軍が快進撃を見せていた頃、西部戦線でも当初の予想に反して大きな動きがあった。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いの要塞ジークフリート線に『お利口ハンス』ことギュンター・フォン・クルーゲ大将率いる西部方面軍36個師団を配置していたことから、やる気の無いフランスはマジノ要塞に引きこもり、自ら仕掛けてくる様子は全く見られなかった。そこで、フランスと戦争状態に突入したことにより緩衝地帯としての役割が消滅したルクセンブルクへ宣戦布告、速やかに攻略して9月1日に同国を併合した。さらに、その先のメスが何故かガラ開きとなっていたことから、すかさず進軍して9月5日に無血占領に成功。早くもマジノ線の一角を崩した。
これで優位に立った西部方面軍は全軍による一斉攻撃を仕掛けて9月16日にはストラスブールを、22日にはミュールーズを落とし、フランスが心血を注いで作り上げた『難攻不落の要塞群』マジノ線はあっけなく崩壊した。もはや、フランスに雪崩れ込むドイツ軍を阻むものは何もなくなった。
ポーランドを見殺しにしたフランスは、ドイツに宣戦布告しているにも関わらず「ヒトラーはポーランドを手に入れれば満足して戦争を止めるだろう」などと暢気なことを考えていた。しかし、ヴェルサイユ体制によって追い詰められたドイツ人の覚悟は、そんな快楽主義的なフランス人の考えを木っ端微塵に打ち砕いた。 かつて、賠償金の支払いが滞った報復にドイツのルール地方を占領したフランスは、そのたった16年後にドイツ軍によって一国丸ごと占領されかねない事態に陥ったのだ。
9月21日、ヒトラー総統とポテンテ補佐官はワルシャワへ向かい、ポーランド侵攻作戦に参加した将兵をねぎらった。
その日の夜、ささやかながらも祝勝会が開かれた。彼らの大半はこれからすぐに西部戦線へ向かうことになる。せめて今日くらいはハメをはずしてもいいだろう。
その席上、ポテンテはグデーリアン少将と『ドイツ陸軍最強の戦略家』エーリッヒ・フォン・マンシュタイン少将を見つけたので、二人に声を掛けた。ポテンテは、この二人やルントシュテット将軍のことを「高潔なプロイセン軍人の魂と最高の頭脳を併せ持つ男達」と大変尊敬していた。そんなポテンテの想いが伝わったのか、彼らもまた国防軍の良き理解者であるポテンテに好意を持っていた。
グデーリアン少将、マンシュタイン少将、このたびはおめでとうございます。 やりましたね!見事な戦いぶりでした。 | |
やあ、ポテンテ補佐官。ありがとう。終わってみれば楽勝だったね。 | |
戦う前はどうなることかと思ったけどな。兵士達がポーランドの騎兵隊を怖がるもんだから、「こっちは鉄の馬に乗る騎兵隊だ。ポーランド軍など怖くない!」って怒鳴りつけてまわったんだぜ。 | |
ワルシャワ一番乗りはどちらだったんですか? | |
エーリッヒだよ。 | |
『疾風ハインツ』に勝てて嬉しいよ。 ところで、西部方面軍がマジノ線を突破したそうだね。一体何があったのかね? | |
フランス軍はマジノ線にたった5個師団しか置いてなかったんですよ。だから、西部方面軍と予備兵で総攻撃したら落ちちゃいました。 | |
な、なんだそりゃ?フランスは、こっちの主力がポーランドにいるあいだは大丈夫だと思って油断していたのか? | |
スペイン軍がピレネー山脈を超えて南から進軍してきたので、どうもそちらに主力部隊を移動させていた最中だったようです。 | |
はっはっは、見事な陽動作戦だな。スペイン軍なんてポンコツ民兵ばかりなのにな。 | |
ああ、私の作戦が・・・せっかく華麗にフランスを攻め落とそうと思っていたのに・・・。 | |
華麗な作戦? | |
エーリッヒはマジノ線を迂回して攻める作戦を立てていたのさ。アルデンヌの森を突破してベルギー領に雪崩れ込み、そこからドーバー海峡を目指して突き進み、フランス北部に陣取る連合軍主力部隊の背後を断つ、という作戦だったんだが・・・。 | |
間抜けなフランス軍のせいで台無しになった。w | |
わははは、それは残念でしたね。でもマンシュタインさんの出番はこれからいくらでもありますから、頑張ってくださいね。 |
西方電撃戦 - 1939年9月22日~10月20日
翌日、ブロンベルク軍団(北部方面軍)は船による輸送となるためダンツィヒへと向かい、ルントシュテット軍団(南部方面軍)は陸路で西部戦線への移動を開始した。ルントシュテット軍団が最前線に到着する10月初旬までに西部方面軍はパリの東方約200kmの地点にあるショモン、ディジョンまで進み、トロア、ランス、パリに陣取るフランス軍主力部隊とにらみ合っていた。
そしてルントシュテット軍団が最前線に到着した10月7日、我が軍はトロアに陣取る敵主力部隊を包囲殲滅すべく、右翼のクルーゲ軍団(西部方面軍)がランスを、左翼のルントシュテット軍団がオセール攻略を開始した。
10月12日には左翼ルントシュッテット軍団が14個師団を蹴散らしてパリへ入城。華の都パリはドイツの手に落ちた。フランス政府はマルセイユに遷都して抵抗を続ける声明を出したが、翌13日にはトロア包囲網が完成し、四方から一斉攻撃を食らったフランス軍主力部隊18個師団は殲滅された。
トロアの部隊は全滅し、ランスの部隊も英仏海峡に追い詰められて殆どが壊滅した。残るパリの部隊もノルマンディ地方に向かって敗走を繰り返し、ドイツ軍を遮るものは皆無となった。疾風ハインツは部下に向かって叫んだ。
「進め!ガソリンが尽きるまで突進するんだ!」
南部を見れば、ジブラルタルからイギリスを追い出したスペイン軍は全軍をフランスへ差し向け、モンペリエ、ニースを攻略してマルセイユの目前まで迫っていた。もはやフランスの降伏は時間の問題となった。また、トルコは当初の打ち合わせどおり中東のフランス領、そしてイギリスの傀儡国であるイラク攻略を順調に進めていた。
フランスもまたポーランドと同じ過ちを犯した。いや、絶望的な状況で健気に戦ったポーランド兵よりも劣った。官僚主義がはびこるフランス軍の組織は硬直化し、陸軍と空軍の連携は皆無だった。しかも、モーリス・ガムラン参謀総長が陣取るパリ郊外の古城には、無線どころか電話線すら引かれていなかったのだ。前線からの報告も各部隊への作戦の伝達も全て伝令兵を用いており、一回の往復で最低48時間を要していた。これではドイツ軍が仕掛ける電撃戦に対抗できるわけがない。伝令兵が5往復する間に、ディジョンにいたルントシュテット軍団はパリまで到達していたのだ。
一方のドイツ軍は高度に機械化されていたうえに、グデーリアン少将の発案によって全車両に無線機が搭載されていた。各部隊の指揮官はいつでもどこからでも無線を用いて的確で迅速な指示を行い、グデーリアンや『砂漠の狐』ことエルヴィン・ロンメル少将などは自ら部隊の先頭に立って指揮を執ることで有名だった。
10月17日、イギリスで元海軍相ウィンストン・チャーチルを首相とする新内閣が発足したが、もはやフランスを救うことはできなかった。そもそも、史実とは異なりイギリスはフランスへ全く援軍を送っていないのだ。イギリスもまた、フランスを見殺しにした。
そして翌18日、フランスはドイツに休戦を申し入れ、フィリップ・ペタン元帥を首相とする親独的中立政権『ヴィシー・フランス(ヴィシー政権)』が成立した。要するに、このままではフランスという国自体が消滅しかねないため、「パリを含む北部を差し出すから、南部と植民地だけは勘弁してください。フランスという国の存続を許してください」というわけだ。
これで残る敵はイギリスのみとなった。ライン川のほとりに作られた大本営まで出向いていて戦況を見守っていたヒトラー総統は、この知らせを聞くと普段の彼からは想像もできないはしゃぎぶりを見せた。
「やった、やったぞ!信じられない。皆、よく戦ってくれた」
事実上の降伏に等しいこの休戦協定によってフランスは何とか欧州から追い出されずに済んだものの、北部をドイツに取られ、南部のモンペリエやニースをスペインに取られ、見るも無残な形となった。また、ヴィシー政権の掲げる放任主義によって中東でシリアとレバノンが独立した。
アフリカの植民地の多くはヴィシー政権に従ったものの、インドシナ植民地(現ベトナム、カンボジア、ラオス)は日本軍の進駐を許し、またシャルル・ド・ゴール将軍率いる一派は赤道アフリカ植民地へ逃亡し、ブラザヴィル(現コンゴ共和国)を暫定首都として徹底抗戦を宣言した。
※史実では、自由フランス政府はイギリスに亡命しますが、このゲームではブラザヴィルへ遷都します。また、仏印進駐も史実では北部(1940年)・南部(1941年)の二回に分けて行われますが、ゲームでは一発で仏印全土が日本領となります。
数日後に行われたフランスとの休戦協定締結の際、ヒトラー総統は第一次世界大戦で両国が休戦協定に調印したときに使われた、コンピエーヌの森にある古い客車を引っ張り出してきた。あれから22年後、今度はフランスが屈辱的な休戦協定を受け入れる立場となったのだ。

ハーケンクロイツ(鉤十字)がはためくパリにやって来た総統は子どものように目を輝かせ、ベルリンをパリのような美しい都市にしたいという夢をシュペーアに語った。そして、オペラ座、ルーブル美術館、凱旋門などを観光し、エッフェル塔をバックに記念写真を取り、最後に廃兵院にあるナポレオンの墓を訪れてこう言った。
「ここに来ることが子供の頃からの夢だった。私は今、とても嬉しいよ」
≪つづく≫
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Guicho Zurdo |
2007年02月04日(日) 22:10 | URL |
【コメント編集】
閣下、フランス攻略までなら誰でも華麗に決めると思いますぞ。
真価が問われるのは、やはりバルバロッサ。
真価が問われるのは、やはりバルバロッサ。
黒猫ポンセ |
2007年02月05日(月) 21:19 | URL |
【コメント編集】
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マジノ線マジノ線(仏:Ligne Maginot、英:Maginot Line)は、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線である。当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(Andr? Maginot、1877年 - 1932年)の名を冠してマジノ線と称する。北はロンヴィ(フラン
2007/02/07(水) 12:20:54 | 軍事関連ピックアップワード
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この調子では「あしか作戦」も順風満帆な気がしてならぬ。
だがそんなことよりも、わしの憂鬱は“鎧袖一触”が読めなかった件。